第29話 あの夏の日の記憶
好きな人の眼差しの先にある、永遠に変わることのない対象への嫉妬。
それは、江戸川乱歩の『人でなしの恋』へと重なる。
愛する人の眼差しの先にあるものは、生きていない。純粋な美しさを保つそれに比べ、嫉妬に身を焦がして愛されたいと願う自分は浅ましく、醜い。
対象を壊すことでしか、荒れ狂う感情の終着点を見出せない。けれどそれは、愛する人を滅ぼす。
愛する人を失うか、それとも、愛されることから身を引くか。
私は身を引くことにした。
というのは言い訳で、泣き顔を見られないために私は頭を下げた。
「帰ります!! じゃ!!」
ボブの髪がバサリと顔の前に垂れた。良かった。少しこぼしてしまった涙を見られなくて済む。
雨が上がった歩道には、人がまた行き交うようになった。そこに紛れて、潔く、去ろうと思った。及川めぐみのように、美しく消えたい。
そう思ったのに……。
「痛っ!!」
ヒールの高いサンダルと雨上がりの歩道との相性は、最悪。走り出してわずか五メートルで、派手に転んでしまった。
痛さにうめきながら、びしょびしょに濡れているコンクリートに手をついて起き上がる。ショートパンツなので、直接膝頭を擦りむいてしまった。血が滲んでいる。
「渡瀬さん、大丈夫ですか? って、大丈夫じゃないですね」
頭上から、先生の声が降ってきた。
恋愛の神様に見放されている人間は、こういう大切な場面でも運のなさを発揮する。
「グズっ。めぐみさんは素敵な女の子なのに、私ってダサい……」
「めぐみさんと比べても、仕方ないと思いますが」
「こういうとき。めぐみさんなら、かっこよく走っていくんでしょうね」
「さぁ、どうでしょう? しょっちゅうどこかにぶつけては青痣を作っていた、おっちょこちょいな人だったので。渡瀬さんと同じように、転んだかもしれない」
「え?」
私も、しょっちゅうどこかにぶつけては青痣を作っている。どうでもいいことを今世に引き継ぐのは、やめてほしい。
先生は膝を折ると、私の足元に目をやった。
「踵が取れちゃいましたね」
サンダルを見ると、右足のヒールが靴底から剥がれている。
「今日はとことんツイていない。厄日かも」
「自分も、パスタのお店に渡瀬さんがいるのを見て、厄日だって思いました」
「なんですか、それっ⁉︎ 人を疫病神みたいに言わないでください!!」
「それよりも、手当てしましょう。近くにドラッグストアがあるから、背中に乗って」
言うが早いか、先生は背中を向けた。
「ひゃあーっ!! 無理です無理です! 私、重いんで!!」
「百キロぐらい?」
「ぶぅーっ! そんなにないですぅー!!」
「だったら早く、背中に乗ってください。通行人の邪魔です」
「あ、はい」
私たちを避けて歩いていく人々。歩道の真ん中にいたのでは邪魔だ。
私は、
「お、お邪魔します」
と断りを入れてから、恐る恐る先生の肩に両手を置いた。それから、首に腕を巻きつけて、広い背中に体重を預ける。
先生のオレンジ色のシャツと、私の腕の白さ。爽やかな組み合わせだ。
先生は私の膝の裏に両手を当てると、慎重に立ち上がった。
「通りの反対側にある、あのドラッグストアに行くつもり?」
「はい」
「ひゃあーっ!! それって、横断歩道を渡りますよね⁉︎ 恥ずかしさで死ねる!」
「人の背中の上で死なないでください」
「だったら、ドラッグストアに着いたら死んでいい?」
「警察沙汰になるのでやめてください」
「いつになったら、死んでいいの?」
「あと八十年は頑張ってください」
「先生、優しい……」
「これを優しさとは言わないです」
「十分に優しいよ」と、小声でつぶやく。
