最終話
文乃は神倉別邸の庭、テーブルの上でぼんやりと庭を眺めていた。
気付けば盛夏も真っ盛り、夏用の着物もいくつかあつらえてもらった。 庭の緑は日増しにむせかえるように、色濃くなっていく。
その中を突如として、人影がよぎった。
鮮やかな赤色の振袖を着た少女が、こちらに向かって歩いてきていた。
鶴に花輪をちりばめた豪奢な振袖。
どこか名のある家の人だろうか。
微笑みながら、こちらにやってくる。
「ごきげんよう、塵塚文乃さま、それとも神倉文乃さまとお呼びするべきでしょうか」
「……ま、まだ塵塚です」
神倉冬一は、あの後、神倉家から籍を外された。結果として宗十郎の母の容態はやや回復した。典堂からも今の神倉家ならいつ文乃が加わっても問題ないと太鼓判をもらった。
それでもいろいろと立て込んでおり、文乃はまだ塵塚のままだ。
「そう」
少女はコロコロと笑った。
少女だ、と一目見て思ったが、彼女はなかなかに年齢不詳であった。
しゃべり方は落ち着いていて、大人びている。
表情は華やかで少女の無邪気さがある。
所作は優雅で、品がある。
「……あなたは?」
「わたくしは文車
「あ、あなたが……」
ずっと気になっていて、結局詳しく聞けなかった人。宗十郎を振った文車家の人。
「はい。式の日取りが決まったと聞きまして、でも、ほら、さすがにわたくしが出席するのはずうずうしいというものですから、ご挨拶にまいりました」
「そうでしたか。えっと……宗十郎さんは今日も不在で」
あれから宗十郎はあちこち駆けずり回っている。とにかく忙しい中、お互いの心が決まっているなら、さっさと結婚はしてしまいなさいという宗十郎の母による鶴の一声で、式の日取りが決まった。
最近うっすら気付いたのだが、どうも神倉家を実質的に動かしているのは、宗十郎の母のようだ。
「存じ上げております。ですから、宗十郎さまにはお手紙を」
そう言って奏子は縦長に折られた手紙を取り出した。
「お預けしてもよろしいかしら」
「は、はい……」
文乃は預かった手紙に視線を落とす。
何が書かれているのだろう。
「ふふふ」
奏子はまた笑った。楽しげな、けれど、どこか妖しげな、笑み。
「とにかく文乃さまがお元気そうでよかったです。それにしても、こうしてお目にかかってみると、何を話していいやら、困りますね」
「そ、そうですね……」
「なんだか初めて会った気がいたしませんもの」
そちらには同意しかねる。
奏子のような人間に文乃は会ったことがない。
「ねえ、文乃さま、何か不自由はされておりませんこと?」
「だ、大丈夫です。皆さんよくしてくださってます」
「それはよかった。私が聞きたいのはそのくらいですの……どうしましょう。文乃さまからはわたくしに何かありまして?」
「……えっと、あの……」
頭をよぎる言葉。
「塵塚と文車がいっしょになるのは、皮肉なことだったと思われますか?」
「徒然草ですか」
まるで神倉別邸での会話を聞いていたかのような察しの良さで、彼女はそう言った。
「ええ、そうですね、皮肉かどうかはさておき、もくろみは成功いたしました」
「…………」
「宗十郎さまはあの書き付けに塵塚家縁起と名付けられました。聡明なこと。ええ、ええ、塵塚家の物の怪に生まれたばかりの空っぽの子供を重ね合わせる。見事に術は成就しております」
「……空っぽの子供」
「物の怪の器にするのなら、中身は不要ですからね」
「……名前も?」
「不要です」
「…………」
「あなたのご母堂は、塵塚家の物の怪に対処するために、請われて塵塚家に嫁ぎました」
「…………」
「そして塵塚家縁起を書き納め、それに生まれてきた子供を重ねたのです」
「私」
「あなた」
「では、私は……」
「今のあなたに塵塚家の物の怪は見事に同化しておりましてよ」
「…………」
「宗十郎さま達手練れが揃いも揃って塵塚家に物の怪はいなかったと断ずるのも無理はありません。要するに冬一さまと同じ手口です。呪詛には呪いを、物の怪には妖しげなる者を。重ね合わせてしまえば、どちらかが見えなくなる。冬一さまに返っていた文車への呪詛は、神倉の呪いでかき消され、あなたに宿っていた塵塚の物の怪は、文車の術でかき消されていたのです」
「では、私は物の怪なのですか?」
「いいえ、まさか」
奏は微笑んだ。
「あなたは物の怪の力を封じているだけです。誇ってくださいまし」
「…………」
「ただ文字が暴れるのは、あれは文車の力ではありません。塵塚の物の怪の方の力です」
ある意味、当たってはいたのだ。文乃の妖しい力は、塵塚の呪いだった。
「まあ、いいではありませんの。そのようなものを背負っても生きていけるのです、あなたは。それに、本当に聞きたいことですか? そのような枝葉末節が」
「……そう、ですね」
