つぼみ ~花咲ける食卓~

鳥尾巻

鉄仙

 夕暮れ時、家々に灯りがともる。アヤはそこかしこから漂う夕餉の匂いに追い立てられるように、急ぎ足で歩いていた。歩みに合わせて、肩までの真っ直ぐな黒髪と小柄な体には不似合いなほど大きな胸が揺れる。男性からの視線を集めやすいのが悩みのタネだが、今は別のことで頭がいっぱいだった。今日の夕飯の献立と、手のかかる義弟のツトムのことだ。

 アヤが五歳の時に実父が亡くなり、八歳の時に母親が再婚し、義父と義弟と暮らし始めてもう十七年になる。

 大学を出て三年、今年で二十五歳。食材宅配サービスの会社に就職し、商品設計やメニュー開発の仕事に携わっている。管理栄養士の資格を取ったのも、元はといえばツトムの為だ。子供の頃は食が細かったツトムだが、アヤが作った食事は残さず食べてくれる。

「ねえちゃん、腹減った」と言うツトムの姿を想像して、優しげに垂れたアヤの目尻がさらに下がる。アヤの身長を追い越しても、大学生になっても、甘えたがりなところは変わらない。

 今日は少し遅くなってしまった。帰り際、会社の先輩のコウノに引き止められていたからだ。入社時に教育係をしてくれたコウノは、今もアヤを何かと気に掛けてくれる。

 尤も今日は、先輩としての枠を超えた話をされて帰宅が遅れた。こんな時、相談できる親が近くにいればいいのだが。母親は義父の単身赴任先について行ってしまって、今は実質ツトムと二人暮らしだ。アヤは軽く溜息をついて玄関を開け、家の中に声を掛けた。

「ただいま」

「アヤさん、おかえりなさい! お邪魔してます」

 二階のツトムの部屋からバタバタと忙しない音が聞こえて来た。騒々しい足音の主はツトムの大学の友人のサワキだった。少し軽薄な印象だが、金色に近い茶髪が色白な彼に似合っている。

 サワキは人好きのする笑顔をアヤに向けて、少々大きすぎるのではないかと思う程の音量で挨拶をした。

「いらっしゃい、サワキくん。ツトムは?」

「あいつは寝てます」

「しょうがない子ね。もうすぐ夕飯だから後で起こしてくれる? サワキくんもご飯食べてくでしょ?」

「はい! やった、アヤさんのご飯大好き! 何かお手伝いすることありますか?」

「レポートは終わった?」

「はい」

「じゃあ、サラダ作ってもらおうかな」

「はーい」

 サワキは元気よく返事をして、アヤの手から買い物袋を受け取った。普段から無気力であまり人と関わりたがらないツトムだが、この明るく人懐こい友人が潤滑剤になってくれるお陰で、大学生活も滞りなく送れているようだ。

 ダイニングに向き合う形でアイ字型に配置されているキッチンで、サワキと並んで料理をしていると、レタスを洗っていた彼がもじもじしながらアヤに話しかけた。

「なんか、こうしてると新婚さんみたいですね」

「ふふ。サワキくんはいい旦那様になりそうだね」

「はい! それはもう……、あの、アヤさん」

 頬を赤らめたサワキがなおも何かを言おうとした時、ダイニングのドアが開いてツトムが入って来た。無表情で分かりにくいが、アヤには義弟が不機嫌なことは目の表情で見てとれる。

 ツトムは無言でアヤの背中から長い腕を回して、彼女の髪に額をぐりぐりと押し付けてくる。いつも寝起きにそれをされているアヤは笑いながら、ツトムの腕を軽く叩く。

「なに、寝惚けてるの?」

「んーん。腹減った」

「もう、ツトムも何か手伝って。サワキくん、サラダ作ってくれてるよ」

「……じゃあ、箸並べる」

「小学生かよ」

「サワキ、帰らなくていいのか?」

 ツトムはアヤに抱きついたまま、無感情にサワキを見た。目があまり良くないのに眼鏡もコンタクトも嫌がるので、人を見る時目を眇める癖がある。

 子供の頃の体験が原因だが、誤解を招くので気を付けなさいと言っても、ツトムは無頓着だ。何事にも執着せず、家族と一部の友人にしか打ち解けない。サワキもよく付き合ってくれるものだ。

