第二話 冥界の招待状

 ひとり取り残され、静寂に包まれた居間のソファーに横たわり、煙草を燻らせているうちに、いつの間にかうたた寝してしまったようだ。いや、その瞬間さえも記憶の彼方に消えていたのかもしれない。


 目を閉じたまま、今はゴンドラ舟に揺られている感覚を楽しんでいる。青く澄んだ空が広がっていたが、次第に雷鳴が轟き、薄暗い色に染まっていく。どこからともなく、ひんやりとした空気が漂い、重苦しい雰囲気が辺りを包み込む。それは、定年退職後の平穏な日常に忍び寄る、不穏な時の訪れを告げていた。


 突然、まるで死神のような黒い頭巾をかぶった女性がそばに現れた。頭巾には三途の川を渡るときに必要な六文銭の絵が描かれており、その姿は幽霊のようではなかったが、どこか不気味で少し怖い存在だった。

 おぼろげながらも、その顔には見覚えがあったけれど、誰だか思い出せない。ベールで覆われた彼女の口から、低く怪しい声が響いてくる。

 

「野々村幸太郎さん、ずっとお待ちしておりました。待ちくたびれていたと言った方が正解かも知れません。ここがどこだかお分かりですか?」


 正体がよくわからず怪しい彼女は、一通の真っ白な手紙を僕に手渡してきた。信じられないことだが、ここは「冥界への入り口にある川の畔」だという。手紙の中には川を渡るチケットが入っているので、早く開けて見てくださいとせかされた。


 彼女の図々しい態度には腹が立ったが、やむを得ず手渡されたナイフで「〆」と書かれた手紙の封を切った。中から一枚の手垢で汚れたチケットが顔を覗かせた。


「冥界だと、冗談じゃない! けど、このチケットに描かれた絵柄は何だね?」


 僕は男の厄年を過ぎたばかりで、まだまだ若い。これといった持病もなく、すぐに死ぬわけがなかった。それは後先を考えない自分勝手な願望だったが……。


 ただ、思いがけない指摘を受け、心には動揺が走っていた。そして、なんとなくだが、チケットのデザインが気になった。チケットを握り締め、平常心を装いながら尋ねた。


 そこには、言葉に例えようがない正体不明の絵柄が描かれていた。ただ壺らしき物の周りに、たくさんの蜜蜂が飛び交っているのに気づいた。ふつふつと謎を解き明かしたい好奇心が沸き起こった。彼女は自信ありげに答えた。


「これは、『怨念の壺』というのよ」


「怨念だと? 壺の中には何が入っているんだ?」


「あなたに対する怨念に決まっているでしょう。黙って聞きなさい!」


 彼女は怒りを込めた強い口調で、僕自身が背負う過去の罪悪を暴くように告げてきた。「長年にわたり、女性が裏切り者の旦那に恨みを抱いて、怨念をこの壺に放り込んで我慢してきた証。もっと、目を大きく見開いてご覧なさい。蜂蜜にまみれた壺の中から、二つの文字が浮かび上がって見えてくるから」という。その言葉に、僕はハッと我に返った。

 

 家庭の厄介なことは女房に丸投げし、数多くをおざなりにしてきた。思わず、いたたまれなくなり、再びチケットに顔を近づけた。そこには、「不幸」や「幸せ」という相反する二種類の文字が浮き上がって見えた。これは、何を意味しているのだろうか……。


 彼女は眉間に皺を寄せながら、言葉を続けてきた。僕はその剣幕に黙ったままで、耳を傾けているしかなかった。


「この壺はあなたの運命みたいなもの」


「僕の運命……? この壺がか?」


 彼女は顔色ひとつ変えずに、運命の中身を止まることのない末恐ろしい言葉でじっくりと教えてくれた。僕はその言葉に耳が痛くなった。


「幸太郎さん夫婦は、神さまの戯れにより結ばれてしまったの。所詮、夫婦なんて、元々は他人同士。他人の不幸は蜜の味なのよ。あなただって、とっくに愛なんて冷めているのでしょう」と。聞けば聞くほど、冷や汗がほとばしる。


 続けて「全財産は冥界の信託銀行が預かっているわ。もう一文無しのはず、奥さまから見捨てられたの。熟年離婚をせずに全財産没収されたのよ。あなたが冥界にたどり着いたら、その口座の扉が開けられるようにね。嘘だと思ったら、ご自身で給料の振込口座がある銀行に行ってみなさい」と。


 僕が長年働いて貯めた大金が奪われたという。何となくだが、彼女が一緒に住む娘に似ていることに気づいた。現実世界の方が幽霊よりもよっぽど恐ろしいと感じた。


 妖しげな金融機関への財産没収など、到底信じられなかったが、急いで銀行へ向かうしかなかった。いくつもの謎はまだ解けていなかったけれど、「冥界からの招待状」を手にしながら……。


 娘に思える女性から突き放されたショックから立ち直れず、やっとの思いで銀行にたどり着くと、さらに冷酷な宣告が下された。銀行のスタッフは、僕の気持ちなど顧みずに言い放った。


「あなたの遺産は、すでに現世の者たちによって奪われています。あなたには、もう何も残されていません」


 僕は絶望の中、冥界の暗闇へと沈んでいった。自分の運命が大きく変わったことを悟った。預貯金だけではなく、自分のへそくりや年金、株式投資の利益など、すべてが彼女たちの手に渡り、食い荒らされていくのだろうか……。


 僕は、冥界からその様子をただじっと歯を食いしばって、見守るしかないのかもしれない。そう思うと、目がくらみ身体が震え、頭が叩き割られるような思いがして、その場にうずくまってしまった。額からは怒涛のごとく汗がひた落ちる。どこからともなく、救急車のサイレンが轟いていた。

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