03
じめじめとした空気が下るにつれて重くのしかかってくる。本当にこの先に書庫室なんてあるのかと疑問に思ってしまうほどだ。何せあるのは本なのだから、この湿気で本が傷んでいないのかと余計な事を考えてしまいそうになる。
「どうした」
「長いなーって思って」
「ああ、そうだな」
なんてことなく伊織の前にいるヴィンセントが答えた。
先導するエドヴィンが魔術でその先を照らすが、それでも嫌になるほど先はまだ見えず、ひたすらに下へ下へと下る階段が続いている。
この長い階段を静が行くには少々きついものがあるな、と伊織は奈緒があの時言った言葉に同意した。
たしか結局のところ、ルイスに抱えられてしまったらしいが、そうでなければ転んで落ちてしまいかねない。所々滑りそうで、ゆっくりと進んでいかなければ伊織も転びそうになってしまうほどだ。
「なんでこんなに下にあるの?」
「知るか。ここを作り上げた当時の大神官に聞け」
「それ出来ないってー」
ヴィンセントが知らないのであればきっと答えは分からないままだ。
ちらり、と視界の端に見えるヨルへ視線を向けたがふり、と頭を振って来たのが見えたのでヨルも分からないらしい。
もしかしたら本当に理由なく作られたのかもしれないなぁと思いながら足音だけが響く階段をひたすらに下っていった。
長い長い階段を下りきれば、すこしばかり広い空間があった。そして重厚感のある大きな両開きの扉が目の前にあり、開けるのさえ一苦労しそうなものだった。
そして伊織はそれ以外に見えたものに、さらに一苦労しそうだと思ってしまった。
「何が見える」
ヴィンセントに問いかけられ、漠然と見ていた伊織は慌てて目の前の扉に目を凝らす。
すると薄っすらとだが、触れてしまえばとても痛そうな鋭い棘らしきものがびっしりと扉の前に重なっていた。
「……とげとげ? みたいなのが」
「なるほど、棘か。見ながら聞け。こいつは結界だ。触れれば弾き、少々怪我をする程度のものだ。威力としては弱いが、怪我の具合を具体的に言えば……そうだな。焼けた鍋に触れた時の火傷程度か」
「……なんか、ちょっと、燃えてる棘になった」
「……そうか」
棘の表面にうっすらと淡い色を放つ炎が広がった。
ヴィンセントが何か思案するように顔を歪めながら、胸元から銀の鍵を取り出した。
「そしてこの魔術を解くためには鍵が必要になってくる」
「……鍵穴がないよ?」
「これも魔術だからな。見ていろ」
焼ける棘の壁にヴィンセントが近づき、鍵を指すような仕草をする。と、そこには何もなかったはずの錠前が姿を見せ、音もなくカチャリと外れたと同時に焼けた棘の壁がすぅっと姿を消してしまった。
「こういうものだ。お前にはこの鍵を渡しておくから、好きに出入りして構わない。ただ、鍵は忘れずに閉めておけよ」
「分かった。ね、今の、えっと、あれ。錠前が見えたんだけど、あれはヴィンセントも見えるものなの?」
「ああ、そうだ。今のは俺達の目からでも見えるもの、だが……。そうか、どこからが俺達の目から見えるものか、判断が出来ないのか」
先ほどの問いから、ヴィンセントは何かを探るように思考を巡らせているのか、ぐるぐると渦巻いたものが周囲に浮かんでいる。
魔術というものを見て以来、伊織はこれが他の目からも見えるものなのかどうか、という判断が出来ないことを知った。だから見えたとしてもこれもまた口をつぐみ、聞かれたときに有無を返事するだけに留めていた。
「ね、ヨル。見分けってどうやったらつくの?」
『そうですね……。こればかりは感覚的なものですので』
「……難しい」
何もかも見えるが、何もかもが見えすぎて判断が出来ないだなんて使いにくいにもほどがある。伊織はぐっと顔をしかめた。
「そうか。それならついでだからそこの護衛二人に魔術について講義してもらえ」
「勉強嫌い」
「やれ」
有無を言わせないヴィンセントの物言いに、伊織は素直に頷いた。
初めて入る地下の書庫の中は、地下ということだけあって光の一欠けらもない漆黒の場所だった。だが、ヴィンセントが一歩中に入った途端、漆黒が徐々にぼんやりとした白の色が混ざり始め、中を照らし始めていた。
「うわぁ……ひろぉい」
「迷うぞ。こっちだ」