「食べたら帰りますよお。俺がこんなに尽くしてるのにツトムは冷てえなあ」

「ごめんね、サワキくん。いつもありがとう」

「なんでねえちゃんが謝んの?」

 ツトムは不思議そうにアヤの顔を覗き込む。たしかにいい年をした弟の代わりに謝るのは過保護が過ぎる。

 今日、コウノにも指摘されたばかりではないか。もう大学生なんだから過干渉は良くない、と。食事に誘われたのを断る口実と思われたのだろうか。幼い頃のツトムを知っていればそれも仕方がないと、アヤは心の中で言い訳する。

 食卓には必ず花を飾る。少しでも楽しい気持ちで食事を摂れるように、家族が続けている習慣だ。出来上がった夕飯を三人で食べながら、アヤはツトムと初めて会った時のことを思い出していた。


 ツトムの産後すぐに父が海外に単身赴任となり、周囲に頼る家族や友人のいなかったツトムの実母は育児ノイローゼから家事や子育てを放棄した。児童相談所と警察からの連絡で帰国した父親が見たのは、ゴミ屋敷と化した家と、やつれた妻、栄養失調で発育の遅れた息子の姿だった。

 その後、精神科に通い始めた妻と離婚が成立し、転職しツトムを引き取った義父は、看護師をしていたアヤの母親と小児科で出会った。実父を亡くして以来、母と二人三脚でやってきたアヤは、父と小さな弟が出来たことが嬉しくて、進んでツトムの面倒を見た。

 通常の三歳児よりも体が小さかったツトムは、最初は怯えた目をしてなかなか懐いてくれなかった。それでもアヤが根気よく世話を続けているうちに、やっと心を開いてくれるようになったのだ。

 今でも放っておくとご飯を食べないし、頭は良いが無気力で、生活能力は皆無に等しい。義弟が懐いてくれるのが嬉しくて、いつも真っ直ぐ家に帰っていたから、この年になるまで彼氏がいたこともなかった。

 こんな関係は歪んでいる。そろそろ弟離れする時なのかもしれない。アヤは隣で肉を頬張るツトムの横顔をこっそり見遣り、自分の口には少し大きすぎるレタスの端を齧った。


「ねえちゃん、今日遅かったけど、会社で何かあった?」

 サワキが帰った後、リビングで映画を観ていると、ラグの上に座るアヤの背後のソファに陣取ったツトムはぽつりと尋ねた。

 ホラー映画を観ようと言い出したのはツトムだ。アヤは彼のお願いを絶対に断らない。雰囲気を出す為に部屋を暗くしたので、怖いものが苦手なアヤはクッションを抱き締め、ツトムの問いにも上の空だ。

「うん、ちょっと先輩に食事に誘われて……。でも断ってきたよ」

「ふーん。あのコウノってやつ?」

「こら。コウノさん、でしょ」

「俺、あいつ嫌い」

「なんで? 真面目で良い人だよ?」

「……だからだよ」

 低い声は、殺人鬼から逃れようと逃げ惑うヒロインの悲鳴でかき消された。真面目で誠実な大人の男なんて、今の自分では敵いそうにない。彼女は自分がモテないと思っているようだが、今まで可愛い弟のフリをして、陰で何人の男を退けてきたことか。

 ツトムは悲鳴のたびに肩をビクビクさせるアヤの華奢な背中を見下ろした。怖いくせに年上ぶって平静を装っているのが可愛いと思う。

「怖いなら俺の足に掴まってていいよ」

「別に怖くないし」

 強がりながらも、そっと体を寄せてくるアヤを足の間に挟む。昔は見上げていた頼もしく優しい女の子は、今ではツトムの体の影にすっぽり収まってしまうほど小さい。

「もう、守ってくれなくていいから」

「ん? なんか言った? きゃー!!」

 画面から溢れんばかりの血しぶきに、とうとうアヤが悲鳴を上げてツトムの膝にしがみついた。笑いを堪えるツトムに気付いて、アヤはバツが悪そうに頬を膨らませる。

「なんでこれにしたの? 一人で寝られなくなっちゃうじゃない」

「そん時は昔みたいに一緒に寝てやるよ」

「夜泣きしてたのはツトムの方でしょ。もう子供じゃないんだから、けっこうです」

 ぺチン、と太腿を叩かれる。痛くはないが大袈裟に呻くと、アヤは勝ち誇ったように口角を上げる。

 未だに手がかかる弟のふりをしているのも、毎日独占欲もあらわにアピールしているのも、鈍い彼女は気づく様子がない。

 イライラして無意識に指先を口元に持って行き、爪を噛もうとした。目ざとく気づいたアヤがその手をそっと握る。こういう時だけは聡いアヤに密かに苛立つが、子供の頃からの習慣で安心してしまう自分がいる。

