第6話 前世の家族が幸せでいますように

 私が前世を思い出したのは、六歳。三日間ほど続いた高熱がきっかけだった。


 四十度に近い熱に苦しみながら、夢をみた。

 太陽が反射してキラキラと輝く、一面の銀世界。私はソリ滑りやスキーをして遊んだ。

 太陽が燦々と降り注ぐ夏。庭に張ったテントに出入りして夜になるのを待った。夜はおまちかねの花火。そして、兄の友達たちに混ざっての肝試し大会。

 幼馴染の男の子に花火大会に誘われて、ドキドキした。──花火の約束、守りたかったよ。楽しみにしていたから。だから神様に、ぴろりんに会いたいって、お願いしたんだ。生まれ変わるから、待っていてね。


 目尻から涙がこぼれた。高熱のため、火がついたように顔が熱い。涙は伝い落ちていく最中に皮膚の熱を吸い、耳に伝い落ちたときにはお湯みたいにあたたかくなっていた。


「帰りたい……」


 懐かしさを感じる、不思議な夢。私はスキーも肝試しもしたことがない。

 幼馴染の男の子って、誰? 神様にお願いした? 帰りたいって、どこに?

 混濁した意識の中で不意に、私は理解した。夢の中で、呼ばれた名前。


 ──及川めぐみって……私の名前だ。


 熱が引いて体調が戻っても、夢がこびりついて離れていかなかった。

 私は母のスマホをこっそりと拝借し、『おいかわめぐみ』と音声入力した。

 そうして出てきたのは漢字だらけで、六歳の私には理解できなかった。けれど、車が大破した事故写真に、すべてを思い出した。


「そうだ。私、死んだんだ……」


 後ろから大型車に追突され、私は死に、同乗の祖父母も亡くなった。

 両親と兄は深い悲しみに沈み、母は棺桶に縋りついて「連れて行かないで! 焼かないで!!」と慟哭どうこくした。

 棺桶の中に眠る私。裕史は私の顔の横に白い花を置きながら、「忘れないからね」と腫れぼったい目で囁いた。

 どうしてそれらを知っているのかというと、自分の葬式を見たから。祖父母はおらず、私一人で、自分たちの身体が火葬場に入るのを見ていた。そうして、身体が焼かれる煙とともに空に昇った。またここに帰ってくると誓って。


 両親、兄、裕史、友達、先生、親戚、村の人たち。みんなに会いたい。そして、言いたい。


 ──めぐみは元気にやっているよ! 渡瀬わたせ友那ゆうなという名前で、千葉に住んでいるよ。だから、悲しまなくて大丈夫だよ!


 みんなを励ましてあげたい。元気だって伝えたい。

 だから私は家にある日本地図で福島県を指して、「ここに行きたい!」と、母に訴えた。母は嫌な顔をした。


「行きたくない。沖縄とか北海道のほうがいい」


 両親は、及川めぐみが生まれた場所に興味を持ってくれない。だったら私はお金を貯めて、一人で行くしかない。


「うん、一人のほうがいい。そのほうがたくさん話せるもん!」


 その後。私は小学校に入り、新しい友達ができ、塾とピアノ教室とスイミングと英語教室に通い、喧嘩の多かった両親は離婚した。小四で吹奏楽部に入り、クラリネットの猛練習をしたが、関東大会で悔し涙を流した。

 小五のとき、吹奏楽部は分裂した。熱心な六年生と、のんびりとした四年生。私たち五年生が両者を取り持って地区大会に臨んだが、結果は銀賞。号泣する六年生を見て、四年生は厳しい世界にいることを肌で感じたのだろう。それからは、練習に身を入れるようになった。


 そうした日々の忙しさが前世の記憶を隅に追いやり、記憶の層に沈みこませた。

 気がついたときには、前世の両親の名前があやふやになっていた。


「お母さんの名前って、すみれだっけ? それとも、すみえ? お父さんは、かつのり……じゃなくて、ええっと……」


 どうしよう! 前世の記憶がどんどん薄れていく。このままでは忘れてしまう。

 私は覚えている限り、ノートに書いた。

 このノートがあれば大丈夫。母に一人旅を反対されない年齢になったら、絶対に会いに行く。そう、決めた。

 それが、小五のときの話。


 しかし、中三の夏。死亡事故遺族のドキュメンタリー番組を見て、考え込んでしまった。

 及川めぐみが死んで、十五年が過ぎた。両親と兄は悲しみを乗り越えようとして、必死に前に進んだことだろう。

 喪失を抱えながら人生を歩んでいる、昔の家族。

 兄は結婚して、子供がいるだろう。両親は孫を可愛がっていることだろう。

 仏壇にある写真に手を合わせて、亡くなった娘が天国で安らかにいるよう祈ってくれているはず。

 そこに、前世の記憶があやふやな私が現れるのは、どうなのだろう。


「会いに行ったら、喜んでくれる? それとも戸惑う?」


 高校生になったら、会いに行こうと決めていた。けれど、迷いが膨らんでいく。

 私は前世の家族の顔も名前も忘れてしまった。それなのに、ぎこちなさを感じさせることなく、「お父さん」「お母さん」「お兄ちゃん」と呼べる? 

 ノートに書いていないことを聞かれたら、どうしたらいい? たとえば、めぐみとの会話。めぐみが好きだった食べ物。好きだった漫画。

 私はなんて答えればいい? どう反応したらいい? 

 忘れてしまったことがあまりにも多い。

 ノートに書かれた文字は、単なる文字になってしまった。これを書いた当初の懐かしさは、まるで走り去った電車のように遠くへと行ってしまった。追いかけようにも、思い出がどこに去ってしまったのかわからない。


 喪失という名の傷口をひっかくぐらいなら、会わないほうがいいのかもしれない。


 そう思った途端。涙がポタッとこぼれて、座り込んでいた膝に落ちた。ノートを胸に抱きしめる。


「……会うのが、怖い……」


 涙に連動したかのように、夕立が降りだした。

 わんわんと声をあげて泣きながら、そういえば、うだるような夏の日。夕立に緑が溶けて、村が緑色に染まったときがあったと、記憶の層からあの日の光景が色鮮やかに浮上してきた。

 瞼が腫れた目で、マンションのベランダに出る。夏の終わりの暑さに湿気が絡みついて、不快指数が上がる。

 マンションの十五階から、180度見渡す。濡れた屋根と、道路を縦横に走る車の列。建物の影で見えないが、電車が走っている音が聞こえてくる。

 人々の生活の隙間を縫うようにして、ぽつぽつと点在する木々。

 雨が緑を溶かすには、自然が少なすぎる。ここには、山も森もない。


 雨上がりのオレンジ色の空を見上げれば、空はどこまでも続いていて、風は北に向かって吹いている。空は続いている。風は流れていく。

 会うことはなくても、両親と兄、村の人たちが元気でいてくれたら嬉しい。


「めぐみは元気でやっているよ。だから、悲しまなくていいからね。楽しいことをして、美味しいものをいっぱい食べて、元気で長生きしてね。家族として出会えたこと、忘れないからね。ありがとう」


 両親と兄の顔を思い出せないけれど、それでも、お笑いのテレビを見て家族みんなで笑った記憶がうっすらと残っている。幸せな時間だった。


 


 

 


 

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