第16話 六月の雨の下

 私が先生を見つけるより先に、先生は私に気づいていたらしい。視線を迷わせることなく、私の元へとまっすぐに歩いてくる。

 私は先生の顔を見ることができずに、うつむく。

 六月の冷たい雨に打たれる私の頭上に、黒い傘がかかる。


「渡瀬さん、どうしてここに? 転んで怪我をした?」


 温かみのある声。救われた気がして、涙腺が緩む。頬を流れる冷たい雨に、温かいものが混じる。


「なんで、怪我?」

「左の唇が痛そうだ」

「ああ……」


 意識した途端に、顔の左側が腫れぼったく、内側からジンジンと痺れるような熱を感じる。唇を動かすと、やはり切れているらしく、ズキリとした痛みが走る。


「傘はどうしたの?」

「……ないです」

「…………」

「…………」


 冴木先生は、話をどう続けたらいいのか困っている。言葉にしなくても、伝わってくるものがある。

 私は冴木先生を待っていた。運良く、会うことができた。だったら私から話さなければいけないのに、沈んだ心が言葉を発しようとしたがらない。

 私は冴木先生に、笑顔しか見せたくなかった。渡瀬友那はいつも元気だって、呆れていてほしかった。こんな惨めな自分、知ってほしくなかった。


「なんでもないです。帰ります……」


 冴木先生に会うんじゃなかった。おとなしくマンションに戻って、母の帰宅を待っていよう。

 踵を返そうとしたが、左腕を取られる。先生はパッと手を離した。


「事情があって、ここにいるんだよね? 家に帰りたくない?」

「…………」

「なにかあったんだね? お母さんと喧嘩した?」


 首を振る。


「じゃあ、彼氏と喧嘩した?」

「先生。迷惑じゃなかったら、いえ、すごく迷惑だと思うんですけれど、母と連絡を取りたいです。でもスマホを忘れちゃって。今の時間ならまだ、勤務先にいると思うんです。電話を貸してもらえませんか?」

「いいよ」


 先生からスマホを借りると、母が勤務している病院を検索する。検索に出てきた番号に電話をかけ、対応した人に母の娘であることを伝える。

 不審人物からの電話だと怪しまれたらどうしようかと怖かったが、先生のスマホの電話番号を相手の人は復唱してくれた。

 おそらく、私の動揺や恐怖が電話を通して伝わったのだろう。「困ったことが起こった」という涙声に、演技ではないと感じたに違いない。


 十分後、母のスマホから電話がかかってきた。先生に修哉のことを知られたくなくて、離れた場所で母と話をする。

 コンビニに入っていく先生の後ろ姿が、視界の隅に入る。

 彼氏が家に押しかけてきて殴られたという話に、母は悲鳴をあげた。駅で待つよう、念押しされる。


「友那。電話を貸してくれた先生に、変わってくれる?」

「いいけど……。でも、彼氏に殴られたことは言わないで。先生には知られたくない」

「わかった」


 コンビニから戻ってきた先生にスマホを渡す。先生と母は三分ほど話をし、電話を切った。


「お母さんはなんて?」

「一人にさせるのは不安だから、そばにいてくれないかって」

「大丈夫なの?」

「ああ。特になんの用事もないから」


 冴木先生が現れたときから、緊張の糸は緩んでいた。そのうえさらに、母と連絡が取れた安堵感で、心に余裕が生まれる。


「金曜の夜なのに寂しいね。先生って、彼女いないの?」

「残念ながら」

「本当に? え、どうして? 彼女いらないから作らないの? それとも、欲しいのにできないの?」

「詮索しなくていいから」

「知りたい!!」

「知らなくていいです!」


 冴木先生はムッとした口調で、私の頭にタオルを乗せた。

 コンビニから出てきた先生が、店の袋を持っているのには気づいていた。でもまさか、その袋の中からフェイスタオルが出てくるとは思わなかった。


「あとこれ、どうぞ」


 コンビニの袋からもう一つ、ホットココアが出てきた。冷えてジンジンと痺れる指に、スチール缶は熱すぎた。


「熱すぎて持てない!」

「ちょっと冷やしますか」


 私と先生はタクシー降り場が見える場所で、母を待つことにした。タクシーのテールランプが、しとしとと降る雨を赤く染める。

 先生はしばらくホットココアの缶を手のひらで転がしていたが、


「多分、もう持てると思いますので」


 と、差しだしてきた。受け取ると、ちょうどいい温度に下がっている。手が温まって血が戻ってくる。


「先生のことを知りたいって言ったら、怒ったよね?」

「怒っていないです」

「そう? ムッとしたように聞こえた」

「君は生徒で、僕は教師。教師なんてものは、学校にいるときの姿だけ知っていればいいんです。私生活を知らないほうがいい」

「そうだけど……」


 私はココアを一口飲むと、ほぅーっと息を吐きだした。温かさと甘さが、じんわりと身体に染みる。


「一つだけ、どうしても気になることがあるんです。先生は話したくないと思うけど。これで最後にするので、教えてください。代わりに、私の秘密を教えます」

「教えてくれなくていいです」

「ううん! 教える。だって、先生の秘密を暴いて、私はダンマリなんてずるいもん。……私がどうしてここにいるかというと、彼氏に乱暴されたからです。別れたいって言ったら、家に押しかけてきて、殴られた。でも、逃げました! だから大丈夫です。だけど、スマホも鍵もなくて……。そういった事情でした」


 先生はどんな反応をするだろう。窺い見る。先生は特に表情を変えていなかった。

 所詮は他人事だしね。そう思っていると、先生は息を深々と吐きだした。


「全然大丈夫じゃないです。渡瀬さんの顔、痛々しいことになっている。殴るなんて、最低です」

「先生は、ムカつくことがあっても我慢できる人? 絶対に手をあげない?」

「絶対とは保証できませんけれど、少なくとも、人を叩いたり殴ったりしたことはないです」

「そうなんだ……」


 両親はしょっちゅう喧嘩をしては、父は母に手をあげていた。母もやり返していた。それを間近で見ていたので、感覚が麻痺していたらしい。怒ったら、手が出てしまうのはしょうがないと思っていた。


「ねぇ、先生。秘密を教えてください」

「なにを知りたいんですか? 話すとは約束できませんが」

「花火大会に、女性を誘ったことがあるんですよね? その人のこと、好きだったんですか?」

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