小心者のオカルティズム

不明夜

小心者のオカルティズム

 世紀末に恐怖の大王は現れたのか?二十余年が経った今に結論付けるとすれば、確かに存在したのだろう。破滅的な流星群も、大洪水も、第三次世界大戦も起こらなかったが、確かに世界は一度終わったのだ。

 

 1999年、7月。

 

 その日、あらゆるオカルトは現実となった。


 * * *


「東雲さん、お久しぶりです。ところで、今日は月が綺麗ですね」


 20xx年、11月、都内某所にて。

 点在する居酒屋に仕事終わりのサラリーマンが吸い込まれる中、丸眼鏡を掛けた男は電信柱に寄りかかり、へらへらと言葉を紡ぐ。 


「久しぶりに会っての第一声がソレの人間に、私はどう対応すればいいの」


 対するは、東雲あずも––––––––あずもと呼ばれた小柄な女性。

 彼女の短い髪は白く輝いており、頭上に輝く月にも負けぬ神聖さを見た者に感じさせる。

 或いは、彼女が黒いパーカーに着古されたジーンズという出で立ちでなければ、どこかの神様が「うっかり」この世界に来たのかと勘違いされてもおかしくはない。

 昨今、そのような事例は珍しくないのだから。

 

「うーん、普通に?いつも通り対応してもらえれば」

「普通って何、普通って……はあ。お久しぶりです、斎藤さいとう先輩」

「僕はもう先輩じゃないですよ、卒業しましたし。にしても凄いですね、月」

「スーパームーンでしたっけ?こんな日に皆で集まろうなんて、先輩も粋な事を。少しだけ見直しました」


 年に一度、月が最も大きく見える日。

 今夜は幸いにも雲一つない夜空であり、月は堂々と煌めいている。


 これでもう少し暖かければ最高だったのにと思いながら、斎藤は手を擦り合わせた。

 大学時代、冬の風物詩となっていた仕草を一年振りに目撃した東雲は、少し顔を綻ばせる。


「偶然で褒められるのも悪くないですね。それと、僕の事は親しみを込めて四知くんとでも––––––––」

「そう呼ぶの、教授くらいでしょ。……ずっと気になってたんだけど、今日は一段と酷い寝癖ね」

「寝癖じゃないですよ。少しパーマしただけです」

「あの癖毛から更に!?元から酷い癖毛と寝癖の相乗効果だったのに、そこにパーマまでしたらもう終わりでしょ。大丈夫なの?」


 東雲の心配も当然である。

 

「まあそれなりに大惨事ですね、特に寝起きは。美容師さんに止められた時点でやめるべきでした」


 そして、的確であった。

 斎藤さいとう四知しちはわりと考え無しに動くタイプであると、東雲は約二年間の付き合いで理解している。


「そういう東雲さんこそ、また一段と髪が白くなったようで」

「白髪みたいに言わないで貰える?私のは超能力の副作用みたいなもの……だと思われる何かだし」

「……知ってますよ」


 周知の事実として、東雲の口から超能力という単語が語られる。


 超能力。

 1999年に起こった世界的災害に於いて肯定されたオカルトの中でも、怪異と並んで代表的なもの。

 例えば読心術であるとか、千里眼であるとか、サイコキネシスだとか。

 一世を風靡した超能力というオカルトは、あの日以来違う形で世の中に根付いたのだ。


 最早この世に超能力はあって当然で、いわゆる超能力者の数は日本だけで数十万人に及ぶという。

 東雲も、そんな超能力者の一人である。

 

「僕が卒業して以降、東雲さんの超能力に関する進展は?」

「無し。それに、今日はオカルティックな話を持ち込む気はそんなにないから」

「そんなに……という事は、一つくらいは持ち込んでいると」

「ま、当然だよね。今日のオカルト案件はこちらです」


 そう言うと、東雲はパーカーのポケットから、がま口財布を取り出した。

 元は美しい紺色だったのだろうが色は掠れて見る影もなく、がま口の象徴たる口金も錆びている。

 

