第20話 夜明け前

 宗十郎の腕に引っ張られて、文乃は彼の胸の中に飛び込んだ。

 その途端、墨は晴れた。

 二人の周りから墨は飛び散った。

 一瞬、何かしたのかと思ったが、違う。

 これは護符の力だ。二人が合流したことで、護符が完成、いや元通りになった。

 まだふたりから離れたところに墨は渦巻いていたが、ふたりの周りは守られていた。

「……宗十郎さん、大丈夫ですか?」

「俺は大丈夫だ。すまない、文乃さん、ひとりで、怖かっただろう」

 文乃を強く抱きしめながら、宗十郎はそう言った。その声は泣いているように聞こえたけれど、文乃の顔は宗十郎の胸に埋もれていて、彼の顔が見えなかった。

「いえ……宗十郎さん、私、大丈夫です」

「……俺は、もう大丈夫じゃない」

「宗十郎さん……」

 今までになく直截的な弱音に、文乃まで泣きそうになる。

 あんなに喜んでいたのに、兄といっしょにいられることが至上の喜びとでも言わんばかりだったのに。

 その兄が、彼を最悪の形で裏切っていた。

「俺は君をこんなところに引きずり込んだ」

「引っ張り出してくれたんですよ、宗十郎さんは」

 その言葉は勝手に口をついて出た。

「宗十郎さんがいなくちゃ、私、ここにいないです」

「でも、それは、元を辿れば、俺の兄のせいで……」

「でも、今、私を抱きしめてくれているのは宗十郎さんなんです」

 文乃はそう言って顔を上げた。

 少し高いところに泣いている宗十郎の顔がある。

「私には、あなたしかいないんです」

「……それも、俺たちのせいだ」

「宗十郎さんだって、言ってくれたじゃないですか、何もできないことも一緒に悲しもうって」

「それは……自分が被害者だと思い込んでいた恥知らずの言葉だ」

「じゃあ、お願いします。私と一緒に悲しんで、喜んで、生きてください」

「…………」

「私と、結婚してください」

「はい」

 宗十郎の即答を文乃は一瞬、怪訝に思う。言わせてしまったのではないかと思う。宗十郎の弱みにつけ込んでいないかと思う。

 けれども、見上げた宗十郎の顔はどこかすがすがしかった。

「うん、そうだ。結婚しよう」

 宗十郎がうなずいた。

「俺の、妻になってくれ」

「はい、もちろんです」


 その瞬間、墨がほどけていった。


 ふたりの遠くにある墨もどんどんとほどけていく。

「これは……」

「君が神倉家の人間になったんだ。おそらく兄の呪詛も君に降りかかっている。文車家の呪詛を中和できる君のおかげで、暴走が抑えられた」

「あ……」

「まあ、言葉だけ……いや、心だけ、か。今、俺たちは夫婦になった。どんな儀式も証人も要らない。君と俺だけでも、俺にとっては十分だったんだ」

 それはもちろん文乃にとってもそうだった。

「俺は兄を探してくる、君はここに……」

「嫌です」

 文乃は首を横に振った。

「暗いから、一人は嫌です」

「……わかった」

 宗十郎は文乃の手を掴んだ。

「そのかわり、絶対離さないからな」

「はい」


 神倉冬一は庭の途中に倒れていた。

「兄さん!」

 声を掛けると薄目を開けた。

「ああ、無事だったか。まあ、俺が死んだら墨も多分解けたんだが……遺言でも聞きに来たか?」

「聞かない。あなたを死なせない。あなたには洗いざらいしゃべってもらう。文車家をいかに呪ったのか、あなた一人でやれたとは思っていない。俺たちは知らなくてはならない」

「……悪いが、忘れたよ、そんな昔の話……」

「……兄さん」

 宗十郎は悲しげに兄を呼んだ。冬一はもう気を失っていた。

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