あと一歩!

増田朋美

あと一歩!

何をするにも人が多くて、ごちゃごちゃしているというのが、パリ市内なのだと思う。それなのに、日本に比べたら、殺風景なところなどなく、どこかに花が植えられていたり、小さな観葉植物がおいてあるところが、日本とは又違うんだろうなと思われるところだった。そしてどこか自由な雰囲気があって、大都市であっても、日本とは違って窮屈な感じがしないところが、ヨーロッパということでもある。

しかし、場所が変わっても、人の体調とか、そういうものは変わらないものだ。その日も、パリ市内のシャルル・ド・ゴール空港近くにある、モーム家の一角では、、、。

「ほら!どうして食べないの!」

思わず感情的になってトラーが水穂さんに言っていた。

「ごめんなさい。」

水穂さんは、申し訳無さそうに頭を下げるのだった。その次になにか言おうとしたが、えらく咳き込んでしまって、その次の言葉を言えなかった。

「あ、ああ、もう。」

トラーは、水穂さんの背中を擦ってあげたのであるが、水穂さんは咳き込んだまんまだった。とても食べるどころではなさそうだ。トラーは、大量に残っている蕎麦の入った皿を眺めながら、大きなため息をついた。咳き込むのと同時に、朱肉のような色の内容物も出る。トラーは、急いで水穂さんの口元を、タオルで拭き取った。

「ただいまあ。椅子買ってきたよ。最近は日本製の椅子や机がブームになってるみたいで、すぐに百貨店でも買えるようになってたよ。じゃあこれを組み立てますから、もう少しまってくださ、」

そういいながら、トラーの幼馴染のチボーくんが、大きな箱を持って、モーム家に入ってきた。チボーくんは、水穂さんが、トラーに手伝ってもらいながら、又吐き出してしまったのを、目撃してしまい、

「ああ、又やったんですか。水穂さん大丈夫ですか?」

と言って急いで水穂さんに薬を飲ませた。

「食べ物を一度口にしただけなのに、それなのにこんなに咳き込んで吐いて。」

トラーは、水穂さんの背中をさすってやりながらそういうのであった。

「それじゃあ、又今日も食べないと言うことに?」

チボーくんは驚いてそう言うと、

「そういうことだわ。もうなんべん、おんなじことしたら、気が済むんだろう。本当に食べ物を少し口にしただけなのにね。もう、飲み込むこともできないし、なんか食べようとしたら、自動的に吐き出して咳き込んでしまう感じ。」

トラーは、そう続けて言うのであった。

「こんなにもげっそりと痩せちゃって、もう立つのもままならないんじゃないの。なんとかしなくては。でも、どうにもならないわ。どうしたらいいものか。」

それを見たチボーくんは、トラーの気持ちが自分ではなくて、水穂さんの方へ言ってしまっているのかなと、ちょっと彼女を見てしまったのであったが、

「このままでは、水穂も餓死しちゃうわ。あたしたちは、水穂に良くなってもらうためにここに来てもらってるんだし。その役目を果たせないと、あたしたち、まずいことになっちゃうわ。」

と、彼女が言ったので、又考え直した。

「そういうことなら、もう医者に見せたほうが良いよ。僕らがなんやかんや言っても、解決は医者でしかできないよ。」

とチボーくんはスマートフォンを取り出して、急いでベーカー先生の番号を回した。水穂さんが、何日もご飯を食べないで、食べようとすれば咳き込んで吐いてしまうので、なんとかしてくれと言う内容であった。

ベーカー先生はすぐ来てくれた。水穂さんは、薬の成分で眠ってしまっていたのであったが、ベーカー先生は、そのげっそり痩せてしまった顔を見て大変驚いていた。

「えーとまず。」

と、ベーカー先生は言った。

「なにか体重にこだわるとか、そういうことはありますか?」

「いえそれはありません。それよりも、食べないんです。とにかく食べないんです。なにか食べろと言ってるんですが、口にいれると自動的にというか、まるで、吐き出すスイッチが入ったみたいに、咳き込んで吐いてしまうんです。」

トラーは、一生懸命言った。

「あたしたちは、一生懸命食べさせようとしてるんですけど、それでも吐き出してしまうんです。水を飲んでも、何をしても吐き出してしまうんです。それじゃいけないっていくら言い聞かせてもだめなんです。一体どうすれば食べてくれるんでしょうか。あたしたち、どうしてもわからないんです。」

