第21話 先生には特別な人がいる
「あーぁ、つまらない」
私がもだもだと悩んでいる間にも時間は過ぎていき、明日から夏休み。夏休みに入るのが嬉しくないなんて、末期症状だ。
私は新聞部の部室に入ると、女子バスケットボール部を引退した主将へのインタビュー原稿を、二年生に渡した。
私は、健康と食に関する仕事に就きたくて、栄養学科のある大学を志望している。しかし、具体的な就職先はイメージできていない。
ぽやっとした人生設計。それでも、受験生に立ち止まっている暇はない。
新聞部の部室を出ると、また自然と、
「あーぁ、つまらない」
と、十五分前と同じセリフが口を突いてでる。
この、つまらないを解消する術を知っている。社会科準備室に行けばいいのである。わかっているのに、足は昇降口へと向かう。
ペタペタと靴底を慣らして、廊下を歩く。開いた窓からミンミンゼミの盛大な合唱が聞こえてきて、暑さを倍増させる。
「なんかもう、疲れた。お金持ちの家の猫になりたい。寝ているだけでいい存在になりたい」
やさぐれていると、前方から、冴木先生が歩いてきた。
避けてから初めて、廊下で会った。このまま、まっすぐに歩いて行けばいい。
それなのに私は、反射的に身を翻した。反対方向へと、走って逃げる。
声をかけられたかったはずなのに、いざそのときがくると、不可解な恥ずかしさに襲われて、気が動転する。熱くなる頬。破裂しそうなほどにドキドキしている胸。
先生の顔をまともに見られない。声をかけられたら、恥ずかしさで心臓が爆発する。
──私、先生のことが好きなのかも……。
好き、という感情がストンと落ちてきた。不可解に思われた羞恥心に、好きというラベルが貼られる。
その途端、矛盾だらけの自分の言動に説明がついた。
学校の先生に恋をしないと決めた。だから、冴木先生を好きにならないために避けた。
けれどそれは、無駄な抵抗。好きにならないと踏ん張った時点ですでに、恋に落ちていたのだ。
私は階段の踊り場にある壁の凹みに体を滑り込ませると、鞄で顔を隠した。
どうか先生に気づかれませんように! 通り過ぎてくれますように!
呼吸を押し殺す。脇が汗でじっとりと濡れる。一秒が長く感じる。
「渡瀬さん?」
「……ミーン、ミンミン。私はセミです」
「…………」
窓の外から聞こえてくる、ミンミンゼミの盛大な鳴き声。
冴木先生なら「なにやってんですか」と、呆れたツッコミをいれてくれるだろう。
そう思ったのに、シーンと静まり返ったままの校内。
訝しんで、顔を隠していた鞄を胸元まで下ろす。
先生は両目を大きく見開き、口をうっすらと開けて、固まっている。まるで、メドューサに石にされてしまった人みたい。
表情筋の動きが曖昧な先生にしては珍しい。誰が見ても驚いているとわかるだろう。
「セミの真似、うまかったですか?」
「どうして、セミになったの?」
「別に意味はありませんけど。しいて言えば、夏だから?」
先生はメドューサの呪いを解いた。頭を掻き、上がっていた肩から力を抜いて、視線を下方にさまよわせた。
「渡瀬さんって、不思議な人ですよね」
「そうですか? 不思議ちゃんだと言われたことはないです」
「不思議ちゃん……とは、違うのですが……」
はっきりとしない言い方。なにを言いたのだろう?
先生の小麦色の顔を見つめる。先生は日に焼けやすいようだ。
「なにが不思議なんですか?」
「昔、セミの鳴き真似をした人がいて……その人はヒグラシでしたが……」
「ふーん」
私の他にもセミの真似をした人がいて、その人のことを先生は思い出している。おもしろくない。
私は中途半端に胸元に下ろしていた鞄を、引力のままに下げて右手で持った。
「帰ります。さようなら」
「あ、渡瀬さん! クッキー、ありがとうございました。美味しかったです」
階段に向かいかけていた足が止まる。
「食べたの?」
「はい。美味しかったです」
「全部? それとも、誰かにあげた?」
「一人で食べました。ほどよい甘さで美味しかったです」
美味しかった。一人で全部食べた。
その言葉を、待ち望んでいた。それなのに、セミの一件が尾を引いている。
先生が優しいのをいいことに、いじけてしまった気持ちをぶつける。
「へぇー、そうですか。でも別に、先生のために作ったわけじゃないですから。暇だから、作っただけ。おすそわけっていうやつです」
「渡瀬さんってなんか……前から思っていたのですが、僕の知っている人に、空気感が似ている」
「誰ですか?」
「その人もおすそわけだと言って、いろんなものを持ってきてくれた」
「男ですか? 女ですか?」
「女性です」
ヒュッと息を飲む。
勝手に、冴木先生はモテないと思い込んでいた。だけど、そうじゃなかった。
おすそわけを持ってきてくれる女性がいる。その女性はきっと、先生に気がある。先生に会いたいから、おすそわけを口実にして来ているのだ。
あえて不快さを隠さずに、そっぽを向く。
「へぇー、良かったですね。先生にそういう人がいて。大切にしてくださいね。……っていうか、大切な人なんですか?」
「まぁ、そうですね」
「へぇー……。じゃ、私は帰るんでっ!!」
顔を背けたまま、階段を一気に駆け降りる。
「先生のバカバカバカっ!! 嫌いっ!!」
自転車を全速力で漕いでも、明日から夏休みだと言い聞かせても、むしゃくしゃした気分が晴れない。
そういうわけで、家のすぐ近くにあるコンビニに入った。高級アイスを手に取る。
「やけ食い祭りだ!」
家に帰ると、顔を洗って汗を流す。それからソファーに座って、アイスの蓋を取った。コンビニでもらったプラスチックのスプーンで、チョコチップアイスをすくう。
「さすがは高級アイスクリーム! 美味しいーっ!!」
上品なバニラが口の中で溶けていく。チョコチップもちょうど良い甘さで、病みつきになりそう。
幸せ、ではある。けれど、悲しさが抜けていかない。突きつけられた現実に、打ちのめされる。
先生は、おすそわけ女性を大切な人だと肯定した。そのうち、付き合うのだろう。
「先生ってなんなの? 女を見る目がないんじゃない? 私のことを好きになればいいのにっ!!」
アイスを食べながら、涙がぽろぽろとこぼれる。
頭は右に行って、心は左に行っているようなチグハグさ。
学校の先生を好きになりたくないのに、冴木先生が好き。十五歳も年が離れたおじさんとの恋愛なんて嫌なのに、先生のことばかり考えてしまう。
先生に大切な人がいることに、涙が止まらない。私が、先生の特別な人になりたかった。
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