第30話 行き場のない恋心

 怪我をしている私に、ドラッグストアの女性店員は親身な対応をしてくれた。店にある椅子に座らせてくれ、傷口をポンプボトルの水で洗い流してくれた。

 先生が買ってくれた絆創膏を、膝頭に貼る。

 先生は強力接着剤も買っていて、取れてしまったサンダルの踵を直してくれた。

 私はそれを、お腹に手を当てて見ていた。お腹がぐぅぐぅ鳴っている。お昼のパスタは数本しか食べておらず、朝食は焼きおにぎり一個と卵スープだった。

 どうかお腹の音が先生に気づかれませんように、と祈る。


 ドラッグストアから出ると、肩から斜めに下げている鞄の紐をギュッと掴みながら、うつむきがちに礼を述べる。


「どうもありがとうございました。この御恩は忘れません。それと、今日はいろいろとごめんなさい」

「恩を忘れてもいいですけれど。恩返ししたいというなら、歴史のテストの点数で返してください。満点を期待しています」

「それ、一生恩返しできないパターンです」


 拗ねて唇を尖らせると、先生は困ったように目を泳がせた。

 なぜ、先生が困っているのかわからない。困っているのは、私だ。情けないところをたくさん見られてしまった。

 包容力のある落ち着いた冴木先生には、大人の女性が似合う。たまたま結婚していないだけで、婚活に本気を出したらすぐに結婚できるだろう。

 きっとこの恋は、永遠に片思い。

 泣きたい。けれど、先生の前で泣くわけにはいかない。それならば、別れの挨拶をして立ち去ろう。

 そんなことを考えていると、先生が躊躇いがちに口を開いた。


「渡瀬さんのお腹が鳴っているのが気になって……。そこのお店でなにか食べますか?」

「えっ……」

「家に帰るなら、それでいいです。別に、無理に誘いはしませ……」

「行きます行きます!! 喜んで行きますっ!!」


 先生が困り顔だったのは、飲食店に誘うかどうか迷っていたから、らしい。

 初めてのお誘いに、頬が緩む。締まりのない顔を見られるのは恥を上塗りするだけなので、唇を結んですまし顔を作った。

 それなのに、飲食店に入って席についた途端。対面にいるのが冴木先生であることに、すまし顔が崩れる。


「チョー嬉しいです!!」

「それは良かった」


 私は、ガパオライスとウーロン茶を頼んだ。先生はアイスティー。

 大人の女性だったらどんな会話をするだろうと考えたが、想像がつかないため、地でいく。


「なんで、婚活しようと思ったんですか?」

「蒸し返しますか」

「納得のいく答えをもらえるまで、聞き続けます」


 先生は水を一口飲むと、口元に拳を当てて、うつむいた。

 不機嫌になったのかもしれないと、慌てる。

 しつこい人は嫌われるとわかっているのに、好きな人のことならなんでも知りたくなってしまうのが、恋の恐ろしさというもの。


「ごめんなさい! プライベートなことを根掘り葉掘り聞くのは、マナー違反……」


 マナー違反ですよね、と続けようとしたのだが、語尾が消えた。

 先生の肩が震えている。


「もしかして、先生、笑っています?」

「あー、ダメだ。おかしい。渡瀬さんって、素直ですね」

「えっ?」


 顔をあげた先生。その表情に、どきりと心臓が跳ねる。

 目が笑っている。頬があがっている。唇から白い歯が覗いている。色の薄い唇からこぼれるのは、楽しげな笑い声。


 私は、及川めぐみじゃない。それなのに、先生は陰のない明るい顔を見せてくれた。

 先生のあたたかな眼差しの先にいるのは──私。


 狼狽えていると、先生は軽やかな口調で言った。

 

「婚活していないです」

「え……」

「すみません。尾行したことへのお仕置き的な意味で、冗談言いました。本気にするとは思わなかった」

「でも、麻衣が聞いたって……」

「なにを?」

「女の人が話したのを聞いたって。『実際に会うとわかりますね。メールでやりとりした感じとは違う』って。婚活アプリで知り合って、今日初めて会ったってことじゃないの?」


 本当は婚活していたのに、冗談だとして流す気? 

 私は簡単に騙される女じゃないぞ、と睨みつける。だが、先生は唇に微笑を乗せたまま、まったく動じていない。


「あの人は、大学時代の先輩です。ネットで知り合った男性宅についてきてほしい、と頼まれた。その男性は犬を飼っていて、ネットで子犬をもらってくれる人を探していたそうです。男性の家に行ってみたら、先輩が想像していたのとは違って、だいぶやんちゃな子犬だった。それで、犬にも性格があって、飼い主との相性の良し悪しもある。それは、メールでやりとりしただけではわからないと。そのような意味での発言です」

「私を騙そうとしています?」

「渡瀬さんを騙してどうするんですか」


 先生の様子からは、嘘をついている感じがしない。

 私は心の中で、(麻衣のへっぽこ記者! 恥かいた!)と責任をなすりつける。

 ガパオライスが運ばれてきた。空腹と恥ずかしさが相まって、脇目を振らずにガパオライスを食べる。

 お腹が満たされるとともに、ムカムカしたものが広がる。


「婚活、本気にしたんですからね! ひどい!!」

「すみません。渡瀬さんがどんな反応をするのかと思って」

「私の顔を見てください!」

「怒った顔をしていますね」

「そうです! こんな反応です!!」


 先生は笑い声をあげると、アイスティーのストローを回した。中に入っている氷が、涼しげな音を立ててグラスにぶつかる。


 ガパオライスを食べ終えてしまったが、帰りたくなくて、先生に質問する。

 どこの大学に行っていたのか。学部はなにか。サークルには入っていたのか。どんなバイトをしたのか。大学時代、なにが楽しかったか。

 先生は、そのすべてに答えてくれた。

 私はゆっくりとウーロン茶を飲んだ。しかし、さすがに一時間も店にいれば、飲み干してしまう。小さくなった氷をボリボリと齧る。

 

「帰りますか」


 先生は、テーブルの端にあった伝票を手に取った。

 質問攻めにしたおかげで、一時間近く一緒にいることができた。それでも、帰るとなると寂しい。三時間いたとしてもきっと、寂しく思うだろう。

 先生が会計をしてくれて、私たちは店を出た。


「では、また学校で。勉強、頑張ってください」

「はい。今日はありがとうございました」


 先生はすぐに建物の角を曲がってしまい、見えなくなってしまった。楽しかった時間の反動か、心に寂しい風が吹く。

 雨が降ったことを感じさせない、青い空を見上げる。


「あの青い空の波の音が聞こえるあたりに、何かとんでもないおとし物を僕はしてきてしまったらしい」


 谷川俊太郎の詩が思い浮かぶ。

 私も、青い空のどこかにおとし物をしてきてしまったのかもしれない。

 

 






 



 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る