「へえ、こりゃかなりの骨董品ですね。こんなもの、どこで手に入れたんですか」

「私も詳しい出所は知らない。都市伝説じみた変な噂と共に誰かが大学へ持ち込んだらしくてさ。それが、巡り巡って私の元まで来ちゃったって訳。オカルトに詳しいでしょ、なんて言われても私は専門外だし苦手だし、薄ら怖いから我らが斎藤先輩に解決して貰おうかと思って。ね?」


 厄介事の気配を感じた斎藤は、電柱に寄りかかるのをやめて少し後ずさった。

 が、無駄。

 斎藤は手首を掴まれ、半ば強引に件の財布を握らされる。


「……東雲さん、貴女腐っても公安の神秘第一課からスカウトされてるんでしょ?僕みたいなタダのオカルト記者に頼らないでくださいよ」

「そんなに謙遜しないで。私よりも経験あるのは間違いないし、そもそも『マー』の記者なんてエリートもエリート、これ以上ないくらい頼り甲斐があるんだからさ。観念しなよ」


 裏のある笑顔で詰め寄る者、引き攣った笑顔で後ずさる者。

 

「人に物を頼む態度じゃないですね。東雲さん、本音は?」

「頼られたから二つ返事で引き受けたはいいけど、私にはどうにも出来なくて……でも他の人に渡して万が一取り返しのつかない事態になったら嫌だし、かと言ってこんな得体の知れない財布が家の中にあるのも嫌だから、手っ取り早く信頼できる人に押し付けたかったの」

「なんて正直な、僕もそろそろ怒る事を覚えた方が良さそうです。まあ?面白そうですし、記事のネタにもなりそうですから、今回だけは許しましょう」


 大学時代、手を替え品を替え幾度となく繰り返された斎藤への押し付けが今回も成功する。

 だがそれも仕方のない事なのだ。

 口先でどれだけ面倒事を避けたいなどと言ったところで、面白そうな事へ首を突っ込みたがる性質はそう直らない。

 

 斎藤が斎藤である限り、あいつは一生押し付けられる運命なのさ––––––––


「久っしぶり、東雲ちゃんに斎藤。何一つ変わってなくておれは安心したよ、みんな遠くに行ってんじゃないかと不安だったからさあ!」


 などと。

 モノローグを引っ提げ、金髪の男が月をバックに現れる。

 まだストライプスーツに着られている感こそあるが、違和感を超える三下感はその場に居た二人を強烈に安心させた。


「……ああ、僕も安心しましたよ。職場柄君も大人しくなるのではと思っていましたが、そんな事はなかったみたいですね。君がそのままで許されるなら、東雲さんも神秘第一課でやっていけそうだ」

「斎藤、お前それどっから目線よ?まるでおれがちゃらんぽらんで落ち着きのない三枚目みたいに言いやがってよお、これでも結構頑張ってるの!後ホラ、神秘第一課は実力主義の煮凝りみたいな場所だし?結果出してりゃ何やっても大体許してくれるから気楽なもんよ」

「本当に何も変わっていない……まあ、法弦先輩が元気そうで何よりです」 


 男の名は法弦ほうげん比叉ひさ

 斎藤の同期であり、優秀な成績で大学を卒業した上で警視庁公安部神秘第一課へとスカウトされるというかなり凄い経歴の持ち主。

 文武両道で超能力を持ち、おまけに顔も比較的良い……天に何物も与えられているが、周囲からの評価は往々にして「ちょっと残念な人」である。


「てかさ、斎藤の持ってるソレ何?めっちゃ古そうな財布だけど、誰かの形見?」

「それは後で私から説明する。斎藤先輩だけに押し付けるのも心苦しいし、法弦先輩にも手伝って貰いたくて。にしても……来ないね、大先輩」

「あー、あの人が遅れるのはいつもの事だし良いんじゃね?先に店入っとこうよー」

「比叉に同意。そもそも、東雲さんが来る少し前に二日酔いを知らせる旨の連絡が来ていたので多分不参加でしょう。ほんっとうにいい加減な人ですよ、飲みに行くんだから酒は控えておけと散々言ったのに!……はあ。店、行きましょう」


