第2話

――今日は早く寝なさい。お母さんのことは、心配しなくても大丈夫だから。明日の朝は、七時に十五階のビュッフェ会場でな。

 ホテルのレストランで夕食を済ませたあと、父はそう告げて一足早くエレベーターを降りた。

 母は朝の一件のあと調子を崩し、ずっと横になっている。兄達を立て続けに亡くした頃から、母の心には壊れたまま戻らないところがあるらしい。それでよく私を産んだものだと思っていたが、実際には「産まされた」のだろう。この年になれば分かる。でも跡継ぎなんて、そんなに必要なものなのか。事務所だって、優秀な部下に任せればいいだけなのに。

――そっか。高三だからGWもあったもんじゃないよね。やっぱり、法学部?

 思い出した言葉に苛立って、問題集を閉じる。そこそこの時間を費やしたはずなのに、まるで達成感がない。まあ、仕方ないだろう。あんなことがあったのに、受験勉強なんてやってられるわけがない。かといって祖母との優しい思い出に浸るのも、今朝の光景がまとわりついていてできない。あの胡散臭い男が犯人だとして、なんの目的であんな殺し方をしたのか。

 ぞわりと這い上がる感触に腕をさすり、思考を切り上げる。気づけば〇時を過ぎていた時計を確かめて、歯みがきに向かった。


 突然聞こえた妙な物音に、ぱっと目を覚ます。怖い夢は見ていなかったはずだが、全身は汗でじっとりと湿っていた。視界を占める白い天井に、ここがホテルであることを思い出す。家とは違う明るめの常夜灯が、辺りをおぼろに照らしていた。

 枕元のスマホに手を伸ばした時、かちかちと器が小さくぶつかり合うような音が響く。慌ててスマホを手元に引き込み、布団を引き上げて顔を隠した。

 どういうことだ。ここは安全じゃなかったのか。

 どくどくと打ち始めた胸を押さえ、布団の中で深呼吸をする。確かめた時刻は、二時を過ぎた辺りだった。「丑三つ時」か。

 また聞こえ始めた音に少しだけ顔を出して、音の出どころを部屋の奥に探る。窓際の、大きく開いたキャリーケースの上にあの壺が見えて、びくりとした。

 どうして、と思った瞬間、壺のふたが開いて傍らに転がる。そしてそこから、到底大きさの合わない棒のような……いや、棒ではない。腕だ。壺から這い出てきた上半身は、両肘より上しかない男性に見えた。長い黒髪が、蔦のように痩せた体に絡みついている。怖くてもう見たくないのに視線を逸らせなくて、泣きそうになる。

 声を出さないように唇を噛み締め、布団を口に押しつけて息を殺す。うう、と高めな声で呻きながら、それは蛇のように壺から這い出た。角度と暗さのせいではっきりとは見えなかったが、多分、両膝から下もない。幽霊、なのだろうか。

 昨日と似た音を立てながら、幽霊はじゅうたん張りの床を這い始める。でも不意に動きを止めて髪に覆われた顔をもたげ、私の方を見た。どこに目があるのかも分からないのに、視線が合うのが分かった。……終わった。

 ざあ、と血の気が引くのが分かる。幽霊は上腕しかない腕を突いて体を起こすと、大きく口を開いた。うあああ、と呻き声を上げて迫ってくる幽霊に目を瞑った時、ばちん、と何かが弾かれるような音がした。

 それきり消えた音と気配に、ゆっくりと目を開けて辺りを確かめる。さっきまでそこにいたはずの幽霊も、キャリーバッグの上に見えた壺も消えていた。


 朝を知らせるアラーム音に浅い眠りから起きると、ベッドの脇に小さな紙が落ちていた。手に取ったそれは人の形をした和紙で、流麗な筆文字で私の名前が書いてあった。確か、形代だ。大祓の時に、神社で書いたことがある。昨日の夜、守ってくれたのはこれかもしれない。でもこれは、私が書いたものではない。じゃあ、誰が。

 守られたのに気味悪さもある釈然としないものを抱えたまま、ひとまず父と朝食を食べるために十五階へ向かった。

 でも、父は来なかった。もちろん母も。私が十五階へ向かったその頃にはもう、部屋で死んでいた。母は両膝から下が、父はそれに加えて両肘から下がなくなっていた。



 連れて行かれた警察署の一室で、三宅と和田山は端的に、両親に抵抗した様子はなかったこと、誰かが部屋に侵入した形跡がなかったことを告げた。捜査は続けるが期待はしないでほしいと、与えられたのは消極的な展望だった。

「大丈夫?」

 薄暗い廊下を並んで歩きながら、和田山は控えめに私をうかがう。

「どうなんでしょう。なんか、変な感じなんです。両親が死んだ悲しみはまだ感じられないのに、これからどうして生きていけばいいんだろうって不安だけはすごくあって。半分ふわふわしてるのに、もう半分は焦りで落ち着かないんです」

 事務所は優秀な人達がうまくやってくれるはずだから、心配はしていない。問題は、私だ。一人で生きていく方法を、私は何も知らない。大学進学どころかGW明けに学校に登校することすら、多分もう難しい。

 そもそもあの壺がある限り、私は生きられないのではないだろうか。それなら、もう。

 千春ちはるちゃん、と呼ばれた声に、はっとして顔を上げる。気づくと、もう警察署の玄関を出ていた。

「すみません。なんか頭の中がぐちゃぐちゃで」

「気にしなくてもいいよ。そうなるのは当然だから。それで」

 和田山は一旦言葉を区切ると周囲を見回し、素早く私の手にメモを握らせた。

「メモに書いてある住所に行ってみて。胡散臭いのは確かだけど、君を助けてくれるはずだから」

 驚いて見上げた私に、和田山は少し体を屈める。

「形代が役に立って良かったと言ってた」

 続いた言葉にまた驚いて、じっと見返した。あれは、あの男性がしてくれたことだったのか。……それなら、本当に助けてくれるかもしれない。無理だったとしても、どのみち私にはどうにもできないのだ。賭けてみる価値はあるだろう。

「分かりました。行ってみます」

 決意を口にした私に、和田山は笑みで頷いた。

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