迷いのないヴィンセントの足取りに、伊織は慌ててその背中を追った。
足元を照らすには十分すぎる光だったが、それでもすぐに見失ってもおかしくはないぐらいの薄暗さと書架の多さに少しだけ伊織は好奇心よりも怖さの方が勝っていた。少し離れたとしてもエドヴィンがいるし、それに護衛にアイヴィ、クラウスもいる。そしていつも側にいてくれるクレア。そしてヨルだっているのだから、早々に迷うことはないと思いたい。
それでも怖く感じてしまうのは視界の端に蠢くなにかが見えてしまっているせいでもあった。
「読みたいものがあれば好きに読んでもらって構わない」
「え、いいの?」
「ああ。神話はもちろんだが、様々な学問に関する専門書、魔術書。その他に娯楽用の物語も蔵書されているくらいだ。持ち出さなければ良い。その為の本だ」
「そういうのもあるんだ」
「もちろん。ここは国中の本という本を保管するために作られた場所だからな。それともなんだ? 本は苦手か?」
「……うーん。あんまり読まなかったから」
「そうか。まぁ、これを機に触れてみるというのも悪くはないだろう。伊織の見え方というのも何かしら変わってくるのだろうしな」
扉の前でのやり取りのことを言っているのだろうと言うのはすぐに理解出来た。
まさしく、ヴィンセントの言葉一つで、見えていたものがすぐに変わってしまった。これに似たようなものは幾度も伊織は目にしている。話を聞けば聞くほどに物の輪郭はずいぶんとはっきりと見えるようになってきていた。
まさしく、今この空間にふよふよと視界の端に浮かんでいるそれらについても、静を隠していたあの黒い靄の正体も、はっきりと分かる可能性だってあるということだ。
「……うん、がんばる。たぶん」
「くっ……本当に勉強が嫌いなんだな」
「ね、笑ったよね。笑ったよね……!」
「聞き間違いだろ。ほら、そこだ」
確かにヴィンセントの小さな笑い声は耳に届いたし、加えて纏っている光が柔く点滅をしているのを見るに、明らかに面白がっている。
誤魔化しても伊織の目からは隠すことなんて出来ないというのに、なんて無駄な事をしているのか。けれどもそんな些細なやりとりがついつい面白くて、伊織は口では不満を漏らすも、知らず知らずのうちに笑みを浮かべてしまうのだった。
そして先を歩いていたヴィンセントが足を止めたのを見て、隣に並ぶように伊織も立ち止まり、目の前にある口を丸くしながら書架を見上げた。
「……本当に、何もないんだ」
「ああ、腹立たしいことにな」
ずいぶんと大きな、背のとても高い書架だ。上も大きければ横は倍以上に大きい。そんな書架には、何一つ並んでいる本の姿はなく、なんとももの寂しい姿を見せていた。
一体どれほどの本がここに置かれていたのか。確かにここ数日の話ではないというのは、これを見てすぐに理解することが出来た。周囲にある書架を見渡してみればこれと同じく空っぽの書架はないものの、虫食いのようにぽっかりと隙間が空いている箇所も見受けられた。
「どうして……、どうやって本を盗まれたの?」
「隠し通路が作られていたんだ。つい最近作られたものではなく、十年以上前からあるものだと推察されている。数年の一度の感覚でここの拡張工事をしているからおそらくはその時だろうな。こっちだ」
ヴィンセントの先導でまた書庫の奥へと進んでいけば、ほとんど光が届かない空間の隅へとたどり着き、エドヴィンがすかさずに魔術により明かりを灯す。そこには一見すれば何もない壁であるかのようにも見えたが、伊織は小さく首を傾げた。
何かの違和感。しかしその違和感が何か分からないが、何かおかしいような気がした。
「エドヴィン」
「は」
ヴィンセントから視線を向けられていたような気がしたが、本当に気のせいだったようで視線はその壁に向けられていた。ヴィンセントに呼ばれたエドヴィンが軽く壁を叩くと、壁の一部があまりにも簡単に凹んでしまった。ようにみえたが、壁と一体になっている外開きの扉がそこにあった。
「魔術、じゃないんだ」
「ああ。だから余計に見つけるのに時間が必要だったんだ。まったく……無駄に手が込んでやがる」
開けられた扉はエドヴィンが少しかがまなければならない程度の大きさだった。そこを潜ればちょっとした通路のようなものになっていた。足元を照らす明かりはなく、それぞれ魔術を使える者が手元に光を灯す。