 斎藤は後ろを向き、すぐそこにあった赤いのれんを潜り戸を開く。

 ビルとビルの狭間に造られた居酒屋。

 狭い入り口とは裏腹に内部は広く、暖色の照明に照らされカウンター席にテーブル席、個室が相当数用意されていた。

 人の入りはそこそこで、客層としては仕事終わりのサラリーマンが多い。


 店員に案内され、斎藤らは一番奥の個室へ通された。

 斎藤と法弦が隣に、東雲が反対に座る。


「個室だあ……よかった……多分バレてない、おれはバレてない……」

「で、どうして法弦先輩は既に死にかけてるの?」

「知りませんよ。それよりほら、比叉はほっといて何か頼んでしまいましょう」

「酷!いやね、おれの上司がめちゃくちゃ静かに飲んでるのを見つけたからビビっただけよ。怖かった、本当に怖かった。バレたらどうなるかが一切予想できないのが一番怖かった」


 うわごとの様に怖かったと呟く法弦を無視し、斎藤はがま口財布を机の端に置いてからメニュー表を広げる。

 そこには、東雲の想定に千円足した値段がずらりと並ぶ。


「今日は僕が奢りますから、好きに頼んで下さいね。ああでも、飲みすぎて立てなくなった人はそこの川に投げ込んで行くので悪しからず」

「斎藤、それが久しぶりに会った親友への仕打ちか〜?せめて橋の上に置いといてくれよ、酔いが覚めたら自分で帰るからさ」

「酔い潰れる前提で話さなないでください。……東雲さん、どうしました?」 

「……記者って、給料高いんだね」

「命の危険もありますから。このくらいは貰わないと割に合いませんよ」


 何でもないかの様に斎藤は笑い、法弦も頷く。

 この世界に於いて。

 オカルトに携わる仕事というのは、多かれ少なかれ不可解な死と隣り合わせにある。

 まだ明確な「死」がある場合はマシな終わり方だと語る者もいる程には、労災の絶えない職場だらけである。

 

 尤も、オカルトに携わりたい者だけがオカルトに巻き込まれる訳でもないし、不可解で不幸な死者は近年増え続けているのだから、どこまでを労災の範囲内とするべきなのかは日々議論されている。

 

「––––––––でもさー、おれ思うのよ。最近口裂け女増えすぎじゃない?広く認知され、恐れられた怪異は増えると言っても流石に多すぎるって。あれ人と区別付かんし戦闘能力高いし、面倒だから嫌いだ」

「あー、僕は選択を迫ってくるタイプの怪異が大体嫌いですね、面白みがない。全力で無視して逃げるのが一番生存率高いとか、疲れるし怖いじゃないですか」

「嫌いな怪異?なら、私は後から呪ってくる系かな。ちゃんと対処したと思ってても、後々身体中痛くなったり金縛りに遭ったりすると困る。ね、あれってどう対処してるの」


 少し酒も入り、思い出話と愚痴に花を咲かせて、そろそろ最初の目的も頭から離れかけた頃。

 かろうじて思い出した法弦が、ビール片手に口を開く。


「そういやさ、あの財布って結局なに?二人の私物って訳でもないんなら、多分面倒なやつなんでしょうけどー……曰く付きのにしては扱い、雑じゃない?」


 おしぼりの横に放置された財布を指差し、呆れながら話す。

 それを見た斎藤は、綺麗さっぱり忘れていた財布の存在をようやく思い出し冷や汗をかく。


「そういやそうだった、一応それの話もしとかないとね」


 なお、持ち込んだ本人はあっけらかんと笑っている。

 取るに足らない事柄かどうかは、仔細を知っている者でなければ分からないものだ。


「早速で悪いけど……斎藤先輩。その財布、開けてくれる?」

「開けたら呪われるとか爆発するとかは無いですよね。じゃあ開け……開け……ん?」


 斎藤はがま口財布の口金をつまみ、力を込める。

 が、財布の口が開く事は無かった。

 とんでもなくがま口を開けるのが下手?それとも、単純に力不足?

