第10話 まさか、ずっと独身?

 翌朝。いつものように自転車で登校していると、冴木先生の背中を見つけた。


「冴木先生、おはよっ!」

「あ、おはようございます」


 先生は猫背気味だし、学校に向かう足取りが重そうに見えるし、まだ朝なのに澱んでいる。

 私は自転車から降りると、先生の横に並んだ。


「だるそう。先生、疲れている?」

「水曜日ですから。疲れが溜まりますよね」

「わかるー! 私も水曜日って憂鬱。そういえば、なんで学校の先生になったの?」


 アンケートには、教師という職を選んだのはなぜか。という質問を設けていなかった。

 冴木先生はくたびれた雰囲気そのままの、くたびれた声で答えた。


「生きていくためには働かないといけないので」

「理想とか情熱で、先生になったんじゃないの?」

「理想や情熱なんて、自分とは縁がないですから」

「うわぁ! 先生ってば、冷めてるー!!」


 サエキヒロシは良い会社に入って、順調に出世して、可愛い奥さんがいて、子供に恵まれて。そんな順風満帆な人生を送っているだろうと、思っていた。


 私は自転車が倒れないようにハンドルをしっかりと握ると、冴木先生の顔をヒョイっと覗き込んだ。


「なっ、なんですか⁉︎」

「……目が死んでいる。人生、どこかで間違えた?」


 先生の頬の辺りの筋肉がぴくっと痙攣した。

 図星であることに動揺しているのかもしれないし、失礼な質問に対する嫌悪感かもしれない。先生の気持ちを断定するには、材料が乏しい。相変わらず先生の表情の変化は曖昧で、気持ちが伝わってこない。


「僕のことは放っておいてください。自転車に乗ってください」

「嫌だって言ったら?」

「だったら……一秒でも早く学校に着きます!」


 突然早足になった先生。校門を入ったところで、先生は玄関のある左に、私は自転車置き場のある右に折れる。その分かれ道を狙っての、早足作戦らしい。


「先生って、早く歩けるんだね。いつもこんな感じで歩いたら?」

「疲れます」

「それなのに、私を振り切るために早く歩いているんだ?」

「はぁー、無駄な体力を使ってしまった。夕方には死んでいるかもしれない」

「わぁ、どんな風に死んでいるのか楽しみー! 夕方、アンケートを取りに行きまーす!」


 校門を抜ける。先生は背中を向けるその間際、チラッと私を見た。その目は先ほどとは違って、死んでいなかった。

 なんでこんな自分に付きまとうんだろう? とでも言いたげな瞳。

 私は自転車置き場に向かいながら、冴木先生の心は表情ではなく、目に出るのかもしれないと思った。


「先生には、生きがいとかやりがいが足りないんだろうな。明日も挨拶してあげよう」


 冴木先生がサエキヒロシなのかはまだ断定できないけれど、確率的には高いだろう。

 先生には奥さんと子供がいるだろうから、積極的な行動は控えるにしても、せめて挨拶はしてあげよう。

 私は、私立大学を受験する。歴史は受験科目にないからと重要視していなかったけれど、真面目に授業を受けてあげよう。



 ◆◇◆◇



 夕方。昨日渡したアンケートを取りに、社会科準備室を訪ねた。そうして冴木先生からアンケート用紙を受け取った私は、目を疑った。


「え……? どういうこと?」


 家族構成の質問に対して先生は、


『母と弟』


 と、書いている。


「お父さんは?」

「亡くなりました」

「いつ?」

「十年ほど前に」


 前世の記憶を書いた紙には、

『お母さんが病気で亡くなって、お父さんとおじいちゃんと住んでいた』

 と書いてある。

 だからこの『母と弟』というのは、血の繋がった家族ではないだろう。千葉に引っ越した後で、お父さんが再婚したに違いない。

 それはいいとして、妻と子供と書いていないことに驚く。


「先生って、もしかして結婚していないの?」

「はい」

「バツイチ?」

「いいえ」

「まさか……ずっと独身?」


 先生は黙り込み、なぜか眼鏡のレンズを拭き始めた。目頭に鼻パットの跡が、くっきりとついている。 


「非難しているわけじゃないんですけれど、意外だったもので……」

「非難されていると思っていません。渡瀬さん、昨日、不倫とか略奪と言っていたので。誤解しているのはわかっていました」

「なんでそんな丁寧な言葉で話すんですか? 私、生徒ですよ?」

「生徒との距離感がよくわからないんですよね。とりあえず丁寧に接していたら、問題ないかと」

「消極的!」


 社会科準備室には冴木先生の他に、三人の先生がいる。

 他の先生を気にしてか、冴木先生はいつも以上に小さな声でボソボソと話す。私も付き合って、声量を落とす。


「結婚願望はあるんですか?」

「ないです」

「恋人は?」

「教えません」

「へー、いるんだ」


 冴木先生は眼鏡をかけ直すと、私を見ることなく、パソコンの黒い画面に顔を向けた。


「授業に関係のない質問には答えないことにしているんで。アンケートを渡したんですから、帰ってください」

「じゃ、これだけ! お母さんと弟さんとは仲が良いですか?」


 私の想像の中では、サエキヒロシには奥さんと子供がいて、仕事も順調で、順風満帆な幸せな生活を送っていた。

 しかし、実際の冴木裕史は違う。だからといって別に、私の想像通りでなくてかまわない。結婚が幸せとは限らない。独身でも、当人が幸せを感じているならそれでいい。

 温厚な冴木先生なら、新しくできた家族とも仲良くやっているだろうと思っての質問。

 けれど先生は机の上に乗せている骨張った手を見つめながら、暗い声で答えた。


「普通です」


 瞳に宿った内向的暗さ。力ない表情。自分に自信がないと訴えているような猫背気味の背中。


 私の直感は告げる。──家族仲が良くないらしい。


 冴木先生は、心の動きを顔に出さない。曖昧な表情をする。その意味が、わかった気がした。

 この人は、感情を抑えて、周囲に合わせることに慣れている。丁寧語で話すことで、人と距離を置いている。

 推測でしかないけれど、そうせざるをえない環境だったのかもしれない。

 胸にズキリとした痛みが走る。

 昨日の先生の笑顔を思い出す。明るく笑える人なのに、笑顔を見せないのはもったいない。それに瞳が心を表すなら、先生はとても優しい人。

 優しい人は、傷つきやすい。

 だったら私は、前世の幼馴染かもしれない先生のために、明るさを提供してあげよう。私の元気を分けてあげよう。

 

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