第18話 自分の人生を進めるために
タクシーの中。母は泣きじゃくる私を抱きしめて、一緒に涙を流してくれた。
「絶対に許さない!!」
どうして母がこんなにも怒っているのか、ピンとこなかった。だがしばらくして、修哉に対する怒りなのだと気づいた。それくらい、私の頭も心も冴木先生で占められていて、修哉のことを忘れていた。
家の前で待ち伏せされたことも、トイレを借りたいと嘘をついて家に入ってきたことも、強引にキスされそうになったことも、暴力を振るわれたことも、もうどうでもいい。私の人生に、彼は必要ない。彼を心に住まわせたくない。
けれど、母にとってはそうではない。謝罪を求めるべく、一人で、修哉の実家に行った。修哉の両親を交えて、話し合ってくれた。
修哉は最初、否定したらしい。けれど母が、
「マンションにある防犯ビデオを見れば、あなたが無断で侵入したことも、友那を無理矢理に家に入れたこともわかるんですよ。あなたが否定するなら、警察に訴えます」
そう突きつけた途端、すべてを白状したそうだ。
土曜日の夜。私は炭酸水、母はワインを飲みながら、リビングで語らう。
「もう二度と友那に近づかないと約束させたから。部屋の鍵も友那のスマホも手をつけていないみたいだけれど、信じられないし、気持ち悪い。全部変えましょう」
「うん。本当に仕事を休むの? 大丈夫?」
「有給を使っていなかったから、ちょうどいい」
殴られた左顔面に、
そういうわけで私は、しばらく学校を休むことにした。母は、二日間の有給を取った。
仕事人間の母が、私のために休みを取ることが申し訳ない。けれど母は働きすぎなので、ゆっくり休んでほしい。玄関の鍵の交換や、スマホの交換など、やることはあるけれど。
「迷惑をかけて、ごめんなさい」
「まっ、お母さんも友那も、男を見る目がないよね」
「別に私は、お父さんのこと嫌いじゃないよ」
「そう? お母さんは無理。具合が悪くて休んでいると不機嫌になるし、疲れて帰ってきてもインスタント食品を使うのを許してくれなかったし。あの人は、お世話してくれる人がほしかったのよね。お母さんには無理」
離婚する前の母はいつもピリピリしていて、私はしょっちゅう怒られていた。でもそれは、私が悪いというより、ストレスをぶつけられていただけだった。今なら、それがわかる。
けれど、母を責めるつもりはない。私だって機嫌が悪いとき、母に八つ当たりするから。
「自分の父親に似た人を彼氏に選ぶっていうけれど、まさか、友那もそうだったなんて。悪いんだけど、あの人のどこが好きだったの? 人間的な温かみに欠けた人よね。顔で好きになったんじゃないでしょうね?」
「顔もいいとは思ったけれど、一番は、頼りになるところかな。俺について来いってところが、かっこよく見えた」
「最悪。あんた、おとなしくついていくタイプじゃないでしょうに。友那は気が強いし、頑固なんだから。融通が効く、心の広い男がいい!!」
「はい。今度からはそうします」
「俺について来いっていう男はねぇ、悩んでいるときにはいいのよ。答えをくれるから。それと、体調が良いときにもね。相手に合わせられるから。でもね、自立するのを許さないし、具合が悪くなったときが最悪。いい? 俺について来いっていうのは、後ろからついてくるのを求めているんであって、前に出るのを許さない。助けてほしいと訴えても平気で無視するくせに、俺の生き方に合わせろと要求してくる。私の人生は、私のもの。おまえの世話をするためにあるんじゃないっていう話よ。だからね、友那。少々物足りなくても、手を繋いで隣を歩いてくれる優しい男がいいんだって。冷蔵庫男より、炊飯器男がいいんだって」
「お母さん、酔ってるね?」
母は赤ワインをグイッと飲むと、ほろ酔い顔で笑った。
「お母さんの失敗をあんたは間近で見たんだから、糧にしなさいよ。あ、もう遅いか」
「今度は失敗しませーん!」
私と母は仲が悪いわけではないけれど、それぞれの人生を生きているという感じだった。それが今回のことで、平行だった線に交わりが生まれたように思う。
母を頼る気持ちが、自然と湧く。
「ねぇ、お母さん。人ってどうして、大切なことを忘れちゃうのかな?」
「ん? そりゃ、記憶量には限界があるもの。なにかを覚えても、その直後には半分近く忘れているものよ」
「そっか。だから、亡くなった人のことを忘れてしまうんだね」
母は仲の良かった祖母に想いを馳せたのか、悲しげな顔をした。
「それは違う。そうじゃなくて、記憶を薄めないと、自分の人生を進められない。亡くなった人の側に心を置いたままでは、日常生活が送れないのよ」
私は少し悩んだ末に、「知り合いの話なんだけど……」と偽って、冴木先生の話をすることにした。
「その人は、嘘つきでごめんって謝った。本当は、忘れていないと思う。それなのにどうして、忘れたって言ったと思う?」
「そうねぇ……。その人は長らく、時計の針を止めていたのかもね。でもようやく、針を進めたいと思えるようになった。お母さんには、その人の気持ちがわかる。恋愛感情がないと言ったのも、わかる」
「えーっ、そうなの⁉︎ なになに⁉︎ 教えて!」
母の目が笑っている。どうやら私は、母の作戦通りの反応をしてしまったらしい。
「気になって、教えてほしいと思ったでしょう? だからその人は、恋愛感情がない。忘れた。って言ったの。追及されないように、ガードしたってわけ。ま、友那は、その人に信用されていない。心を開いて話せる相手に値しないっていうことよ」
「ショック〜!! って、なんで私の話だってバレたの⁉︎」
「あなたに隠し事は無理」
母はケラケラと笑い、私は落ち込んだ。冴木先生を責めるべきではなかったのだ。
私は昔から、母に相談するのが好きではなかった。母は、心理カウンセラー。正論が返ってくるのが、苦手だった。
でもこれからは鞭を打たれる覚悟で、母に相談しよう。
そんなことを考えながらソファーから立ち上がった私を、母が呼び止める。
「そうそう。あの先生に、お礼をしないとね。お菓子が無難でいいと思うんだけど」
「……あぁ、冴木先生ね。うん、そうだね。お菓子、食べるかな?」
「食べないなら、家族にあげたらいいんだし。結婚しているの?」
「ううん。独身」
「そうなの? 真面目でいい人そうなのに……。あ、だからか。真面目でおとなしい人ほどなかなか結婚できないのよねぇ。もったいない。でもね、お母さんほどの年齢になると、わかるわけよ。少しぐらい物足りなくても、誠実で優しい男がいいんだって。あの先生、何歳?」
「教えなーい! 狙ったりしないでよ!!」
「ふふっ」
酔っ払いの冗談だとしてもキツい。
吐く真似をした私に、母はスッと真顔になった。
「あの先生、諦めた目をしていたね。そういう人にはおとなしい女性じゃなくて、友那みたいな勢いのある子がいいのよね。時計の針を今この瞬間にまで、進めてくれるから。だからって、在学中に付き合ったりしないでよ。親の責任になるんだから」
なにを言っているのかわからなくて突っ立っていたが、母はすべてをお見通しなのだと、眩暈がした。
恐ろしすぎる。やはり、母に相談するのは苦手。
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