 そんな訳はない。

 そんな訳はないのだ。 


「東雲さん、一応確認しますけど……接着剤で雑に封印したりは?」

「そんな訳ないでしょ。その財布の異常性は一つ、どうやっても開かないこと」

「えっマジ?本当に、どんな手段でも、たとえどれだけの力を掛けて破壊しようとしても?」

「少なくとも、私が使える手段では無理だった。気になるのなら試してみたら?」

「だなー。斎藤、ちょっと貸してくれ」


 法弦はビールを飲み干してがま口財布を受け取り、確認の為に力を込める。

 当然、財布の口は開かない。

 その後も何度か力を込めた後、ため息を吐いた。


「本当はな、すぐこういう手段を使うと怒られるんだよ。しかーし?今この場に居るのは気の許せる友人だけ!恐ろしい上司はカウンター席!だったら試すしかないよね、おれがおれである限りはさ!」


 掲げる。財布を。唐揚げの上に。

 忘れてはならない。

 ここは酒の席であり、程度の差はあれ全員が酔っ払いであり、およそ真っ当な判断能力など失っているという事を。


 法弦が掲げた手を中心に、少しずつ世界が軋む。

 一秒、二秒と時間が過ぎる。

 斎藤が事の重大さに気が付いたのは、果たして何秒後だったろうか。


「っいや待ってこれは洒落になりませんよ比叉!?東雲さん、財布奪って!」

「え?分からないけど了解……!」

   

 東雲の腕が白い光を纏い、先程と全く変わりない財布を掠め取る。

 瞬間。

 地鳴りの如き爆音が、辺りに響き渡る。


 幸いな点といえば、今回の「不幸な事故」における被害らしい被害が無かったこと。


「……なあ斎藤、なんで止めた?」

「比叉、考えなしの超能力使用を咎めるのが自分の上司だけだと思っていたんですか?絶対に壊れない物体と君の超能力は相性が悪すぎる。下手したら自らの超能力で死んでいましたよ」

「……じゃあ何で最初に止めなかったの!?」

「僕も頭が回っていなかったんです。まあ、本当に物理的破壊が不可能だと分かっただけ良しとしましょう。結果論ですが、人も料理も無事でしたし」

「私の腕は無事じゃないんだけど……まだちょっと痺れてる。でも、この流れも少し懐かしいね。法弦先輩が変な事を初めて、大先輩が乗っかって、斎藤先輩も別に止めない……で、私が何故か被害を受ける。それ系で一番酷かったのは、最高の水晶玉を破壊しようとした時だろうね」


 懐かしいエピソードを思い出し、皆が少し笑う。

 最高にして最硬、なんて占いには関係のない部分を誇った真偽も意義も謎の水晶玉を法弦が持ち込んだのが悲劇の始まり。

 何故だか破壊してみようという話になり、法弦が今回の様に––––––––今回と違って素面だったにも拘らず––––––––超能力を使用した結果、水晶玉と水晶玉を置いていた机が爆散したのだ。


 法弦比叉は、振動を操る超能力者である。

 効果対象は自らの手で触れている物のみで、原理は当然ながら不明。

 そして、振動は能力が終了するまで増幅し続ける。

 壊れない物体を握り能力を発動した場合であっても、振動によるエネルギーは無尽蔵に増加し続けてしまうのだ。


「私も失念してたし、斎藤先輩が気付いてないと大変な事になってただろうね。今回ばかりは肝が冷えた……ビール、追加で頼んでいいよね」

「賛成賛成っ!うんうん、失敗は飲んで忘れるに限るよなー!」

「酒のせいで起きた失敗は酒じゃ流れませんよ。全く、飲酒運転は取り締れるのに酔っぱらった超能力者はどうにも出来ないの、納得いきませんよ。……程々にして下さいね?あ、僕は日本酒で」