「転ぶなよ」
「……なんだか、わくわくするね!」
「良かったな」
まさしくこれは隠し通路。ゲームなんかだとこの先にお宝とかがありそうな雰囲気もあるが、その先にあったのはずうっと上まで続く四角い空間と、上る為に作られた木材の階段だ。人が一人、ようやく通ることが出来る程度の幅しかない階段に手すりはなく、途中で足を踏み外したら真下へ真っ逆さまだ。
「うわぁ……」
「ここから出入りをしていたと証言を得られた。ここは大神殿設が設立してこの地下の書庫が作られた際、ここから地下へと資材を搬入していた場所らしい。それがいつしか使われなくなり、こうしてこっそりと出入りが出来るように細工をされたというわけだ」
「なんで使われなくなったの?」
「魔術による発展だ。魔術を使えば、どれほど重いものだろうと簡単に運べる上に表からの方がより多くのものを運び入れられるだろう?」
「あ、だから、あんなに大きな扉なんだ」
「そういうことだ。今は上の方を完全にふさいだから出入りはもう出来ないがな」
「これで安全、ってことだね!」
「おそらくは」
ヴィンセントは曖昧に頷いたが、妙に楽しそうな笑みを浮かべていた。
「ここには俺も把握しきれていない通路があるようでな。ごくまれに見つかるときがあるんだ」
「え、あるの?」
「そうだ。以前に見つかったのは五年ほど前だったか。その先にあったのはただの物置だったが、あれは伝えた」
「へぇ。なんだか楽しそう!」
「そうだろう? だが魔術が一切使われていないものだからな。なかなか見つけるのが難しいんだ。そこで、伊織の目だ」
伊織に数歩歩みより、ヴィンセントはわずかに腰をかがめて伊織に顔を寄せた。正しくは、伊織の目をのぞき込んできた。
「ぅええ?」
「あ? どうした」
「な、何でもないよ?!」
伊織は慌てて一歩大きく後ろに下がったが、そのままたたらを踏み、側にたアイヴィがそっと背中を支えてくれた。
ヴィンセントは伊織の行動の意味を理解していないらしく不機嫌げに顔をしかめてしまった。
「……ヴィンセント様」
「なんだ、エドヴィン」
「伊織様は聖女様でもありますが」
「ああ、分かった分かった。別に良く見えんかっただけだ」
エドヴィンの言いたいことを理解したのか、それともただ単に面倒で聞き流しているだけなのか。一応は前者であるようだが、それにしてもいきなり顔を近づけられればどんな相手でさえ驚いてしまうのは当然だろう。
伊織はアイヴィに無言で軽い会釈で礼をしつつ、深く息を吐きだした。
『伊織、大丈夫ですか?』
「だ、大丈夫。うん、大丈夫だよ!」
ヨルが心配げに伊織の頬に自身の頭を擦り付けてきた。鱗独特の質感とひんやりとした冷たさに伊織はさらに落ち着きを取り戻し、大きく頷いて笑顔を浮かべれば、ヨルはもう一度頭を頬にこすりつけてきた。
わぁい、ご褒美だ。
部屋に戻ったらまたやってもらおうと心に決め、ヴィンセントにようやく向き直った。
「それで、私の目っていうのは」
「お前にやってほしいのは、この書庫に何かの魔術が仕掛けられていないか。またその痕跡を見つけることだ。そして大神殿内でのこのような通路が他にないか、見つけてほしい」
「広すぎ! それに、だって魔術はたぶん見れば分かるけど」
「先ほど、あそこの壁を見て、何か気づいていただろう?」
どうやらあの時感じたヴィンセントの視線は気のせいではなかったらしい。
何故だろうか、この地下に来てからヴィンセントからの視線をよく感じていたし、何か観察されているとは伊織も分かっていた。と、そこで伊織はようやく気付いた。
「その、ヴィンセント。もしかして、なんだけど……」
「なんだ?」
「私がどこまで見えるのか、試してた?」
「そうだが?」
一切悪びれることなく、むしろ何故気づかなかったのかと言わんばかりの態度に、伊織はぐっと口角を下げた。
「なんで」
「聖女の力の把握は必要だろう? とくにお前は力が増しているとは言っていたが、具体的にどの程度というのは一度だって言わんからな。それなら実際に試した方が早いだろう? それに精度もある程度理解できたしな」