「やっぱりツトムも怖いんでしょ」

 見当違いな言葉に曖昧に笑って、細い指を強すぎない程度に握り返すと、アヤの白い頬がほんのりと赤く染まる。もっと意識すればいいのに。手をつないだまま画面に視線を戻す彼女の白い項を、ツトムは昏い瞳で見つめていた。


 それから数日後。

 残業で遅くなるというアヤからの連絡を受け、ツトムは家中の電気とテレビをつけて、ドアを開けて回った。暗い部屋に独りでいるのは苦手だった。

 遠い記憶の中の、昼でもカーテンを閉め切った薄暗い部屋とゴミの饐えた臭い。時折ヒステリックに泣き叫ぶ実母の声が耳の奥に蘇る。

 サワキを呼ぼうとしたが、今日は用事があると言っていたのを思い出した。アヤの為に夕飯を作ろうと思い立つ。アヤの前では隠しているが、その気になれば何でもできるのだ。それに何かしていた方が気が紛れる。

 食卓に新しい花を飾る。テーブルの上にはいつも花があった。ツトムにはそれが歪んだ幸せの象徴のように思える。アヤに寄せる優しい思慕が、いつしか執着と恋情に変わったことを、ツトムは早いうちから気付いていた。

 家の外から車が停まる音が聞こえる。アヤは電車通勤だから、予定外に両親が戻って来たのかもしれない、と窓の外を覗く。見慣れない青のセダンから降りて来たのはアヤだった。運転席から降りたスーツの男は、会社の先輩のコウノだ。

 真剣な表情でアヤの手を握り、しきりに話しかけている。ツトムが急いで玄関のドアを開けに行くと、彼の言葉の断片が聞こえて来た。

「……、結婚を前提にお付き合いしてください」

 アヤは言葉を詰まらせている。ドアを開けてこちらを見ているツトムに気付くと、慌ててコウノに頭を下げた。

「お話はまた今度。今日は送っていただいてありがとうございました」

 ツトムは近づいてきたアヤの肩をこれ見よがしに抱き、「おかえり」と呟いた。コウノは残念そうな顔をしたが、ツトムに無言で会釈をすると、車に乗り込んで走り去った。


「あいつと結婚するの?」

 ドアを閉じて鍵を掛けたツトムが最初に発した言葉はそれだった。アヤは気まずさを隠して努めて明るく振る舞う。

「わかんない」

「付き合うの?」

「それもわかんないよ。ああもう、また家中電気点けっぱなしじゃない」

 誤魔化すように声を張り上げてリビングの電気を消すと、急にツトムに腕を掴まれる。熱いほどの手の平の温度に鼓動が跳ねる。

「あいつのこと、好きなの?」

「何言ってるの、離して。もうこの話おしまい。あ、すごい、ご飯用意してくれたんだね。お花もある!」

「話逸らさないで」

 腕を引かれ、バランスを崩した体が床に倒れる寸前で抱き止められる。ホッとしたのも束の間、気が付くとアヤはリビングの床に横たわり、自分に覆いかぶさる男を見上げていた。

 こんな人は知らない。少し長めの前髪の間からアヤを射抜く昏い眼差しに、瞬きすら許されない。明かりに照らされた輪郭に沿って頬の産毛が淡く光って見える。鼻先が今にも触れ合ってしまいそうなほど近い。

「アヤ。他の男なんて、ダメだよ」

 感情を抑えた吐息混じりの声がアヤの唇の上を掠めた。ダメ、と言いながら、その低い声はどこまでも深く優しく、甘い毒のようにアヤの心を侵す。こんな時に限って名前で呼ぶのはずるい。心臓の音が内側から胸を叩く。ほとんど力を入れてないのに、手首に巻きつく指を振りほどけない。

 薄く頼りなかった体は成長と共に厚みを増し、否応なしに男を意識させた。気付かないふりをしていただけで、絡みつくような視線は常に感じていた。怯える小さな子供だったオトウトは、いつのまにかアヤの手を離れ、見知らぬ男の顔をしていた。

 暗い部屋に差し込むキッチンの灯り、食卓には花が飾られている。濃紫にクリームの花。あの花の名前はなに? その場に関係のないことを考えようとしても、ツトムの囁きが散漫な思考を遮る。

「俺を見て。俺の方があいつよりアヤのこと好きだよ」

 この声に耳を貸してはいけない。自制する心とは裏腹に、首筋に触れる硬い髪の感触と寄せられた頬の滑らかさに頭の芯が痺れた。

 手つかずで冷えていく食事の上に、鉄仙てっせんの花が薄い影を落としていた。

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