 夜はまだ長い。

 忘れたい事を忘れても許される、そんな一夜があったとして、誰が責められようか。

 ちょっとした……ものだと少なくとも本人は思っている失敗も、仕事に片足突っ込んでる謎も、もう少しだけ忘れていようと雑談に興じる。


 そうして、一時間半が過ぎた。


 このまま延々と続くかのように思われた夜に終止符を打ったのは、他ならぬ斎藤である。

 かなりのペースで飲み続けていた二人と、自身の財布を気遣っての勇気ある行動だ。

 もう少し早めにお開きにしておいた方が良かったな、などと会計を済ませた斎藤は独り言を溢す。


「なーあ斎藤、この後どうする?飲み直す?もしそうなら今度はおれが奢るよ」

「君が僕の肩を借りなくてもふらつかないのであれば、一考の余地はあったんですけどね」

「どうするにせよ私は帰る。正直、当分アルコールは要らないかな……」

「……との事です。なので比叉、また今度奢ってくださいね」


 やれやれ、というわざとらしい台詞にわざとらしく肩をすくめるジェスチャーを重ねる法弦を、唐突な着信音が襲う。

 法弦は電話に出るや否や平謝りを繰り返し、通話終了と共に今までのテンションは消え去った。

 彼はその後、予定が出来たと一言だけ告げ、おぼつかない足取りで夜の街へと消えてしまう。


「……上司ですかね」

「多分。気の毒な気もするけど……まあ、私達が心配しても仕方ないか」

「……僕達も帰りましょうか」

「だね。あ、駅までは一緒に行くよ」


 例えるのなら、祭りの後の静けさのように。

 酔いにより言葉が出なくなったのか、それとも話題が尽きたのか。

 口数が少ないまま、居酒屋街の喧騒を離れる。

 

 約130メートルの橋の上は異様な程静かだった。

 他の通行人も、車も居ない。

 ただ、二人分の足音だけが響いていた。


「……結局、あのがま口財布に関しては解決しませんでしたね。流れで僕が持ってますけど、元々東雲さんの物でしょう?忘れないうちに返しておきますね」

「それに関してだけど、斎藤先輩さえ良ければそのまま預かってくれない?あまり持っていたくないからってのも当然あるけど、先輩なら解決できるだろうし」

「光栄です。あまり持っておきたくない、というくだりが無ければ完璧でした」


 斎藤は、掠れた紺色のがま口財布をコートのポケットへ無造作に突っ込む。

 実際のところ、得体の知れない物を手放したいという当然の感情は斎藤だって持ち合わせていた。

 許されるのならば、今すぐにでも橋の端へと寄り、海へ全力で投げ捨てたいとさえ思っていた。 

 

 それでもその考えを実行へ移さなかったのは、先輩として、そして怪異を解き明かす者としてのプライド故か、呪われていそうな物を捨てては碌な事にならないという経験故か、それとも財布の中身が気になるという純粋な好奇心故なのか。

