五
そういった悲観を放っておくと、そのうち追い詰められた心身が彼を取り殺していたかもしれない。だが幸い、そうはならなかった。彼が孤独ではなくなったからだ。ただ、孤独からは脱したものの、それは彼が当初から望んでいた形ではなかった。この奇妙な巡り合わせばかりは、運命の悪戯としか言いようがない。
その日の彼は、早朝からずっと歌いづめだった。暑い季節だけに、林の歌声は涼しい夜明けから始まり、気温が上がり切る正午前にはぴたりと止まる。暑さで参ってしまわないよう、気温が下がるまで木陰で涼むからだ。しかしその日は、暑い時間になってもひたすら歌い続ける者がいた。生まれ育ったモミの木にしがみつき、半ば
「──美しくない。誰です? いつまでも未練がましい声で歌っているのは」
誰かの声が聞こえたかと思うと、小柄な男が飛んで来て彼の隣にとまった。彼は思いも寄らない訪問者を前に、歌をとめてぽかんと口を開けるしかなかった。
「しつこく歌っていたのは君? こんなに暑いのに、どうして歌い続けているんです?」
小柄な男は彼の鼻先まで歩み寄って、真正面から顔を覗き込んできた。どうやら真剣に彼を問いただそうとしているらしい。
「いつまで歌おうと、僕の勝手だろ。今は他に誰も歌っていない。僕の声だけがみんなに届く時間なんだ。この一人舞台が羨ましいのなら、君も文句なんて言ってないで歌えばいい」
厳しく言い返せば、たじろいで逃げていくだろうと思っていた。ところが小柄な男は、逃げるどころかますます目を吊り上げて食ってかかってきた。
「何です、その態度は。そんな心がけだから、歌声だって魅力がないんですよ。あんな歌を聴くくらいなら、沼でウシガエルの鳴き声でも聴いていたほうがマシです」
「うるさい! そこまで言うんなら、お前はさぞ歌が上手いんだろうな。歌ってみろよ。そんな小さな身体で、どこまで歌声を響かせることができるか見ものだな」
煽り気味に言ってみても、小柄な男は眉ひとつ動かさず平然としている。よほど歌に自信があるのか、はたまた煽られていることを理解していないのか。
「私は歌いません。歌を捨てた身ですから。それに、もし歌を捨てていなかったとしても……」
そこまで言うと、小柄な男は深々と溜め息をついてそっぽを向いた。
「美を解しないウシガエルに聴かせる歌はありません」
さすがに黙っていられず、彼は翅をぶるりと震わせて声を荒げた。
「誰がウシガエルだ! だったらお前は陰気で口だけのコオロギか? せいぜいウシガエルに食われないよう気をつけるんだな。それに僕にはウシガエルじゃなく、ナギという名前だってあるんだ」
そっぽを向いた相手に捨て台詞を吐いたのだ。小柄な男はこの空気に堪えられず、飛び去るとばかり思っていた。ところが男は飛び去るどころか、一旦背を向けた身体を再びぐるりと回して、彼に向き直った。しかもその目は先ほどまでと違って、驚きと好奇に満ちている。
「──名前、持っているんですね」
小柄な男の口調に、これまでのような棘はなかった。そのあまりの豹変ぶりに、面食らわずにはいられない。
「あ、ああ。それがどうした」
「私も名前、持ってます。クニです。よろしく、ナギ殿」
一転して温和になったクニは、カニ歩きでいそいそとナギに並ぶと、機嫌よくじじじと鳴いてみせた。何が何だか、訳がわからない。
「いきなりどうしたのさ。名前がそんなに珍しい?」
「ええ、もちろん。名前を持っている仲間に出会ったのは初めてです。しかも、なんて美しい名前!」
まさか褒められるとは思わなかった。今の今まで憎らしいことを言っていた相手だが、さんざん時間をかけて考えた自分の名前を褒められれば悪い気はしない。ナギは先ほどまで煮え立っていた気持ちのやり場に困って、視線を所在なく漂わせた。
「──あ、ありがとう、君の名前もなかなか良いと思うよ。それはそうと、君はどうして僕の歌に横槍なんか入れたのさ」
ナギの質問を聞くや否や、クニは悪戯っぽくニヤついて、自分の肩をナギの肩にぴたりと寄せた。内緒話でも始めるつもりだろうか。
「それはですね、ナギ殿の歌があまりにも下手くそ……」
横目でじろりと睨みつけると、クニは無邪気に苦笑を浮かべて、さらに肩を寄せてきた。
「まあまあ。半分は冗談です」
「半分?」
「はい。だから、もう半分は素直な感想ということになります。ナギ殿、やけっぱちになっていたでしょう? あれでは誰も聴いてくれませんよ」
確かにクニの言う通り、ナギは半ば投げやりになっていた。どうせ誰も聴いていやしない。歌っているのは自分だけとはいえ、もしこれほどの炎天下で歌を聴く者がいたとしたら、酔狂にもほどがある。
「だって、誰も聴いてくれないからさ。ちゃんと聴いてくれる仲間がいるのなら、僕だって真剣に……」
「いますって。絶対に。間違いなく」
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