「そうですねえ。人間は食べない生きていけない動物ですから、それは確かにまずいですよね。例えば、カウンセリングとか、そっちの方を受けさせる様にしてみましょうか?」

考え事をしながらベーカー先生は言った。

「とりあえず、一緒にここへ来ている方から事情を聞いてみましょう。なにか日本であったのかもしれません。」

とチボーくんがそう言うと、とりあえずその日は、その程度で終わった。とりあえず、マークさんと一緒に買い物に行っていた、杉ちゃんの返ってくるのを待つことにした。杉ちゃんに話をすれば、なにかわかるかもしれない。

「ただいまあ。帰ってきたよ。パン買ってきたから、明日焼いて食べよう。」

と、杉ちゃんがでかい声でそう言っているのが聞こえて来た。チボーくんとトラーは、すぐ杉ちゃんに話を聞こうと思って顔を見合わせた。杉ちゃんが、車椅子でモーム家に入ってくるのを確認すると、

「杉ちゃん、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですがね。」

チボーくんが日本語で杉ちゃんに言った。それと同時にベーカー先生が、すみませんと変な発音で言った。チボーくんは、自分が通訳するから大丈夫といった。そしてチボーくんの通訳を介しながら、杉ちゃんに話を聞き始めたのであった。

「それでは、すぐに聞かせていただきますが、こういうのを日本語ではなんというのでしたっけ。」

「単刀直入。」

チボーくんの質問に杉ちゃんは答える。

「そうですか。実は、水穂さんのことですがね。何日も、ご飯を食べずに吐き出してしまうことを繰り返しているんです。それで、日本ではどうだったのでしょうかね。同じ様にやっていたのでしょうか?」

「はい。その通りにしていました。」

杉ちゃんは、即答した。

「ということは、ご飯を口にすると、咳き込んで吐いてしまうことを繰り返していたのでしょうか?」

ベーカー先生は聞いた。

「ええ、やってましたよ。まあ、日本にいても解決しないからってことで、こっちへ来るようにと言われてこさせてもらったんだけどね。水穂さんの気持ちは変わらないようだね。」

と杉ちゃんはカラカラと言った。

「そうなんですか。それはもしかしたら、こちらでは患者さんを虐待ということになるかもしれませんよ。なにか食べない理由があったんでしょうか?それほど、体重にこだわっていたのでしょうか?それほど、こだわる理由があったんでしょうか?」

ベーカー先生がいうと、チボーくんの通訳を介して、

「体重がどうのとか、そんなことはどうでもいいんだよ。それよりも、多分きっと食べる資格が無いんじゃないかと思って、食べないんだと思うよ。」

と杉ちゃんは言った。

「食べる資格がない?」

チボーくんもトラーも、驚いてそう言ってしまう。

「なんでそんなこと言うんですか?」

と、チボーくんは思わず言った。

「食べる資格が無いなんて、まるで刑務所でも入ってる人みたい、、、。」

トラーも思わず言ってしまう。

「それでは、誰か水穂さんに言い聞かせることが出来る人がいてくれれば良いと言うことですかね。水穂さんはおそらく、摂食障害とか、そういう病気ですよ。だって、食べていけない人間なんて、どこにもいるわけ無いでしょう。摂食障害はダイエットから始まるといいますけどね。中には、宗教的な理由とか、思想的な理由で、食事を拒否することから摂食障害の始まりの人もいます。とにかく、摂食障害の治療法としては、行動療法、認知療法、薬物療法などありますから、それらを組み合わせた治療をしていきましょう。治療は、色々あるはずですから、医者だけではなく、いろんな専門家を交えて治療していくことが大事ですよ。そうしなければ、彼はきっと死んでしまいます。それではいけません。」

ベーカー先生は医者らしくそういったのであった。チボーくんが通訳すると、杉ちゃんは、表情を変えないで、

「そうだねえ。それでは、まあ難しいことだと思うけど、同和問題のことは、解決するのは難しいよ。それは、本当に難しいというか、なかなかそうはいかないぜ。」

「同和問題ってなんのこと?」

トラーがいうと、

「あのねえ、日本の歴史的な問題でさあ。実はねえ。日本には士農工商と言う身分制度があって、武士、農民、職人、商人という身分制度があったけど、それよりもっと低い身分とされた人がいたわけよ。そういう人たちは、同和地区と言う居住地区に閉じ込められて、新平民と呼ばれて差別されたんだ。水穂さんは、そこの新平民から来てるんだ。だから、日本では、医療機関にも満足に受けさせてもらえなかった。きっと、新平民を連れてきたらうちの病院が汚くなっちまうって追い出されるのが落ちさ。そうなっちまったら、可哀想だからさ。だから、医療機関にも連れていけないの。もうしょうがないって、諦めるしか無いんだ。それが、同和問題って言うやつだ。そういうこと。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、チボーくんが、

