第15話 最低な恋

 狭い玄関で、私たちは揉み合う。 

 私は修哉の胸を突き飛ばして、手前の部屋に逃げようとした。けれど修哉のほうが早かった。

 私の肩を掴んで引き寄せると、顎を掴み、強引にキスしようとしてきた。


「イヤっ! 離してっ!!」


 私は悲鳴をあげ、両手を突っぱねて拒絶する。けれど、修哉は私よりも十五センチ以上も背が高いし、筋肉もある。

 両手首を掴まれ、玄関の壁に背中を押しつけられる。その体勢のまま力をかけられ、私は壁と修哉の間に挟まれてしまった。

 力づくで押さえ込まれ、逃げ道を塞がれる。恐怖で足が震える。それでもなんとか体をずらそうと、もがく。


「イヤ、イヤだってば!! やめてっ!!」

「つめて」


 雨に濡れてしまった制服。揉み合ったせいで、修哉の服にも水分が染みてしまった。

 その冷たさに、修哉は笑ったのだろう。だけど私は(なんでこの状況で笑えるの……)と心が引いていく。

 足が震えて、立っているのがやっと。それでも、言葉を絞りだす。


「なんで、こんなことするんですか。トイレを借りたいって言ったのは、嘘だったんですか⁉︎」

「俺と別れたいって、本気で言っている? 付き合って三ヶ月って早くない? 友那のこと大切に思っていたから、キスだけで我慢していたんだけど」

「本当に大切に思っているなら、こんなことしない!!」

「信じてくれないの? 悲しいなぁ」 

「そうやって相手を悪者にして、自分を正当化する。そういうところ、大っ嫌い!!」


 修哉はうっすらと笑った。微笑む唇とは反対に、瞳は氷のように冷たい。

 嫌いだと言ってはいけなかったのだろう。逆鱗に触れてしまった。でも、ヨリを戻したいなんて嘘でも言いたくない。トイレを借りるフリをして家に入ってくるなんて、最低だ。


「なぁ、友那」


 彼は優しく名前を呼び、私の耳に唇を寄せて、囁く。


「心を入れ替えるって言ったのは本当だ。嘘じゃない。ヨリを戻すなら、優しく抱いてやる。でも強情なままなら、無理矢理犯す。どっちがいい?」

「なにを……」

「制服が濡れて、透けてるじゃん。水色の下着なんだ? ムラムラするんだけど。ずっと我慢していたんだ。いいよな?」


 呆然と彼を見上げる。にやついた笑いは、悪魔のよう。

 視界がジワジワと涙で歪む。

 イヤだ、やめてと叫んでも、やめてくれない。反対に、私を押し倒そうとしている。


 修哉にとって、私ってなに?

 性欲を発散できれば、それでいいの? 

 これが、修哉の言う愛?

 愛の前には、私の気持ちを無視しても平気なの?