これが母なら、「そんなヒールの高い靴を履いているから。自業自得」と叱られる。
父は離婚後。別な女性と結婚したけれど、年に一、二回会う。父なら、「おまえは落ち着きがない。子供の頃からちょろちょろと……」と嫌味ったらしく説教する。
修哉なら、「バカじゃねーの」と冷たい目で見て、私を置いて行くだろう。
私は両親のおかげで、不自由のない生活を送っている。大学を希望できるのも、両親のおかげ。感謝している。
けれど、あの人たちは厳しい。
学校の成績。小学校の運動会。ピアノの発表会。スイミングの試験。吹奏楽コンクール。良い成績を残せないと、ガッカリされた。
「もっとできる子かと思っていた」
と、失望された。
離婚後、母は穏やかになった。けれど私は、失敗すると怒られると怯えてしまう心の癖が抜けない。
先生の首に回した手に、ギュッと、力が入る。
横断歩道が赤になり、先生は立ち止まった。
なんてタイミングの悪さ。私と関わってしまったばかりに、先生に無駄な時間と体力を使わせてしまっている。
「ごめんなさい。私、重いよね?」
「象を背負っているかと思うぐらい、重い」
「きぃー! 意地悪っ!!」
足をバタバタと上下に動かして暴れる。
先生は二、三歩よろけた弾みで、同じく信号待ちをしていた男性にぶつかってしまった。
温厚な先生であっても、背中の上で暴れるな。と、さすがに怒るだろう。
なんでもないときには謝れるのに、こういう大切なときに謝れないのが私。唇をきつく結んで、先生の背中に顔を埋め、無言を貫く。
「嘘です。全然重くないです」
「私のこと、嫌いになったでしょ」
「蟻みたいに軽いです」
「蟻って⁉︎ 絶対に嘘! さっきの、象っていうのも嘘! 先生の嘘つきぃ!!」
右手で、先生の肩をポカポカ叩く。先生は、体を震わせて笑った。振動が、直に伝わってきた。
体温が上がって、顔が熱くなる。それは夏の日差しのせいではなく、私と先生を隔てるものがシャツだけだと気づいたから。
横断歩道が青になり、先生はまた歩きだした。私は周りの目が気になって、先生の背中に顔を埋めたままでいることにした。
先生のTシャツが汗でしっとりと濡れているけれど、不快じゃない。ツンとした汗のにおいは、臭いじゃなくて匂いに感じられる。
先生の背中は安心感がある。ほどよく筋肉がついている、頼もしい背中。
この背中を、この匂いを、知っている気がした。
(ぴろりんのシャツが汗で濡れて……大きくなったなぁって。背中の逞しさを感じて……)
掴みどころのない感情が迫りあがってきて、胸が熱くなる。謎の感情が、まぶたの縁を濡らす。
先生の背中が、なぜか懐かしい。先生の匂いを、遠い昔に嗅いだ気がする。
沈丁花の匂いは、母と甘い香りを辿って夕暮れの道を歩いた日のことを思い出させる。銀杏の臭いは、亡くなったおばあちゃんの手作り茶碗蒸しの思い出と結びついている。
もしかしたら記憶は──走り去った電車でも、指からこぼれ落ちる砂でもないのかもしれない。
思い出せないだけで、記憶の層には存在している。
及川めぐみとぴろりんが過ごした時間を渡瀬友那が知らなくても、魂には刻まれている。匂いを覚えている。
今でも、緑の風を吸ったあの夏の日のことを覚えているように。
私は顔を起こすと、先生の肩に右頬をつけた。日に焼けた首筋に唇を寄せてみたい誘惑に駆られるが、我慢する。
「ぴろりん、ありがとう」
先生の肩が、ビクッと跳ねた。
裕史だから、ぴろりん。みんなからそう呼ばれていただろうあだ名を、私も口にしてみる。前世の時間に、渡瀬友那も入れた気がした。
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