第7話 サエキヒロシ
生き物は、ある日突然死ぬ。幼稚園のお祭りで買ってきた金魚は、三日目の朝、水槽の中でぷかりと浮いていた。
そういうわけで私は、前世の記憶を綴ったノートを処分することにした。未練がないわけじゃない。本当は捨てたくない。
けれど及川めぐみと同じように、私も突然死ぬかもしれない。遺品整理をする母に、前世ノートを見られたくない。
前世ノートを一枚ずつ破り、書いてある文字をじっくりと読んで頭に叩き込む。
小五のときに書いたものなので、字が幼い。
『さえきひろし……隣に住んでいたおさななじみ。あだ名はぴろりん。一つ年下。お母さんが病気で亡くなって、お父さんとおじいちゃんと住んでいた。メガネをかけていて、頭がいい。千葉に引っ越しした。花火を見に行こうと誘われたのに、行けなかった。なんで私を花火に誘ったのか、聞いてみたい』
私、
「ぴろりんと偶然会うこと、あるかな? ……会っても、わからないと思うけど」
彼はきっと、良い会社に入って、順調に出世して、可愛い奥さんがいて、子供に恵まれて。そんな順風満帆な人生を送っているだろう。
彼について書かれたページを捨てようとして、手が止まった。ある文章が引っかかる。
『花火を見にいこうと誘われたのに、いけなかった。なんで私を花火を誘ったのか、聞いてみたい』
「好きだから、花火に誘ったんじゃないの? それとも、違うのかな? ……わかるわけないけど」
悩んだ末に私は、彼のページは捨てないことにした。四つ折りにして、江戸川乱歩の『少年探偵団』の文庫本に挟む。
私の母は読書好き。
「お母さんは小学生のときに、江戸川乱歩にハマったの。おもしろいから、友那も読みなさい」
しかし、母と違って私は本好きじゃない。漫画もあまり読まない。動画で生きている女子中学生。
そういうわけで、江戸川乱歩の『少年探偵団』は、一ページも読まれることなく、机の中にしまわれた。
そのうちに私は、サエキヒロシのことを忘れた。
◆◇◆◇
サエキヒロシと再び巡り会ったのは、高校三年生の四月。歴史の授業。
ぽかぽかとした昼下がりと冴木先生のボソボソした話し声が睡魔を誘発し、私はうつらうつらとしていた。
眠気を催したのは私だけじゃない。まったりとしてしまった生徒たちに、冴木先生は授業を進めるのを諦めたらしい。自分語りを始めた。
「僕は小学校の図書室で歴史漫画に出会い、それがきっかけで、歴史に興味を持ちました」
私は
ハッと、目が覚める。あんなにしつこかった眠気が、一瞬にして吹き飛んだ。
──ぴろりん? ぴろりんって、誰だっけ? えぇっと、どこかで……あっ!! 前世の幼馴染くんのあだ名!! ……フルネームは、なんだっけ?
冴木先生は反応のない生徒たちに向かって、関ヶ原の戦いの勝敗を決めた要因ついて語っている。
冴木先生はおとなしそうな垂れ目なのに、小早川秀秋の苦悩や徳川家康が西軍に行った根回しについて語るその目は、楽しそうに輝いている。
この人は戦国時代が好きなのだと思った。眠そうにしていた生徒たちも、冴木先生の熱い語り口にいつの間にか聞き入っている。
私はそれまで冴木先生のことをくたびれたおじさんだと見做して、眼中に入れていなかった。
家に帰るとすぐさま自分の部屋へ入り、本棚に向かう。
「本に挟んだような記憶があるんだけど……」
私の本棚には、母が読み終わった本が入っている。こうして近くに置くことで、いつか私が手に取り、本好きになってくれれば……という願いがあったらしい。
それが功を奏して、私は高校生になってから本を読むようになった。特に、ミステリー小説や怪奇小説が好き。
江戸川乱歩の少年探偵団にはハマらなかったが、『人間椅子』や『芋虫』や『人でなしの恋』といった怪しい作品に引き込まれた。愛を煮詰めていくうちに純度が狂った、歪な愛の世界。それはまるで、ひび割れた鏡のよう。何人もの自分が、こちらを見ている。
「あれ、おっかしいな。どれに挟んだんだっけ?」
本棚の本を一通りペラペラと捲ってみたが、挟まっているのは栞だけ。
腰に手を当てて考えていると、ふと、机の中にも本が入っていることを思い出した。
「そうだそうだ、机の中!」
一番大きな引き出しを開けると、江戸川乱歩の『少年探偵団』が目に飛び込んできた。
ページをパラパラと捲ると、紙片がパサリと床に落ちた。
紙を広げ、文字を追う。
「やっぱり、サエキヒロシだ。冴木先生が、花火の人? う〜ん……?」
冴えない容姿とおとなしい性格をした、冴木裕史先生。
花火大会に女性を誘うよりも、部屋で一人、ゲームをしているほうが似合っている。
サエキヒロシ。
もしかしたら佐伯宏かもしれないし、斉木浩志かもしれない。漢字まではわからない。
とりあえずのところ、冴木先生を候補の一人に入れておこう。
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