第23話 鍵のかかった音楽準備室

 混乱している私に、実里みのりは力なく笑った。


「ごめんね。こんなこと言って。でも、黙っているのがつらくて。沙彩さあや先輩には、誰にも話さないでって口止めされている。だから、お願い。誰にも話さないで。秘密にして」

「うん」


 実里は口が軽いわけでも、おしゃべりなわけでもない。責任感のある真面目な性格。

 だから、雨川先輩は年下の実里に話したのだろう。

 けれど、涙を湛えている実里の顔はしんどそうで、自分の胸の内に留めておくことがいかに苦しかったかを物語っている。


「わかった。絶対に誰にも話さない」

「ありがとう」


 実里はホッとした表情を浮かべると、重い口を開いた。それは、私の想像を超えた話だった。


 雨川沙彩先輩のほうが柳先生を好きになって、告白した。先生は、断った。だが雨川先輩は諦めきれずに、「二人だけの秘密にするから」と迫って、交際が始まった。


「沙彩先輩は、柳先生のことが本気で好きだった。でも卒業後しばらくして、フラれちゃって。沙彩先輩、自暴自棄になって、いろんな男と遊ぶようになって。見ていられなかった。自分を大切にしてほしかった。そしたら、深山先生と結婚しただなんて……。なにそれって感じ。時期的に被っている。あの人、沙彩先輩と付き合いながら、深山先生とも付き合っていたんだよ。最低すぎる。沙彩先輩が可哀想」


 シクシクと泣きだした実里。

 私はこのときまで、柳先生に親しみと尊敬を持っていた。けれど、一瞬にして吹き飛んだ。心底軽蔑した。



 それから、四年が経ち。

 パスタ屋のガラス越しに柳先生を見つけて、懐かしさが込みあげた。今はどうしているのだろうと、近況を知りたくなった。

 けれど私は浮かせていた腰を下ろして、テーブルに張りついた。柳先生が去った方向を見つめる。

 先生と話したい願望はある。けれど、子供は何歳になったのか。深山先生は元気でいるのか。そんな家庭のことを聞くよりも、雨川沙彩先輩と二股をかけていたことを責めてしまいそう。


 柳先生は結婚して、子供がいる。沙彩先輩は高校を卒業した後、なにをしているのかは知らないけれど、柳先生とは関係のない人生を歩んでいるはずだ。

 第三者が蒸し返すことではない。


「生徒と付き合うなんて、柳先生って最低。しかも、二股って!」


 柳先生への、怒りと軽蔑。それらに遅れるようにして、疑問が鎌首をもたげる。


「あれって、なんだったんだろう?」


 柳先生は私に対して、謎の行動をとったことがある。



 四年前。

 高宮実里はまず最初に私に、部活を辞めたいと打ち明けた。そのとき実里ははっきりとした理由は言わず、「嫌になった」とだけ話した。辞めたい理由が柳先生にあるとは知らず、私は顧問である柳先生に相談に行った。


 先生は、音楽準備室の鍵をかけた。背後でガチャリと鳴った、金属音。

 先生はサムターンから手を離すと、


「他の生徒が来ると面倒だから、鍵をかけておこう」


 何食わぬ顔で、笑った。

 鍵のかかった音楽準備室にいるのは、私と柳先生の二人だけ。日差しが強いので、カーテンが閉じられていた。

 密室に、私は動揺した。


「あ、あの…」

「高宮さんがどうしたの?」

 

 柳先生は机に寄りかかって、いつもと同じ口調で訊ねてきた。芸術家のような、底に何かを秘めている表情もいつも通り。

 先生は言葉そのままに「他の生徒が来ると面倒だから」鍵をかけただけなのに、私が変に意識しているのはおかしい気がした。

 私は勘繰るのをやめ、高宮実里が部活を辞めようとしていることを相談した。

 