聞くなら、今しかないような気がした。
「奏子さまは」
「かなで」
「はい?」
「
「お友達……」
「ああ、文乃さまは私のお友達になるのはお嫌かもしれないけれど……」
「い、いえ、そのようなことは。奏さまは、あの、どうして……宗十郎さんと破談になってしまったのでしょうか」
「あら、聞いておりませんの?」
「ふ、振られたと、宗十郎さんはおっしゃってましたけど、その、なら、どうして振ったのかな、と」
「ああ、まあ、確かに、ご本人には聞きづらいですわね。どこに問題がおありになったのか、本人に聞くようなものですものね」
「はい……」
「でも、ご安心なさって。宗十郎さまには何の非もないことですわ。あの方は素晴らしい方です。ただわたくしが、恋をしただけのことです」
「なるほど、なるほど?」
思いがけない言葉に、一旦はうなずいたものの、文乃は首をかしげる。
「恋……? えっと、それは奏さまが、どなたかに恋をされたということですか?」
「はい。とっても素敵な方ですの。それまでの使命を放り投げてしまいたくなるほどに、誰よりも素敵な方でしたの。そんな恋をしてしまったものですから、そんな思いを抱えたまま他の方に嫁ぐなんて出来ませんでした。だから宗十郎さまには平謝りでお願いしましたら、あっさり許してくださいました」
しみじみと奏子はそう言った。
「信じられません」
そんな奏子を、文乃は否定した。
「あらまあ」
奏子は困ったように首をかしげた。
「だ、だって……じゃあ、奏さまが恋をしたのは、宗十郎さんを振るほどに、宗十郎さんより素敵な方ということですか……?」
「ええ、はい」
「そんな人、いるのですか……?」
「あら、あら、うふふ」
奏子はずいぶんと嬉しそうに笑った。
「まあまあ、本当にね、わたくし心配していたんですけれど、杞憂でしたね。あなたも、恋をしたのですね」
「え?」
「そうでしょう? その人以外考えられないというほどに、宗十郎さまに恋をしたのですね。素敵」
「…………」
文乃は黙ってしまった。言葉が出なかった。言われてしまえば、そうなのかもしれない。自覚がなかった。
自覚してしまえば、言葉がない。ただただ自分の心に戸惑う。
恋をしているのか、文乃は。
「あの、でも、そんな、恋、なんて理由は、神倉家の人が呪いで苦しむのを、見捨ててよい理由になんて……」
「ええ、あなたのおっしゃるとおりです」
奏子は毅然とうなずいた。その顔から笑みは消えた。
どこかつかみ所の無かった表情が、一気に険しいものです。
「本当に、その通り。正当な理由ではございません。ですから次の婚約者選びには全力で協力いたしました。文車家の者に絞らず、ありとあらゆる方を探しました。名家も、在野も関係なく、駆けずり回って探しました。その中で、あなたが見つかった。そして宗十郎さまはあなたを選んだ」
「それは……知りませんでした」
「ええ、そうでしょうとも。元婚約者の存在までは仕方なくとも、ご自分以外の結婚相手の候補を知らせるだなんて、そんなのはもう誠実を通り越して無神経です。宗十郎さまはそのような方ではありません」
「はい。でも、そのように探してらしたのなら、私以上に適任で実績のある方は、いらっしゃったのではありませんか……?」
「いらっしゃいました」
「…………どうして」
「ひとつは文車の人間であったこと。これはそもそも易の結果でしたの。神倉家が次に娶るなら、一番よいのは文車家の女子。これは宗十郎さまがお生まれになる前に出た結果です」
それも、知らない。
「ですからわたくしたちの意思は関係なく、物心ついたときには婚約関係は決まっておりました。まあ、それは今となってはどうでもよいことです」
奏子は肩をすくめた。
「もうひとつは、本当にただただ単純なこと。宗十郎さまはあなたの境遇を知って、ずいぶんと心を痛めていらっしゃいました」
「え……」
「賭けになると申しても、かたくなにこの方にするとおっしゃって聞き入れませんでした。あとはもうあなたが見聞きした通りです」
「そ、そんな……そんな無茶を……」
「よろしいではありませんの。あの方の哀れみから来る選択が、結果的にはあなたに恋をもたらした。これ以上ない人とお互いに出会えた。人生万事塞翁が馬とはこのことですわ」
「……私にとってはそうでも、宗十郎さんにとっては、そんなこと」
「いいえ」
奏子は気付けば微笑みを取り戻していた。
「わたくしからはこれ以上はもうしませんわ。宗十郎さまにお聞きなさいな」
「…………」
聞けるだろうか。文乃にそのような勇気があるだろうか。
文乃にとってはすべてよかった。奏子の言うとおり、人生万事塞翁が馬だ。けれども宗十郎にとってはどうだろう。もっとよい選択が、彼にはあったのではないか?
