犠牲の坩堝

魚崎 依知子

第1話

 我が家の玄関には、いつからなのか、古びた壺が飾ってある。私が物心ついた頃には既にあったから、少なくとも十三、四年くらいは経っているだろう。

 高さ十五センチ程でふたつきの、ぽってりとした丸い壺だ。くすんだ白地の肌に書かれた青い文字は、ぼやけていて全く読み取れない。見るからに地味でぱっとしない壺だ。でも玄関の一等地である掛け軸の下に、ずっと鎮座し続けている。

 我が家で骨董品を愛でるのは祖母だけだから、よっぽどのお気に入りなのだろうと思っていた。

――玄関に、壺? なあに、それ。

 当の祖母が、怪訝な表情で返すまでは。



 気づくと浅くなっていた息を深くして、仏間には似合わない客を一瞥する。

「最初は、祖母が認知症になったのかと思いました。でも両親も、知らないって。慌てて父を連れて玄関に行きましたが、本当に見えていないようでした」

「家族の中で、あなたにだけ見えていたんですね」

 ぼそぼそと続きを話し始めた私に、座卓の向こうから和田山わだやまが確かめるように返す。二人来た刑事の、若い方だ。三十代くらいか、背が高くて地味な顔立ちだが、小綺麗で眉も整えてある。一方で隣の年寄り……といっても父と同じ五十代だろうが、三宅みやけは背が低くて頭が大きく、和田山と並ぶと遠近感がおかしい。ぼさぼさの眉を寄せて、相槌も打たずにじっと私を睨んでいる。まるで、嘘をつくなと言いたげな目つきだ。

 でも、私が殺したんじゃない。朝食の時間になっても起きてこないから呼びに行ったら、死んでいた。殺されていたのだ。

 布団の上にまで滲み出ていた血に慌ててめくったら、血まみれの祖母がそこにいた。腰が抜けて座り込んだら、それきり動けなくなってしまった。両親を呼びたいのに声が出ず、惨状から視線を逃すだけで精一杯だった。

 その時は、両手が失くなっていることにしか気付いていなかったが、刑事の話では両足も、らしい。でも、まだ悲しむところまで気持ちが行かない。思い出しただけで、吐き気がする。

「すみません、つらいですよね。少しずつでいいので」

 口元を押さえて俯いた私に、和田山が気遣う声を掛けた。だからといって、解放してはくれないのだろう。犯人の心当たりがあるなんて、言わなければ良かったのか。でも、疑わしい人間がいる。

「その時、初めて壺に触ってふたも開けて見せました。でも父はやっぱりまるで見えていなくて……受験がつらいなら、志望大学のランク落としてもいいんだぞって言われました。子供の頃から見えてるって訴えたのに」

 多分、身近な問題と結びつけて安心したかったのだろう。そうでなければ、娘が昔から何か恐ろしいものを抱えていることになってしまう。

「そっか。高三だからGWもあったもんじゃないよね。やっぱり、法学部?」

 少し口調を崩して尋ねた和田山に、小さく頷く。

 我が家、福行ふくゆきの家は、元々は山奥の集落で長く庄屋をしていた筋らしい。でも祖父は集落を出て市内に居を構え、結婚して弁護士事務所を開いた。祖父亡きあとは父が後を継ぎ、次は私の予定だ。

 本当なら、二人いた兄が継ぐ予定だったのだろう。でも二人とも、産まれてすぐに亡くなった。視線をやれば、仏壇の上に並んだ赤ちゃんの遺影がある。ここまで育ったのは、私だけだった。

「その時は大丈夫だって答えたんですけど、やっぱり私だけ見えるのはおかしいですよね。それで昨日、大学図書館へ調べに行って、幻覚や幻視の症例に辿り着いたんです。ただ、決めつけるには腑に落ちなくて」

 挙げられていた症例は、確かに近いものではあった。でもそのほかの症状がまるでなく、ただそれだけが人生十七年のほとんどで継続していることへの答えは見つけられなかった。

「その帰り道、家の前で声を掛けられたんです。胡散臭い男の人に。多分三十代半ばくらいの、背が高くて痩せた、姿勢の悪い人でした。黒い細身のスーツを着て、白シャツの胸元を大きく開けてました」

「顔は覚えてますか」

 久し振りに口を挟んだ三宅は、いつの間にかメモを取り出して捜査の体勢だ。ようやく現実味を帯びた内容に、やる気になったのかもしれない。

「はい。爬虫類っぽい冷ややかできつい感じの顔立ちで、視線が鋭い人でした。無精髭が生えていて、長い黒髪を後ろで結んでました」

 見るからに胡散臭い、妙な雰囲気のある男だった。玄関の門をくぐろうとした私の背後から声を掛けてきて、いきなり「壺のことでお困りではありませんか」と尋ねたのだ。

「その男性は、あの壺はとても危険なものだと言いました。私がふたを開けたことで良くないものが出てしまったので、このままだと我が家に不幸が訪れると。でも急にそんなことを言われても気味が悪くて、家の中へ逃げ帰りました」

 一息ついて視線を上げると、和田山が少し渋い表情をしている。今の説明に、何かまずいところがあっただろうか。

「男は、そのあと家を訪ねては?」

「来ませんでした。もしかしたら霊能者とか、その手の人だったのかもしれません。それはそれで、疑わしいですけど」

 家族にしか話していない壺のことを知っていて、私がふたを開けたことまで分かっていた。あの壺に関係しているのは、間違いないだろう。

「昨日の夜、怖い夢を見たんです。あの壺よりもっと大きい、甕みたいなものから何かが出てきて、私の方にずるずると這い寄ってくる夢でした。怖くて目を覚ましたら、本当に何かが這いずる音が、廊下の方でし始めたんです」

 まだ夢を見ているのかと思ったが、肌に滲む汗と動悸は本物だった。恐ろしくなって布団を被り、音が消えるのを祈りながら待った。

「何時頃ですか」

「怖くて時刻は確かめませんでしたが、まだ明るくなっていませんでした」

「それで、音はどこへ?」

「私の部屋の前を通り過ぎて奥へと、祖母の部屋の方へと行きました」

 我が家は平屋のコの字型で、真ん中に中庭がある。中庭を挟んで東側に両親の部屋があり、西側に私と祖母の部屋がある。祖母は八十を過ぎたこともありトイレや居間に近い方がいいのではと思ったのだが、祖父との思い出深い奥の部屋から動きたがらなかった。

「悲鳴や大きな物音などは?」

「聞いていません。布団を被って震えているうちに、眠ってしまってて。気づいたら、朝でした」

 当然目覚めは悪く、洗面台に映る顔は既に疲れて見えた。昨日のあれは、どこまでが夢だったのだろう。耳にはまだあの、何かが這いずっていく音がこびりついている。

「今のところ、廊下にはそれらしき跡を見つけられてないようですが」

 三宅は廊下の方を一瞥してから、再び私に探るような視線を向ける。それなら、やっぱり全部が夢だったのか。

「でも、最近あった変わったことって、壺とその人しかないんです。もう……何が現実で幻覚なのか、分かりません」

「えっと、とりあえず今日明日は、捜査のためにここは立入禁止になります。ホテルで、ちょっとゆっくりしたらいいんじゃないかな」

 力なく答えて俯いた私に、和田山は慌てた様子でフォローを入れる。これからここは本格的な捜査現場になるから、私達はここにいてはいけないらしい。

「そうですね、そうします」

 気落ちしたまま答えて、顔を上げる。もういいですか、と三宅に尋ねると、渋い顔で頷いた。

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