 多分、そのどれもが正解なのだ。


 もうすぐ、実際の長さ以上に長く感じられた橋も終わる。

 最後まで静かだったこの橋の先は、霧に包まれているかの様にぼやけて見えた。

 酔いが見せた幻覚だろうか。

 二人して目を擦って、最後の一歩を踏み出して––––––––


「は?」


 ––––––––そして、振り出しに。


「……東雲さん。僕、少し飲み過ぎたみたいです」

「……私も、飲み過ぎたみたい」 


 この橋に足を踏み入れた最初の場所へと、瞬きの間もなく戻されていた。


「……ところで、今日は月が綺麗でしたよね」

「急に何?今はそんな冗談を言ってる、場合、じゃ……」


 年に一度、最も月が大きく見える日。

 その筈だ。

 今は幸いにも雲一つない夜空だが、空に月は無い。


 嫌な予感に従い、二人は後ろを見る。

 背後に広がっている筈の街は、霧に包まれているかの様にぼやけて何も見えない。


「斎藤先輩、これ……流石に不味いよね」

「ええ、かなり不味いですね」

「……どうすればいい?」

「さあ?とりあえず、そこに立っていて下さい」


 困惑する東雲を置いて、斎藤は背後の霧へと足を踏み入れた。

 次の瞬間。

 まるで何事もなかったかの様に、最初からそこに居たかの様に、元の場所へと戻っていた。


「あ、こちらに戻ってきましたか。東雲さん、僕の姿はどう見えていました?」

「え……?ええと、霧に足を踏み入れたと思ったらそこに立っていた、みたいな」

「なるほど。僕もとりあえず、戻される感覚はちゃんと分かりました。あまり……気持ちのいいものではありませんでしたが。霧の先が最初の地点に繋がっている、という感じですね。何者かにワープさせられているのではなく、そういう構造の場所に迷い込んだ、の方が正しい気がします」


 橋の欄干に寄り掛かり、斎藤は淡々と話し始めた。

 

「今の所脱出方法は検討が付きませんが、とりあえず不用意な行動は慎むべきですね。そして何より、焦らないで……この状況を楽しみましょう」

「そう言う割に、楽しんでいる様には見えないけど」

「……僕は、東雲さんを無事に帰さないといけませんから」

「何、それ」

「超能力者でも何でもない僕に出来るのは、帰り道を探すくらいなんですよ。唯一出来ることに責任感を持つのは、よくある話でしょう」


 震える手をポケットに押し込めて、歩き出す。

 斎藤がこのような出来事に巻き込まれたのは今回が初めてではなかったし、東雲が巻き込まれたのもまた、初めてではなかった。

 言うなれば異常事態常連の二人だが、それでも恐怖がなりを潜める事はないのだ。


 静粛。

 橋の下を覗くと、必死にもがく人影の様なものが見えた気がした。

 幻覚か現実かは分からない。

 それに、どちらであろうと最早どうでもいい。


「どれだけ……経ったのかな。この橋に迷い込んで」

「どうなんでしょう。もう何時間も経った気もしますし、まだ三十分も過ぎていない可能性もあります。当然の権利みたいにスマホは動きませんし、月も見えないのでは……どうにも、分かりませんね」

「……死ぬのかな、ここで」

「このままだと。でも、試していない事は沢山ありますから。諦めるには早いですよ」


 などと言う斎藤の目にも、既に諦めの色が現れていた。

 脳裏に浮かぶのは、ありふれた行方不明のニュース。

 大々的に取り上げられる事もなく、ニュースキャスターに一言二言触れられて、次の日には忘れ去られるような最後。


「ところで。何故、僕達はここから出られないのでしょうか」


 橋の真ん中に寝転がり月の無い空を見上げ、嫌な考えを振り払い、一番最初の疑問に立ち返る。

 

 斎藤四知は、一般人である。

 超能力に限らず、特別な力は、才は持っていない。

 よく自身のプライドに振り回されて痛い目を見るし、考えなしで動いては失敗する。


「どんな怪異にもルールはあります。物理法則や常識から離れていても、一定の道理は通っている。そもそもの話、この空間に巻き込まれたのは僕達だけなのでしょうか」


 それでも、考える事だけは昔から得意であった。

 こと怪異が絡む場合において、斎藤四知は「それなりに」優秀である。

 

「直近数ヶ月に於いて、都内での失踪事件はたったの三件。その三件はどれも同一の怪異によるもので、既に解決しています。となると、この怪異は新しく生まれた怪異だと考えるべきですが……そうなると、またおかしな点が生まれます。東雲さん、分かりますか?」