そんなこと、一人で考えても仕方ないのに。
「ふふふ。じゃあ邪魔者は消えましょう。さようなら、文乃さま。文車家のことなどで、またお目にかかることもあるでしょう。その時まで宗十郎さまとどうかお元気で」
「あ、あの!」
「あら、まだ何か?」
「か、奏さまは、今、その恋は、どうなったのですか?」
「ああ、それは……」
奏子は人差し指を口元に当てた。
「それは乙女の秘密です」
「…………」
「手紙、気になるんでしたら、どうぞ先にお読みになって。宗十郎さまも気にしませんでしょうから」
文乃が抱えたままの手紙に、奏子が目をやる。
「い、いえ、そのようなことはできません」
「そう。では、これは風のせいということで」
そういうと奏子はばっと文乃の持っていた手紙を取り上げ、折り目をほどいて、ばさっと広げてしまった。
文字が丸見えになる。
「では、わたくしはこれにてごきげんよう。どうぞお幸せに」
奏子は今度こそ本当に去って行ってしまった。
あっという間にその姿は見えなくなった。
まるで最初から、そんな人はいなかったかのように。
ただバラバラになった手紙だけが残された。
「あ、ああ……」
書いた本人によって広げられた手紙をあわあわと回収する。
文字が見える。
綺麗な文字だ。どこか懐かしい雰囲気の文字だ。母の文字に似ている。そして文乃の文字にも似ている。
おそらくこれが文車家の文字なのだろう。今更、気付いた
「う、うう……」
折りたたみ直そうとしている合間に、手紙のほとんどが目に入ってしまった。
手紙の中身にたいしたことは書いていなかった。
時候の挨拶に始まり、結婚への祝福、文乃を頼むという文車家の人間としての一言、そして神倉冬一の顛末について。
さすがにそこは読み飛ばせなくて、文乃はそこを読んでしまった。
神倉冬一は現在、文車家の元で呪詛についての調べを受けているのだという。
あれだけの呪詛を子供で門外漢の冬一ひとりで敢行できるとは思えず、背景について文車家を中心に調べているが、神倉冬一はがんとして口を割らない。宗十郎さえよければ、冬一に一度会って説得をしてほしい。そう書かれていた。
「…………」
文乃は手紙を握りしめ、迷う。
これを宗十郎に読ませてもよいものか、悩む。
宗十郎にはこれ以上傷ついてほしくはなかった。
冬一と会ったところで、次に何を言うのか、皆目見当がつかなかった。
冬一を説得することは、宗十郎をさらに傷つけるのではないか。文乃にはどうしてもその不安があった。
けれども――。
「これは、宗十郎さんへの手紙なのだから」
文乃はきっぱりと自分に言い聞かせた。
こうして自分が読んでしまう羽目になったけれど、決めるのは宗十郎だ。そうであるべきだ。
宗十郎がいつでも文乃に対して選択肢を残してくれていたように。
文乃はどうにもうまく元のようには折れなかった手紙を握りしめ、神倉別邸へと戻る。
戻ろう。そして今日も宗十郎の帰りを待とう。
彼は帰ってくるのだから。
そして奏子に教えられたことを、宗十郎にきちんと伝えたい。
どうやら私はあなたに恋をしているようです、と。
そして聞いてみたい。
あなたはどうですか、と。
その勇気があるかは、やっぱり自信がなかったけれど、文乃は宗十郎を待つために、家に戻った。
異能の乙女は筆先から呪詛を解く 狭倉朏 @Hazakura_Mikaduki
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