第二章 今世と前世を繋ぐ幼馴染
第5話 冴木裕史先生
玄関にある鏡の前で、斜めになっていた制服のリボンをまっすぐに直す。
「行ってきまーす!」
病院の心療内科に勤めている母は、私より先に家を出ている。だから家の中には誰もいないのだけれど、行ってきますの挨拶をするのが私の日課。
マンション下の駐輪場に置いてある自転車に乗り、学校を目指す。
五月の風は爽やかで、街路樹の新緑が目に眩しい。
「あー! このまま電車に乗って、海に行きたーい!」
ゴールデンウィークが終わり、五月の存在意義がなくなってしまった。しばらく連休がないかと思うと、自転車を漕ぐ足が重くなる。
「あっ……」
自転車を漕ぐこと、三十分。学校がそろそろ見えてこようかというとき。グレーのバックパックを背負った男性が、目に入った。
冴木裕史先生は、今年赴任してきた歴史の先生。
冴木先生は、ダサい。ジャケットとパンツという組み合わせは悪くないのだが、色も素材も似通っているので、いつも同じ服装をしているように見える。しかも、上下同じ色。おしゃれ心をまったく感じない。
ある男子が、「冴木のくせに、冴えてないじゃん。擬態じゃね?」と茶化したのがきっかけで、我がクラスでは『擬態』と呼ばれている。
猫背気味の先生の背中に、声をかける。
「冴木先生、おはよっ!」
「あ、おはようございます」
いつものように通り過ぎようかと思ったが、なんだかおかしくなってしまい、ブレーキをかけた。自転車から降りる。
冴木先生が近づいてくるのを待つ。
清々しい朝だというのに、冴木先生からは疲れ切った中年男性のオーラが漂っている。イケオジとか渋オジといったものからは、ほど遠い。くたびれたおじさん、略して、くたオジだ。
「ねぇ、先生。生徒がおはよって言っているんだよ。それなのに、おはようございますって返すの、真面目すぎない?」
「だったら、おはようございますと挨拶してください」
「だるぅー」
「年長者への挨拶は、ちゃんとしたほうがいいです」
「うわっ! 冴木先生が説教をしている! 新鮮!!」
私はアハハと快活に笑い、冴木先生は微妙に唇を動かした。言いたいことがあるのか、それとも笑っているのか、それとも不機嫌になったのか、わからない。
冴木先生は表情に乏しいというわけではないのだが、笑う、怒る、悲しむといった表情筋の動きがはっきりしない。曖昧な筋肉の変化では、なにを思っているのか、伝わってこない。
私は高校三年生で、十七歳。
冴木先生は、三十二歳。
十五歳差だが、私は臆することなく意見を述べる。
「先生、朝から
「朝から元気だと、夕方まで体力がもたないんですよね」
「うわぁー、おじさんすぎる!」
「おじさんですから」
「
「おはよう!」
同じクラスの女子が挨拶をして、通り過ぎていった。
自転車を漕ぐ彼女の背中を見送りながら、先生には挨拶をしないんだ……と、モヤっとした気分になる。
自転車に乗った生徒たちが私たちを次々に追い越していくが、誰も冴木先生に挨拶をしない。
関わりのない生徒は仕方がないと思うが、先生の授業を受けている生徒が挨拶をしないというのは由々しき問題だ。
「誰も先生に挨拶しないね。優しいのはいいと思うけれど、生徒に舐められているって感じ」
「ははっ。困りましたね」
私には前世の記憶がある。だけど、冴木先生と親しいわけではないので聞けないし、言えない。
──冴木先生。及川めぐみって女性、知っていますか? それ、前世の私です。
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