「分かりますかと言われても……斎藤先輩、まだ諦めてなかったんだ」

「つい先程まで諦めてましたよ、正直に言うとね。でも、不貞腐れてポケットの中で手遊びしていたら……ぼんやりと、繋がったので」


 自身を見下ろす東雲の手を借り、斎藤は地面から起き上がる。


「場所に由来する怪異が唐突に生まれる、なんて事は有り得ません。何十年も都市伝説が囁かれ続けたとか、土地神の御神体が池の中に投げ込まれたとか、そういう事情がないのでなければ、ね」

「私が知っている限りだと、この橋に不穏な噂はなかった筈」

「ええ。それにこの人通りですから、僕達が第一の犠牲者となるには余程タイミングが良く……いえ、悪くなければなりませんし、不運で片付けるよりは巻き込まれた理由があると考えるべきです」

 

 この世には、二つの恐怖が存在する。

 

 一つは、理解できるものへの恐怖。

 例えるのなら、火。例えるのなら、刃。

 それにより自身の生命や財産が損なわれると理解できるが故、恐れる。


 もう一つは、理解できないものへの恐怖。

 多くの怪異は、オカルトは人に理解できる範疇より外れている。

 それらが現実となった今でも、神や幽霊と言った怪異を人は恐れているのだ。


「そして、僕達が巻き込まれた理由は––––––––これですよ」


 斎藤はポケットからがま口財布を取り出す。

 そして、さも当然の様に財布の口を開いた。


「なんで!?あんなに色々やっても開かなかったのに……」

「開かないのにも、当然理由はありますよ。鍵が必要だとか、特定の人にしか開けられないとか。この財布も普通の扉と同じで、開けるのに条件が必要だった、ただそれだけです」

「ええと、つまりこの財布のせいで私達はこの橋に閉じ込められた?財布を、開ける為に」

「三十点。とりあえず、財布の中身を見るといいですよ。僕の予想通りでしたから」


 斎藤は、そう言って口の空いたがま口財布を東雲の差し出した手に置く。

 古びた財布の中には、これまた古い硬貨が六枚。


「–––––––六文銭」


 決して開かないがま口財布に収められていたのは、三途の川の渡し賃だった。


「現代に於いて、副葬品で実際のお金を使う事はありません。それは貨幣の損傷が犯罪となるからですが……その法律が制定されたのは昭和となってからです。対して、がま口財布が日本へ持ち込まれたのは明治–––––––まだ、貨幣としての文を持っている人も居たでしょうね」

「じゃあ、これは誰かが無事にあの世へ行く為の物だったのかな」

「恐らく。その財布は、都市伝説という尾ひれを付けて僕達の時代まで残ってしまった昔の誰かの祈りですよ。死者があの世でちゃんと三途の川を渡れますように、なんてごくありふれたものです」


 あの世に行くまで、誰にも財布を取られませんように。

 無事、辿り着けますように。

 そんな祈りが、開かずの財布を形作ったのだ。


「財布が開く条件は簡単。その場所が、三途の川である事」


 斎藤は唖然とする東雲から財布を取り、六文銭を手に乗せて虚空へと差し出す。


「しかし因果は逆です。私達は六文銭を持ち歩いて居たのだから……死者と勘違いされた。そして一向に渡し賃を払わないものですから、当然行くも帰るも出来ません」

 

 虚空から、痩せ細った手が現れる。

 次いで頭、その次は体、最後に足。

 痩せ細り青黒い布を纏った老爺が虚空より現れ、六文銭ごと斎藤の手を握り、歩き始める。


 手を引かれて数歩進んでから、斎藤は自身の状況に気が付いた。

 これやばいやつだ、と。


「思ってたより力強いな、この爺さん。僕じゃどうにもならないやつみたいですねー……ヘルプ!東雲さん助けて!これ多分僕連れてかれたら死ぬやつです!」

「ちょっと待って、話についていけないんだけど……あー、その爺さんは殴っていいやつ?」

「多分。そして、僕が解放されたら死ぬ気で最初の地点へ戻りますよ」

「はあ……了解!」


 老爺は何も言わず、ただ渡し賃を払った者を連れていく。

 当然だ。

 何故都内の橋に居るのかは不明だが、老爺はただ業務をこなしているだけなのだから、一切責められる謂れはない。

 そんな老爺の頭を––––––––


 白い光を纏った拳が、打ち抜いた。

 

