六
ナギはクニに向かって、これ見よがしに怪訝な視線を送った。無理もない。聴いている者がいるのなら、なぜ自分は未だに誰とも踊ることができないのだ。
「いるって、どこに?」
「ほら、ここに」
クニはそう言うと、自分の顔をナギの額にぶつけんばかりに近づけた。その自信に満ちた表情が何ともおかしくて、ナギは思わず吹き出してしまった。
「ちょっとナギ殿、相手の顔を見て笑うものじゃないですよ。やれやれ、話はこれからだというのに」
「ごめん。クニの真顔があんまりおかしくてさ。それで、話ってのは?」
クニは不機嫌そうに口を尖らせているが、目尻が両方とも垂れているところをみると、本気で怒っているわけではなさそうだ。
彼曰く、ナギの歌声はよく通り、かなり遠くの仲間にまで届いているはずだという。だから離れた場所で涼んでいたクニにも、炎天下で歌うナギの声が聞こえたのだ。しかし、歌は聞こえるだけでは駄目。ナギの歌には、何かが決定的に足りない。そう断じたクニは、少し困った顔をして木漏れ陽の先の青空を見上げた。
「僕に足りないもの──。クニにはそれがわかるの?」
「そりゃまあ、一応はわかりますよ。ナギ殿の歌には、美しさがない。仲間たちを魅了する魂。内臓の奥から絞り出されたような、どうしようもないほどの情熱が感じられないんです。だから歌は上手くても、歌っているナギ殿は聴衆の目にとても空虚に映っている」
思いがけない指摘に、落ち込まずにはいられなかった。上手に歌うことこそが重要と思っていただけに、これまで歌が上手い仲間の真似ばかりしてきた自分が、あまりにも滑稽で情けなかった。
「そうだったんだ。美しい歌に必要な情熱って、一体……」
クニの返事は、なかなか返ってこなかった。彼の様子から察するに、どうやら一朝一夕には得られない極めて厄介なものなのだろう。となると、すでに衰えが見え始めているナギが、これからそれを得るのはかなり難しいに違いない。とうに諦めはついているつもりだったが、ナギは自分の胸に噴き上がってくる焼けつくようなもどかしさに、辟易とせずにはいられなかった。
「多分その情熱は、誰の心の中にもあるんだと思います。ただナギ殿には、それを意識したり、燃え上がらせたりするきっかけがなかったんじゃないですかね。うん、きっとそうです」
慰めのつもりなのだろう。クニはナギの顔を覗き込みながらそう言うと、神妙に何度も頷いてみせた。誰の心にもある。でもそれは、きっかけや何かしらの経験がなければ気づくこともできない。ナギは、この広い林の中から一枚の葉っぱを探し出せと言われたような気持ちになり、心中で頭を抱えずにはいられなかった。
「そういえば、クニは歌わないの? 君くらい色んなことを知っているなら、きっと良い歌が歌えると思うんだけど」
「それは盛大な買いかぶりですね。私はナギ殿ほど上手には歌えません。それに私には、歌うことを諦めてでも追いかけたいものがありますから」
ナギはクニの言葉を聞いた途端、宙を見つめたまま黙り込んでしまった。歌うより大事なことなど、今まで考えたこともなかった。物心がついて地中の部屋を抜け出すまでも、この地上で生活を始めてからも、自分は歌うために生まれてきたのだと信じて疑わなかった。クニは自分と違い、これまでどんなことを考え、気づき、選択してきたのだろう。歌いたいという衝動を捨ててまで、一体何を追い求めているのだろう。
「クニは周りにたくさん仲間がいても、歌いたくならないの?」
「歌う気がまったく起きない、と言ったら嘘になります。でも私は、歌っている時間が惜しい。一日のほとんどを歌に費やすくらいなら、私は世界のあらゆるものを見て回りたい。そして、できるだけたくさん美しいものと出会い、その感動を胸に刻みたいのです」
やはりクニは、自分が想像すらしなかった願望を持っていた。本能とも言うべき歌への欲求をねじ伏せてまで、彼は美を追い求めるという。もちろんナギにそんなことはできない。自分にできないことをやっているのだから、やはりクニは凄い男だと思う。しかし、そんなクニが羨ましいかというと、決してそういうわけでもなかった。
ナギは、クニのような生き方があると知った今でも歌うことが好きだし、美しいものより、自分の歌に聴き惚れる仲間たちを欲している。多分、生き方に正解はない。クニはたまたま、そういう道に惹かれる感性を持っていた。そしてナギは、本能に忠実であることが最も自分らしいと自覚している。複雑な事情なんてない。彼らを分けているのは、単にそれだけのことだ。
それからというもの、ナギはクニと頻繁に会って話すようになった。生き方も感性もまるで違う両者だが、なぜか彼らは馬が合った。ナギはクニの物の見方や知識がとても新鮮で、特にクニがこれまで見てきた美しいものの話は格別だった。それに、彼に質問や相談を投げかけると、大抵予想もしなかったような答えが返ってくる。ナギはクニと出会って三日も経たないうちに、彼との刺激的なやり取りに夢中になっていた。
一方、クニはと言うと、彼はナギのように、自分にないものを相手から吸収しようとは思っていないようだった。ただ、ナギと話をしているときの彼は、とても饒舌で陽気だった。歌う時間さえ惜しいと思っている彼が、ナギとの時間だけは惜しまず大事にしている。その気持ちは、他者の気持ちに敏感とは言えないナギにもひしひしと伝わっていた。
数多くいる仲間の中でも、歌うことを捨ててまで我が道を進んでいるのは彼だけだ。故に、彼ほどの孤独を背負っている者は他にいないだろう。だからこそ彼は、ナギとの会話に
では、なぜその相手は他の誰でもなく、凡庸で大した面白みもないナギだったのか。それはクニ本人にしかわからないことだが、何となく察しはついていた。クニがナギに興味を持った理由は名前だ。自ら名前を求め、名前を持つことを誇りに思っている。ナギは、互いが持つこの共通点こそが、自分とクニの心を強く結びつけているような気がしてならなかった。クニの言葉を借りるなら、自分たちを結びつけている名前もきっと、クニが愛してやまない『美しいもの』の一つなのだろう。
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