 目に溜まった涙の粒が、頬を滑り落ちていく。

 なんて、最低な恋なんだろう。どうして私はこの人を、好きだと思ってしまったのだろう。

 三年も、憧れの目で見ていた。クールに整った顔や、俺様な雰囲気や、強気な発言や、リーダーシップ、決断力の早さ。そういったものを好ましく思っていた。

 だけどもう、嫌悪感しかない。


 彼に拘束され、壁に押し付けられている両手。その指先は血が引いており、痛いほどに冷たい。けれど力を込めると、十本の指が動いた。


 抵抗するのをやめ、おとなしくなった私を、修哉は都合良く解釈したのだろう。私の耳に近づけていた唇を、頬に落とした。狭い玄関に、リップ音が響く。

 ゾワゾワとした寒気が這い上がり、身の毛がよだつ。だが、耐える。

 私の手首を拘束していた彼の手が、緩んだ。


「イヤっ!!」


 力いっぱいに、彼を突き飛ばす。修哉はシューズボックスに背中を強打し、うめいた。

 一番近い洗面所に逃げようとした。しかし、修哉のほうが早かった。


「バカ女っ!!」


 修哉は素早く体勢を立て直すと、私の髪を掴んで強引に引き寄せ、片手をあげた。

 左顔面に鋭い痛みが走る。

 怒り任せの殴打に、目の前に星が散った。衝撃のあまりの大きさに声をあげられず、反動のままに吹き飛んで、壁に頭を打つ。


「ふざけんなっ! 来いっ!!」


 修哉はイラついた舌打ちをすると、倒れている私の右腕を乱暴に掴んだ。

 この状況でも私を部屋に連れて行き、犯そうとしている。こんな人を受け入れたくない。従いたくない。この世から消えてほしい。

 私は死に物狂いに、右腕を払い退けた。頭の中は真っ白で、心には憎しみしかなかった。

 傘立てから、傘を抜いた。

 手加減なしに顔を殴られたのだから、私だって手加減しない。そんな悪魔めいた意思で、修哉の頭に傘を振り下ろす。


「ぐっ!!」


 修哉はくぐもった悲鳴をあげると、膝から崩れ落ちた。


「おまえ……」


 すぐさま、外に飛び出す。マンションの廊下は外壁がなく、外に開かれている。雨音がこだまする薄暗い廊下を走り、階段を駆け下りる。

 外に飛び出し、行く当てもなく走る。修哉から逃げたい、その一心だった。雨水に混じって、口の中に入ってきた血の味。顔を叩かれたときに唇を切ったのだろう。

 闇雲に走っていたが、冷たく降る雨がざわつく感情を宥めて、思考を取り戻させた。


「どうしよう、私……」


 足を止め、一呼吸置いてから後ろを振り返り、歩きだす。


「なにも、持ってこなかった……」


 玄関に、学校鞄と鍵を落としていた。拾わないといけなかったのに、逃げることで精一杯で、考えが及ばなかった。

 部屋の鍵もスマホも財布もない。

 帰りたいが、修哉が待ち伏せしているかもしれない。二時間も待っていたのだ。部屋の中で私の帰りを待つことぐらい、容易いだろう。

 部屋の明かりがついているかどうかで、修哉がいるかわかる。そう考えたが、でももしも、部屋の明かりを消して私を油断させ、部屋に入った途端に襲われたら……と、悪い考えが次から次へと浮かぶ。

 

「どうしよう……」


 手元にやった手が震える。


 修哉は傘で殴られて廊下に倒れ込んだ。私は玄関扉を背にしていた。あの状況では、外に飛び出すしかなかった。

 だが実際に外に出てみれば、助けを求める手段がない。母の勤務先の病院も麻衣の家も、徒歩で行くには遠すぎる。タクシーを考えたが、拳で殴られたひどい顔で職場を訪ねたら母に迷惑をかけるように思えて、怖気付く。

 制服のポケットに手を入れてみたが、なにも入っていない。しかし十円があったところで、母と麻衣の電話番号を暗記していないし、公衆電話がどこにあるかもわからない。

 

 雨が降っているせいで、暗くなるのが早い。車のヘッドライトが行き交う中を、トボトボと歩く。

 傘を差して歩く人々。世界に私ひとりになってしまったかのような孤独感。

 雨に打たれがままの身体は熱を失い、震えの止まらない唇からは泣き声が漏れる。それでも私は、ある答えを見出した。

 

「お母さんが帰ってくるまで、マンションの近くで待っていよう」


 飲み会の話を聞いていないから、遅くならずに帰ってくるはずだ。

 疲れてぼんやりとした瞳に、明るい建物が映る。いつの間にか、学校の最寄り駅まで歩いてきていた。

 駅に出入りする人たちを何気なく見ていると、ふと、冴木先生が頭に浮かんだ。


 先生は、もう帰った? それとも、これから帰るところ?


「三十分だけ、待ってみようかな……」


 くしゃみがでた。制服はずぶ濡れで、体の芯から冷えている。それでも私は、三十分だけ待ってみることにした。

 先生は現れない。疲れが頂点に達し、諦めて、立ち去りかけたとき。


 顔を上げた先に、冴木先生がいた。


 


 


 

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