「つまり、ここで言ったら、ワルシャワ・ゲットーのような感じですか?ほら、戦時中にユダヤ人が特別な地区に住まわされたとか言うでしょう?」

と日本語で言ったのであるが、

「うーんそうだねえ。ちょっと意味が違うんだけどなあ。まず初めに、ワルシャワ・ゲットーと同じっていうんだったら、水穂さんたちは、日本人ではないということになるよねえ。」

と、杉ちゃんは答えた。

「よくわかんないなあ。同じ日本人であれば、そうやって人種隔離政策みたいなことを平気でするかしら?違う民族とか、違う宗教とか、そういうことがあるんだったらって考えるけど、日本人は単一民族で、みんな同じ仏教徒だってあたし習ってきたけど?」

トラーもそういったのであるが、

「うーん、教育ってのは、なかなかうまくいかないもんだなあ。本当に学校に閉じ込めて、走りのことしか教えないで、それで何の役にたつというんだろうね。だから学校は百害あって一利なしなんだよ。あーあ、もっといい教育って無いもんなのかなあ?」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「そうねえ。あたしもそう感じた事あったなあ。それでは、水穂のこと、あたしたちがわかってやれることもないってことかしら。」

と、トラーは、申し訳無さそうに言った。

「まあ、そういうことはね、日本の歴史が関わってくる問題だからさ。日本では、そういうことは、口に出して言うこともできないんだよ。なんか言ってはいけないみたいなことがあってさ。水穂さんは、それを強く感じてるんじゃないかなあ。」

「しかし、こっちに来たんですから、水穂さんはちゃんと治療を受けることが出来る環境に来れたということになるでしょう。ここでは少なくとも新平民なんてそんな言葉を使う人はいませんし、銘仙の着物を着ているからってバカにされることもありません。そういうのから解放されたんです。それなら、もっと堂々と羽を伸ばしたっていいんじゃありませんか?」

チボーくんがそう言うが、それと同時に、洗濯物を干していた、モーム家の家政婦のシズさんの歌が止まった。美しい声でシューマンの献呈を歌っていた。シズさんの歌声は時々ロマ語混じりの独特な歌声で、ソプラノ歌手とは又違う歌い方だった。シズさんは、ベランダから戻ってきて、洗濯物のかごを持って部屋に入ってきて、眠っている水穂さんをじっと見た。そして一言、

「あたしと一緒かな。」

と小さな声で言った。

「あたしと一緒。」

と、トラーがいうと、

「そう。あたしと一緒。」

シズさんはそういうのだった。あまり日本語の知識はなさそうであるが、そのくらいは覚えてくれたらしい。シズさんは、もうそれ以上言うことはなく、又洗濯置き場に戻っていった。

「シズさん、わかって言ってるのかしら。」

と、トラーがいう。

「でもあたしは違うと思うわ。あたしは、人間って完全に一人ではいられるもんじゃないと思うの。必ず誰か一人、愛してくれる人って必要なんじゃないかな。そういう人が居れば、あたしは生きていけると思う。そういう人のために生きていこうって気持ちにもなれると思う。」

「うーん、それはおそらく、同和地区のやつではないやつが使う言葉だと思うぞ。水穂さんみたいな人は、どこへ行っても、軽く見られちゃうのが、オチだからねえ。誰か愛してくれる人がいるっていうのはねえ。まあ、よほど運が強いやつでは無いと、難しいぜ。みんな諦めて生きてるよ。」

杉ちゃんはでかい声で彼女の言葉を否定した。チボーくんはそのトラーの言葉を聞いて、トラーは本当に自分のもとから離れてしまったのかと、思ってしまった。ベーカー先生が、杉ちゃんになにか言った。杉ちゃんが通訳してくれというと、チボーくんはすぐに我に返って、

「ああ、あ、あのね。とにかく水穂さんに医療を受けさせるために説得することを試みてください。そうしないと、彼は間違いなく、逝ってしまいますよ!」

と自分の思いを込めて言った。

「まあ、無理だねえ。日本では、無駄骨折でそういうことはさせないよねえ。」

杉ちゃんは、そういうのであった。つまりにっちもさっちもいかないということか。

とりあえず、ベーカー先生は、水穂さんになんとかして医療を受けてもらうように言ってくれと言って、次の患者さんがいるからと言って、モーム家をあとにした。それを見ながら、偉い人は、肝心なときにはいないんだなとチボーくんはため息をついた。