確かに伊織は増している事実を隠してはいない。だがどのように増しているかは一度も話をしてはいない。確かにこれは伊織の知っている知識等々によるものが大きいが、それ以上に見ている範囲が広がっているのはまぎれもない事実だった。
人々の感情も、思考が見えた。そして魔術も見えた。さらに言えば、何かしらの痕跡らしきものも。例えるならば、残された人の思いの塊のようなものさえも。
「あのさ……ヴィンセントは、怖くないの?」
「何がだ」
「何でも見えちゃうんだよ?」
この世界を知れば知るほどに、きっとこの目に映っているものはより鮮明なものになるだろう。そして誰かの隠したい何かも、この黄金は全てを暴いてしまうだろう。
ヴィンセントはふい、と琥珀の瞳を少しばかり上へと向けた。何か思考している時の癖のようなものだった。そしてすぐに伊織に向けた。
「あいつらは怖がっていないだろ」
「……うん」
「それと同じだ」
「けど、今はそうかもだけど。いつか」
今よりももっと強さを増した力を目の前にしたとき、三人はどのような目を向けてくるのだろうか。
伊織はその姿を想像できない。欠片も想像をしたくはない。
無意識に視線を落とした伊織は、胸の前で両手を強く握りしめる。この暗闇が満ちる地下のこの場所に、いつまでも閉じこもっていたいような、そんな気分だった。けど、こんなに暗闇が満ちていようと、この黄金はまるで猫の目のようにわずかな明かりではっきりとこの空間を目に映してきた。
視界の端で、なんと声をかけようかと迷うクレアの表情も。エドヴィンがぐっと顔をしかめてしまった瞬間も。視界の外にいるアイヴィやクラウスもきっと似たように困惑したような顔をしているに違いない。そしてヴィンセントだって。
こんな場所にいるせいだろうか。伊織はほんの僅かに巣くっていた不安を少しばかりこぼしてしまった。そんな顔をさせたくはないのに。伊織はすぐにまたいつもの笑顔を浮かべようと、さらに両手を強く握りしめた。
そして、その握りしめた伊織の両手を、上からヴィンセントの手が重なった。
「俺を誰だと思っているんだ、お前」
伊織は瞬間、顔を上げた。
すぐ目の前にはヴィンセントがいて、まっすぐに伊織を見下ろしていた。
「この国の大神官だぞ、俺は。我らが神、そして愛娘の力に対し、畏怖はあれど、与えられたものに対してそのようなものを抱くものか」
「……けど、全部、見られるんだよ?」
「伊織の意思に関係なく、だろう?」
「……それでも」
「そも、我らが神は天にいるんだ。隠し事なんぞ、元から全て見られていて当然だろう? 何を今更お前にばかり恐れる必要があるんだ」
そらされない琥珀に迷いはない。そして琥珀の奥にある強い光が、伊織の黄金を貫かんばかりに輝いていた。
あまりにも眩しい光だが、伊織はその光をいつまでも見ていたいような気持ちを抱いた。
「……ヴィンセントって、すごいんだね」
「今更気づいたのか?」
「けどお腹痛いのはいつもだよね」
「余計な話はするな」
「なんでお腹痛いのー?」
「その減らず口を縫い付けてやろうか?」
つい、いつものように少しだけじゃれるように揶揄う口調でヴィンセントの腹の具合を聞いてみる。
今は問題ないみたいだが、上に戻ればきっとまた腹痛で薬をこっそりと飲むのだろう。
そこまでして大神官として立っているヴィンセントの姿は、いつも眩しいことを伊織はいつも見ていた。
気高く、美しく、そして優しくて眩しい人。
こんな暗闇さえも照らす人。
きっと、伊織が多くを見て、迷ってもこの光を見失うことさえしなければ、迷うことはないと、どこか確信めいたものを感じていた。
「ね、ヴィンセント」
「なんだ」
「私ね、がんばる!」
にっ、と伊織はこの暗闇でもよく見えるように顔を近づけて笑って見せれば、一瞬ヴィンセントは琥珀の瞳を丸くし、しかしすぐに面白いものを見つけた子供のような笑みを浮かべた。
「ああ。だから勉強もがんばれよ」
「……がんばりまーす」
ちょっとだけそんなものを忘れていた伊織はすぐにぐっと顔をしかめたが、今度こそ素直に頷いたのだった。
白銀に踊る tamn @kuzira03
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