第四章 先生の眼差しの先にいる人
第22話 柳先生
大学受験を控えた高校三年生は忙しい。夏休みは、ほぼ毎日塾通い。朝から晩まで勉強漬け。
こんなに勉強をしているのに、賢くなった気がしないから不思議だ。それどころか勉強をすればするほど、自分の能力の限界と、上にいる人たちの天才ぶりを知って落ち込む。
先日の模擬試験、国語の点数が悪かった。
学費がかかる私立大学に進むだけでも申し訳ないのに、浪人なんてしたら母に合わせる顔がない。
担任の先生が「夏休みに一気に伸びる子がいるから! 安全圏にいるからといって、のんびりしてはダメよ!」と、発破をかけた意味がわかった。
みんなが頑張っている。恋に気をとられる暇などない。
「頑張らなきゃ。先生のことは一旦忘れよう。……って、一旦ってなによ⁉︎」
自分にツッコミを入れ、コップに入った水を飲む。氷水が通っていった喉がキンッと冷える。
夏休みが終わるまで、あと五日。夏休みの思い出が勉強しかない私のために、麻衣がランチに誘ってくれた。
駅前にある人気のパスタ屋なので、昼前でも混んできた。眼科に行ってから来る麻衣のために、店内で待つことにした。
窓際の席に座り、ぼんやりと外を眺める。
日差しは強く、通りを歩く人々は連日の暑さにバテた顔をしている。
アスファルトに照り返された日差しが直撃して、日傘を差していても焼けそう……などと、取りとめのないことを考えていると、心臓がドクンっと跳ねた。
人混みの中に、見知った顔があった。
「柳先生……?」
170センチに届かない、小柄な体型。けれど顔が小さく、手足が長い。そのせいで、身長の低さが気にならない。
柳先生はキツネ顔で、美男というわけではない。冴木先生のほうが顔のパーツが整っている。
けれど、柳先生には不思議な魅力がある。
柳先生は当時、二十代後半だった。何気ないポロシャツでも、よく見れば有名ブランド品だったりと、おしゃれな人だった。
生徒たちと他愛ない話をしては、よく笑っていた。その笑顔が少年っぽくて、私だけではなく他の生徒たちも柳先生に親しみを感じていた。
背が低いし、顔がいいわけでもない。けれどピアノがやたらとうまくて、情熱的なピアノの調べが、柳先生を芸術家に仕立てあげていた。
私が中学三年にあがる前に、柳先生は隣の市にある中学校に移った。だから、先生の姿を見るのは四年ぶり。
パスタ屋の窓から見える四角い風景は、狭い。柳先生はあっという間に視界から消えた。
懐かしさと近況を知りたい願望が、腰を浮かせる。
柳先生は、産休に入った先生の代わりに来ていた
それを知ったのは、卒業を間近に控えた、中学三年のとき。担任の先生が帰りのホームルームで、
「去年いた音楽の柳先生と、国語の深山先生。結婚しました。もうすぐお子さんが産まれます」
と、報告した。
その日の放課後。吹奏楽部の仲の良い三年生五人で、三年三組に集まった。窓辺の席に陣取る。
話の内容は主に、柳先生と深山先生のこと。
「深山先生とできちゃった婚なんてびっくり!」
「あの二人、出会ってすぐに付き合ったっていうこと?」
「深山先生って、大手不動産会社の娘らしいよ。お金目的だったりして!」
「柳先生って、ブランド物好きだもんねー。俺は生徒のためにかっこいい教師でいる、なんて冗談言ってたし!」
茶化して盛りあがっていた空気を、吹奏楽部の部長をしていた
「冗談じゃないかもよ。俺はかっこいい、生徒に好かれているって調子に乗っていたから。気持ち悪い」
実里の表情にも、気持ち悪いという言葉にも、嫌悪感がこもっていた。
私も含めた四人は実里が柳先生を嫌っていることを知っていたから、驚かなかった。
真面目な実里と、適当なところのある柳先生。
実里は大会の前に、柳先生が嫌いだから部活を辞めると言いだしたことがある。部員総出で止めたので、辞めなかったが。
実里は座っている椅子の端を、両手で掴んだ。力を込めたその掴み方から、怒りが伝わってくる。
「深山先生っていかにも箱入り娘って感じで、おっとりしていたじゃん。柳先生に騙されて、可哀想」
解散した後。トイレに一緒に行った村木恵麻は、文句をぶちまけた。
「騙されたって、なによ! まるで、柳先生が悪い人みたいじゃん。実里って、なんであそこまで先生を嫌うんだろう? 別に怒られたわけでもないのに。生理的に無理って、先生が可哀想すぎる」
実里が部活を辞めると言いだしたとき、何人かの部員が理由を聞いた。実里は「柳先生のことが、生理的に無理」と答え、多くの部員が柳先生に同情を寄せた。
実里がフルートが上手じゃなかったら、退部することに反対する部員はいなかったかもしれない。
それくらい多くの生徒が、柳先生を慕っていた。私もその中の一人だった。
けれどその好感が嫌悪感へと変わり、学校の先生に恋をしないと決めたきっかけは、実里の告白だった。
部員五人で三年三組で話した、その帰り。私と実里は家が近いので、一緒に帰った。
実里は青く澄んだ空を見上げながら、ポツリとつぶやいた。
「私ね、本当は柳先生のこと、嫌いじゃなかった」
「え? そうなの?」
「うん……。友那は学校の先生のこと、好きになっちゃダメだからね」
「うん」
生徒と先生だから──だと、思った。けれど、実里の答えは違った。
「どんなにかっこよく見えても、所詮は男だから。うちらは、純粋な気持ちで年上の男性に憧れるけれど、向こうは下心を持っている。あわよくばって、思っているから。傷つくだけだよ。十代に恋する男って、どこかおかしいから」
「実里?」
「私、親のことで悩んでいたんだよね。そのことを、柳先生には相談していた。私、信用していたんだよね。でも、裏切られた」
実里は立ち止まった。春とは呼べない冷たい風に、実里の艶やかな黒髪がそよぐ。
実里は前を向いたまま、緊張した唇で微笑んだ。
「知っていた? 柳先生と
「え?」
雨川先輩は、私たちの一つ上の学年。実里と同じ、フルートを吹いていた。
雨川先輩は外見も性格も大人びていて、「男子ってガキにしか見えない。彼氏は年上じゃないと」と語っていた。
「付き合っていたって、嘘だよね? だって……え? 先生と?」
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