18


「おい、美咲、大丈夫かよ!」

 石井が走って来て、私の手を掴む。完全に割れてしまった手鏡が私の手のひらから滑り落ちて、破片が床に大きく散らばった。

「大丈夫だよ」


 石井が私の手を取って、破片が刺さっていないかを注意深く観察する。


 彼の、意外に大きくてがさついた手。どきりとして思わず手を振り払ってしまう。


「そ、それより、鏡が」


 私がそう言うと、石井はハッとして地面にしゃがみ込んで、破片を一つずつ集めては枠に嵌め込んでいく。


「もう、直らないな」


 石井がやっと口を開いたとき、その声はいつもの軽い調子ではなく、どこか寂しげだった。

 私は急いでロッカーから箒とちりとりとを持って来て、残りの破片を集めながら、頭の中に渦巻く先ほどの佐伯さんの言葉を何回も繰り返した。



 ……私は佐伯さんの告白に、返事の一つも出来なかった。

 ただ頷くことしか出来なかった。それがただただ気掛かりだった。最悪の返事をしてしまったのではないか。


 不意に、目尻から熱いものが落ちてきて、顔を上げる事すら叶わなくなった。足が重力に従って落ちていく。

 こんなみっともない顔を、石井には絶対に見せたくなかった。石井が今どんな顔で私を見ているのかも分からない。

 彼がどんな顔をして私を見ているのか、知るのが怖かった。


「おい、美咲、どうしたんだよ」


 石井は明らかに狼狽した声で私の肩に手を置いて、顔を覗き込もうとした。私は膝に顔を埋めて、ぼそぼそと呟いた。上手く声が出なかった。


「石井、私ね……最後に佐伯さんに、何も言えなかった」


「ごめん」


 私は少しだけ顔を上げる。きっと涙でぐしゃぐしゃで、酷い有り様の顔を。


「なんで石井が謝るの」


「俺、昨日も今日もお前に変な態度取っただろ。あれも嫉妬だったんだ、あいつに。でも、俺にはどうしようもなかったんだ。ただの友達として、何も言えずに見てることしかできなくて。……情けないよな」


 夕陽の光が石井の背後から差し込んで、彼の顔に陰影を作り出す。そんな石井がいつもより大人びて見えた。


「今まで言えなかったけど、もう隠すのはやめる。


 俺は、お前のことが好きだ、美咲」


 石井の告白を耳にした瞬間、身体が石像になってしまったかのように固まった。



 ――石井が。あの石井が。



 そんな言葉を私に言うなんて、まったく予想していなくて、今にも倒れてしまいそうだった。


「ずっと言わなきゃって思ってた。

 言ったら、お前と気まずくなって、もう話せなくなるかもしれないって思ったから。

 でも、謙一のこともあったし、もう黙っていられねぇし」


 頭が真っ白だ。何か言おうとして口を開くが、言葉が出てこない。でも、不思議と嫌な感じはしていなかった。


「ごめん。今言う事じゃなかったよな」


 その言葉の一つ一つが雨に打たれた土の中に染み込んでいくかのようにしっとりと、何の抵抗も無く入り込んでくる。石井は私が喋ろうとしているのを待ってくれているようだった。私はこれでもかというほどに息を吸って、吐いた。


「今すぐ返事は出来ないけど……少し待っててもらって、良いかな。

 佐伯さんに言えなかった分、石井にはちゃんと伝えたいから」


「もちろん、待つよ」


 私は涙を拭いて立ち上がった。教室の片隅にちょこんと積まれたゴミ袋を見つめると、何だか心の中の混乱も少し整理されてきたような気がする。


 *


 教室を出ると、冷たい風が頬に当たる。夕暮れの街は、柔らかな橙色に包まれて、銀杏も次第に葉を落とし始めていた。石井の歩幅はいつもより小さくて、すぐに追いついてしまう。


「ねぇ、石井」


 私は石井に呼びかける。


「今からケーキ、食べに行かない?家帰ってからの勉強にも糖分は必要でしょ」


 その提案に石井は驚いたように目を見開き、次の瞬間、笑顔がこぼれた。


「ああ、いいな。良かったら、今度日本史も教えてくれよ。特に大正時代は、訳わかんねえし」


「いいよ。任せて」


「よっ、生徒会長」


 ――こういう時は、調子良いんだから。

 歴史のまとめノートも作っておかなきゃ。

 ケーキ、何にしよう。

 明日石井に、答えを伝えよう。


 私はそんな事を考えながら、私は、軽くなった鞄の掛け紐をしっかりと握りしめていた。

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鏡像には触れられぬ。 まつりごと、 @chima12

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