「私、思うんですけど!」

「ふんふん、なにを思った?」

「先生と実里って、相性が悪いですよね? 先生の適当っぽいところ、実里は好きじゃないと思う」

「そうかな?」

「だって、実里。先生への当たり、きつくないですか? たまに喧嘩腰のときがありますよね?」

「そうなんだよねー」


 先生は心外だと言わんばかりに、肩をすくめた。


「高宮さんにひどいことをした覚えはないんだけど、嫌われている感じはしていた。まさか、吹奏楽部を辞めたがっているのって、俺が原因?」

「それはわからないですけれど……」

「もし俺が原因なら、顧問を辞めるよ。高宮さんが辞めることない」

「えーっ⁉︎ それはダメですよー! みんな、がっかりする。辞めないでください!!」

「あ、なんか嬉しい。必要とされているって感じ?」


 それから私と先生はしばらく話をし、実里は辞めないだろうという意見で落ち着いた。


「俺の経験から言うとさ、部活の先生が嫌いでも、仲間との関係が良好で、明確な目標があるなら、絶対に辞めない。高宮さんは、部員とは仲良くやっているんだろう? だったら、大丈夫。大会で最高の演奏をしようって、言ってごらん。高宮さんを信じよう」

「そうですよね!」


 私たちは全国大会入賞という目標に向かって、猛練習している。今年のメンバーなら、手の届くところに夢がある。

 それに実里は責任感が強いし、吹奏楽を愛している。

 今はきっとなにか悩みがあって、それでネガティブになっているのだろうと、私と柳先生は結論づけた。


「一緒に大会に出よう。頑張ろうって、説得してみます!!」

「うん。よろしく」


 柳先生はにこやかな笑顔を浮かべると、組んでいた腕を解いた。

 壁時計に目をやると、午後の授業まであと十分。

 私は先生にお礼を述べると、足取り軽く、部屋を出ようとした。しかし、音楽準備室のドアが開かない。


「今、開ける」


 忘れていたが、鍵がかかっているのだ。先生は、私の背後に立った。


「渡瀬さんも、俺のこと嫌いだったりする?」

「えっ? 別に」

「じゃあ、好きとか?」

「んっ⁉︎」


 心臓がドキリと跳ねた。

 驚いて振り返ると、柳先生は生徒たちと冗談を交わしているときと同じ、楽しげな目をしている。

 この好き嫌いは先生としてなのだろうと解釈し、冗談に付き合うことにした。揶揄する口調で返す。


「ぜーんぜんっ、好きじゃないでーす!!」

「えぇーっ、ショックー。渡瀬さんにも高宮さんにも嫌われて、登校拒否起こしそう。明日学校に来なかったら、ショックで寝込んでいると思って」

「先生が登校拒否しないでください!」

「お見舞いに、バナナ持ってきてよ」

「なんでバナナ? 先生って猿なの?」

「え? 知らないの? お見舞いっていったらバナナでしょ。昭和の常識だよ」

「ふっるーい!! バナナよりも、ギフトカードのほうが良くないですか?」

「いやいや、バナナでしょ!」

「先生って、バナナが好きなんですか?」

「好んでは食べない。カフェチケットのほうがいい」

「なんですかそれっ⁉︎」

「ハハっ!」


 先生とこうやってふざけるのはよくあることなので、気に留めなかった。

 けれど、先生が体を近づけてきたので、私は体をビクリと震わせた。夏服は生地が薄い。

 先生は、私の背後にあるドアの鍵に手をかけた。サムターンを捻るために、先生は手を伸ばしてきただけ。

 けれど、私の腕と先生の腕が触れた。私も先生も半袖なので、皮膚が触れた。細いながらも筋肉のついた先生の腕は熱を帯びていて、私は反射的に体を左にずらした。

 私は加瀬修哉先輩が気になり始めていたから、接触事故であったとしても、不愉快だった。


「距離が近いです。一億円請求しますよ!」

「ごめんごめん。距離感がバグった」


 先生はおどけた態度で、両手を挙げた。



 



 

 



 

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