第67話 灯台のようです
「……お膝が汚れますよ」
「お前もだろう」
「ご自分で洗えるのでは?」
「お前の絵では洗い方がわからない」
クラウスは、ルゼがタオルや石鹸を取り出した際に一緒に取り出されてしまった洗い方を図示した紙を見てそう言った。その紙の上ではミミズのような線が踊っている。
ルゼは桶の上でクラウスの手を取ると水で濡らし、もこもこと泡立てた。じっと観察されているので顔は上げず、気をそらすために話題を探す。
「……クラウス様は、どんな子どもだったんですか?」
「お前は?」
「私は川に入ったり山を駆け回ったり意味もなく穴を掘って水源を探したりしていました」
「今と変わらないな」
「……え? 私今16……」
今も、キャッキャッとか言いながら、川に入って穴を掘っているように見えているのだろうか。
ルゼが先に聞いた質問だったのに、聞き返された挙げ句にクラウスはルゼの質問に答える気がなさそうだった。
(踏み込み過ぎか……。これを聞くのは私ではないのかもな)
ルゼは話に集中してクラウスの手をあまり意識しないようにしていたのだが、話が続かないために否が応でもクラウスの視線と手の熱を意識してしまう。
「握手〜……」
「……」
「……とか言って……」
「…………」
「見ないでください」
こんなに話が続かないのは、向こうに問題があると思うのだ。十年も人と関わりを持っていない人間に、随分と酷なことを強いる。
がむしゃらに洗っていると、横から声をかけられた。
「な、なあ」
「どうされましたか?」
ルゼの心境を知ってか知らずか、ファルが話しかけてくれた。ルゼは救世主、とばかりに勢いよくファルを振り返って食い気味に返事をした。
ファルは少し照れくさそうな顔をすると、おずおずと口を開く。
「その、俺と同じ船に乗ってたあいつ、げんき?」
(ルナのことよね?)
「はい! ありがとうございます、気にかけていただいて」
「そ、そのさ、あいつ好きなやつとかいんのかなっ?」
「いないと……」
「婚約者がいる」
(……それは私の話……)
どうやらあの小さな幻は、このいたいけな少年の初恋を奪いかけてしまっているようだ。
ルゼが答える前にクラウスが答え、ファルはその答えに恥ずかしそうな顔をして、ルゼを見つめて再度質問した。
「そ、そっか。その婚約者ってどんなやつなんだ?」
(……どんな? クラウス様ってどんな方なのかしら……)
何も知らないし、たった今教えてくれなかった。聞いてくれているファルには申し訳ないのだけれど、ルゼはファルを微笑みながら、クラウスに向けて答えた。
「……怖くて優しい方です」
その回答に、ファルは少し首を傾げている。
「……なんだそれ。あいつはそれで幸せなのか?」
「楽しいですよ」
楽しいかどうかはよくわからないのだが、エーベルトの屋敷は息がしやすい。
「そっか。俺あの後、自分でどうにかしようって考えないと変わらないこともあるのかなって思ったんだ。何もできないとか言ってごめんっていうのと、約束忘れんなよっていうのを伝えてくれよ」
(……優しい……!)
ファルがにかっと笑ってそう言ったので、ルゼはクラウスから手を放すとファルを濡らさないよう手で触れないように気をつけながら、自分を激励してくれている少年を抱きしめた。
「急に何……っ」
「頑張ります! ファルも、たくさん食べてたくさん遊んで大きくなってくださいね。あなたが幸せだとわた……あの子も幸せですから」
ルゼがファルに笑いかけながらそう言うと、ファルは顔を真っ赤にしてルゼを突き放した。
「……変なやつ!」
ルゼはファルの背中を見送ると不愉快そうな顔をしているクラウスに向き直り、クラウスの手を取って泡を洗い流した。
「よろしければ、サンプルの石鹸を使ってください。ローズとミント、それと無臭の石鹸があるのですが、お好きな香りなどありますか?」
「お前が決めてくれ」
「ではローズにしましょう。私が好きな香りです」
(……ローズの香りの殿下か……)
クラウスは何かに頓着することがあるのだろうか。ないのなら、好きな香りくらい見つける手伝いをしたい。自分の好きなものではなく、クラウスの好むものを渡したい。
ルゼはクラウスの手をタオルで拭くと、一番よくできたローズの香りの石鹸を渡した。クラウスはそれを受け取りながら、静かな声でルゼに尋ねる。
「俺が怖いか」
先程のルゼの回答を、意外にも気にしているようだ。
ルゼはクラウスからの思いも寄らない質問に目を丸くして顔を上げ、数刻考えた後に照れたように微笑んだ。
「私は怒られ慣れてないんです。両親とは疎遠でしたし、兄は私を甘やかしていましたし、ベルツでの記憶はそもそもあまりないですから。だから、私が何か間違った時にクラウス様に叱られるとそわそわ……ぞわぞわするんです」
「……」
「お化けがいそうなときとかもぞわぞわするじゃないですか。ぞわぞわする場所が違うような気もしますが、お化けは怖いものですのでクラウス様も怖いものだと無意識下で思っているに違いないという結論が出ました」
顔をしかめるクラウスに、ニコニコほわほわと微笑む。
「でもお化けと違って、クラウス様に叱られると安心します」
「……そうか」
「はい!」
ただ怯えさせてくるだけの幽霊たちとは違い、後先考えずに突っ走ってしまうルゼにとって、間違いを正そうとして叱ってくれるクラウスは、灯台のような存在だ。
こんなにも感謝の気持を精一杯言葉にして伝えているというのに、クラウスの返事には抑揚がない。
その後孤児院を巡り、もこもこの使用許可を取って回ったのだった。
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