それから数日後のことである。日本語に訳すと、只今火災が発生したので、避難するように、という放送が流れた。幸い、モーム家があるところはそれをする必要がなかったが、その前を、消防自動車やパトカーが走っていく音がして、かなり大きな火事であることは間違いなかった。翌日、又トラーが、水穂さんの世話をしていると、

「こんにちは、昨日は大きな火事だったねえ。消防自動車が五台も通ったよ。」

とチボーくんがやってきた。

「そうだったみたいね。なんか放火の疑いもあるってテレビのニュースで言ってたわよ。まあ、又変な理由で放火したってことかなあ。」

とトラーが、お茶を入れながらそう言うと、

「うん、それは、聞いたよ。なんだか雇ってもらっている人から解雇を言い渡されてそれが理由の犯行だったそうじゃないか。まあ、そういうことは、ロマ族みたいなやつがやりそうなことだ。」

とチボーくんは、一般市民らしい会話を始めた。

「それは言わないほうが良いわ。シズさんもいるし、水穂もいる。あたし、誓ったの。こないだの杉ちゃんの話を聞いてから、どうしたら水穂のこと救えるかなって。それであたしは、そういう人の批判はしないって誓ったわ。」

チボーくんは驚きを隠せなかった。トラーが、そんなこと言うなんて、初めてそんな言葉を聞いた。今までいじめられて、一人ぼっちになってしまったとか、居場所はどこにもないとか、そういうことを言っていた彼女が、他人のことで悩むようになるなんて、、、。チボーくんは驚きを隠せなかった。

「じゃああたし、水穂におかゆ作ってくる。今度こそ、食べてもらうわ。あたしが、水穂のこと愛してるって言えば、同和問題って言うのかしら、それも変わってくると思うのよ。だから、それを忘れないで。」

トラーはそう言って台所に行ってしまった。困ってしまったチボーくんは、途方に暮れた顔で一瞬変な方を見てしまったが、

「せんぽくん。」

杉ちゃんに言われてハッとした。

「男らしく告白しろ。」

せんぽくんことチボーくんは、は、はいと思わず言ってしまう。

「よし、ハイと言ったんだから、それでは、ちゃんと言えるだろうね。ちゃんとトラ子さんに言うんだぞ。そうでなければ、お前さんの恋人は、水穂さんに確実に取られてしまうことになるだろう。それではいけないもんね。」

「そうですが、もう彼女は、無理なものは無理なんじゃないかと思うんですよね。彼女は水穂さんのことをずっと思っているようですし。」

チボーくんはそういうのであるが、

「何を言ってら。トラ子ちゃんが、水穂さんと一緒になったら、トラ子ちゃんも、水穂さんとおんなじように苦労しなければならなくなるんだぞ。それで幸せって言えるかなあ?まあ、本人は愛される人がいるから良いと思うけどさあ。でも、お前さんにしてみればたまんないでしょう。そうなる前に、俺がいるんじゃい!俺のところに来いってでかい声で言ってやらないと。それは男のすることだ。ちゃんとやってやらなくちゃな。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「はあ、日本人は、自分のこというのに、いろんな言い方をするんだと言うのは聞きましたが、それはどう使い分けたら良いんですかねえ。」

チボーくんはそう素朴な疑問を言ってしまう。

「そういうことは、なんというのかな。気持ちの問題かな。どうしても伝えたいことがあるってときは、俺って言ってしまうかな。まあ、とにかくな、自分のことどれだけ強く言うのかを決めるときに、自分の言い方を変えるってことじゃないか?それはどこの種族でも同じだよ。はははは。」

杉ちゃんはでかい声で言った。そうこうしている間に、トラーが、バケットの入ったかごを持って、部屋に入ってきた。彼女は水穂さんの方へ行き、

「さあ食事ができましたよ。食べて頂戴。」

と、静かに言って、水穂さんの肩を揺すった。そうやって、一生懸命水穂さんの世話をしている彼女を見て、チボーくんは、どうしようかと考えたが、杉ちゃんはチボーくんの肩を叩いた。それでは、しなくちゃだめなんだと思ったチボーくんであったが、トラーが一生懸命水穂さんにパンを食べさせようとしているのを眺めてそれがなまってしまった。




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