 一閃。

 

 その拳は流星の如く、一撃で頭を吹き飛ばしたのだ。


 当然、老爺が構える暇も、逃げる暇もなかった。

 握った手の力は弱まり、六文銭と共にずるりと落ちる。


「流石です東雲さん、助かりました。さあ、逃げますよ!」

「あーもう何が何だか……あれで終わりじゃなさそうだし、私から離れないで」

「分かってますよ。貴女無しで生き延びられるほど、僕は強くありませんから」


 全速力で駆け出す。

 橋の始点までの距離は約60メートル。

 敵は虚空より現れ続ける異形の大男達……即ち、鬼の大群!

 

 迫る。

 始点に迫ると同時に、鬼も此方へ迫ってくる!


 赤く爛れた皮膚を持つ鬼が先陣を切り、斎藤目掛けて拳を振り上げる。

 それを食らえば死ぬ事は誰からしても一目瞭然で、ましてや本人に分からない訳がない。

 しかし、斎藤は脇目もふらず走り続けた。

 前だけを見て、必死に。


 拳が振り下ろされる。

 命中する。 

 東雲の背中から羽の様に漏れ出る、白い光に。

 命中して、弾かれる。


「凄いですね今の、まさか東雲さんにあんな芸当が出来るとは。そりゃあ神秘第一課からスカウトも来ますよ」

「今の攻撃、私が守れるって知らずに走ってたの!?もうちょっと避ける努力くらいは……」

「僕がしたところで無駄ですよ。それにほら、僕に出来るのは帰り道を探すくらいって言ったでしょう?実際に見つけたんですから、エスコートは貴女にしてもらわないと」

「そんな事、言ってる、場合!?」


 数体の鬼によって形作られた肉の壁を、剣となった光の羽が切り開く。 

 飛び掛かってきた勇敢な鬼の腹を、流星の如き拳が打ち破る。


 白妙しろたえ東雲あずもは、超能力者である。

 能力の仔細は不明。 

 斎藤はこれまでに能力を解き明かそうと努力してきたが、大した成果は上がっていない。

 ただ一つ、明確なのは。


 強い。


「––––––––そこを、退け!」


 光の羽が明滅し、少しずつ光が東雲の指先へ収束する。

 そして、黒く岩の様な肌を持つ鬼目掛けて放たれた。


 一瞬の出来事。

 そう。

 瞬きした頃には、背中から漏れ出た光の羽も、放たれた光の束も、黒い鬼も。

 消えていた。


 そうして、二人は橋の始点に辿り着く。

 背後からは未だ三途の川を渡れぬ者の怨嗟が聞こえる、様な気がする。

 目の前は、霧に包まれているかの様にぼやけて見えた。

 

 酔いが見せた幻覚だろうか。

 

 目を擦ると、はっきりとありふれた飲み屋街が目に入った。

 クラクションを鳴らされて初めて、二人は自分達が車道に立っていると気が付く。

 歩道へ寄ってから振り返ると、先には何の変哲もない橋が続いている。

 エンジン音と、足音と、喋り声が夜に響いて少し騒がしい。

 

 20xx年、11月、都内某所にて。

 点在する居酒屋から顔を赤くしたサラリーマンが吐き出される中、丸眼鏡を掛けた男は電信柱に寄りかかり、深いため息を吐いた。 


 対するは、白く輝く髪がよく目立つ小柄な女性。


「斎藤……さん。今日は、月が綺麗ですね」

「それでやり返したつもりですか?とはいえ、どう対応すべきなんでしょうね。言われる側となると、案外困るものです」

「普通に?いつも通り対応すればいいでしょ」

「はは、一本取られましたね。……帰りましょうか」


 年に一度、最も月が大きく見える日。

 今日は幸いにも雲一つない夜空であり、月は堂々と煌めいている。

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