第一話 定年後の平穏
このところ、立秋を迎えたというのに、連日にわたり異常な暑さが続いている。今日はそんな暑苦しさを忘れるために、怖そうで怖くない、けれど少し怖い話を綴っていく。その語り部となる僕自身も、今はこの世の人ではないかもしれない。
もし、家族から見捨てられ、天涯孤独になりたくなければ、冥界からのあなたへの警告として、真剣な眼差しで聞いてほしい。それは、お化けよりもあなたにとって恐ろしいものでしょうから……
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今年の春、僕は桜の開花と共に40年以上勤めた百貨店を定年退職した。65歳となっていたが、この年でもう一度再就職するつもりなど毛頭なかった。
散歩で我が家を離れるひととき以外は、リビングで孫と戯れて有り余る時間をのんびりと心地よく過ごしている。孫の詩織は五歳になり、些細な金額でも小遣いをあげると泣いて喜ぶ。そんな姿を見るのが楽しみだった。
今日は、長年連れ添った女房がママ友とのランチ会の予定が入っており、娘夫婦は朝早くから仕事で出かけていた。
「お父さん、今日は詩織の送り迎えをお願いね」と娘が言った。
「わかったよ」と僕は微笑んで答えた。
今ごろ、目に入れても痛くない、内孫の詩織は保育園で、僕の笑顔のお絵かきをしていることだろう。どんな似顔絵を見せてくれるのかと楽しみだった。
不慣れながらもキッチンで朝食として目玉焼きとホットケーキを用意した。窓から差し込むカーテン越しの強い日差しを感じて、思わずひとり呟いた。
「ああ……今朝も爽やかな天気だ。ひとりでいる時間は最高だ!」
僕は平穏な時間を過ごしていた。もう会社で上司から叱られ、部下に突き上げをくらって、ストレスを溜める必要もないのだ。自由気ままに余生を過ごしたかった。ここはこの上ない喜びの天国だ。
今の時代、人生は100年の計で、男の平均寿命は81歳らしい。ならば、終焉まであと何年、健康で生きられるのだろうか……。それだけが気がかりだった。
テレビのニュースからは、異常とも思える物価の高騰や株の大暴落がアナウンサーの心配げな口調で伝えられていた。だが、僕はそんな世の中の動きを見て見ぬ無関心のふりをしていた。株や物価の変動に朝から一喜一憂しても、今の自分にプラスになることはなかった。株価よりも僕の余命の方が大切に思えたのだ。
もっと、僕は世情の喧騒から離れて、のどかな時間を過ごしながら、癒されていたかった。パソコンを通じて、ユーチューブのボリュームを大きくすると、爽やかな夏のメロディーが流れてきた。ああ……心地よい。
ひとりでいると、脳裏に浮かぶものが色々とある。良いことも辛いことも……。そのほとんどは仕事に関することだった。
ところが、最近は何かが違う。何か不安な気持ちが胸の奥に広がっているのを感じる。まるで、見えない何かが僕を見つめているような……。
言葉にこそ出さないが、40年以上に渡り第一線で働き、家族には金の心配を掛けなかった。それだけが自信を持って言えることだった。
勤勉実直だけが僕の取り柄だが、管理職まで上り詰めた。棚ぼたで手に入れた運もあったのだろう。だが、運も実力の成せる技だ。それは定年退職時に社長からもらったお祝いの置時計が物語っているのだろう。
幸いなことに、娘夫婦と一緒の二世帯住宅だが、マイホームも手に入れた。仕事は辞めても、生活をするための蓄えはある。年金も多少は出るだろう。贅沢さえしなければ、食べていくには困らない。家族に迷惑をかける心配はない。世間様よりは恵まれているのだろう。そうした自負が心のどこかに引っ掛かっていたのかもしれない。
長年のサラリーマン生活を終え、コツコツと貯めた預貯金を取り崩しながら、年金を頼りに悠々自適な生活を楽しむはずだった。
思い返せば、金の管理や子育ては全て何十年も女房に任せきりだった。僕は自分のへそくりは別として、給料の振込口座を一度も確認したことがなかった。社内預金の抜け道があり、しっかりとへそくりだけは確保していたからだ。けれど、振込口座には数千万の大金が眠っていることは間違いないと信じていた。
一方で、僕には学生時代から長年の夢があった。いつか、仕事を定年退職し時間に余裕ができたら、小説の創作活動に第二の情熱を傾けてみたかった。だから、まず手始めにネット小説の世界に足を踏み入れた。
色々と手探りで調べてみると、男性作家が多い小説サイトの「ヨムカク」を見つけた。このところ、朝から晩までパソコンやスマホのサイト画面に夢中となっていた。
最近、女房は、そんな僕が怠惰に思えて不満があるのか、訝しげな眼差しで自分を見つめていた。もっと働けと言いたいのかもしれない。それは、世にいう「亭主元気で留守がよい」だ。
冗談じゃない! どんなに我が儘だと罵られようが、納得できない。僕が企業戦士として長年働いてきたのは偽りないことだ。僕たちの会話はこのところ減ってきているのは紛れもない事実だろう。けれど、そんなことは気にもしていなかった。
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