閑話
閑話1 秘密の話
ルゼは夜中、ベッドにクラウスを座らせてその前に中腰になって屈み、神妙な顔でクラウスの上半身に薬を塗っていた。
「この薬は爛れた皮膚の再生に効くのですが、この傷痕は魔法でできたものなのでおそらく意味がないです。今の私ではこの怪我を治せないのですが、研究しますので待っていていただけますか」
ルゼはクラウスの服を整えると、目を見つめてそう尋ねた。
目覚めてからほぼ毎日クラウスの痣に薬を塗っていたのだが、一向に効果は見られず、硬く赤黒い皮膚が残っている。
クラウスはルゼの張り詰めた顔を見つめ返すと微かに目を細めた。
「俺はこのままで構わない。今日が最後でいい」
「……本当に痛くはないのですか」
「ああ」
「……」
(本当かな……)
ルゼはクラウスを信用していない。それもひとえに、彼がルゼを信用していないからである。
ルゼは薬を置くとベッドの上に座り、神妙な顔をして考え込む。
(私が一年間も昏睡しなければ早くに処置できたかもしれないのに……)
謝っても意味がないのでこうして最善を尽くしているつもりなのだが、効果は現れない。
クラウスは苦悶するルゼを眺めながら、ルゼの長い紅梅色の髪をなぜか三つ編みにしている。
(そもそもどうして、修復魔法は魔法でできた傷を治せないの? 時間を遡らせるなら、その怪我の要因が何であれ元に戻るはずなのに……)
修復魔法はもう何度も試しているのだが、そもそも魔法でできた傷は治せない。そうでなくとも、クラウスの傷は日が経ちすぎていた。
二本目の三つ編みが完成した。
(私の健康な皮膚とクラウス様の爛れた皮膚を入れ替え……、いや、誰がどうやってそれをするんだ)
夜も更けていく。
「───クラウス様!」
ルゼは真剣な顔をしてそう叫んで振り返ったのだが、クラウスは眠いのか、無表情でルゼの頭を撫でていた。
「クラ……あれ、髪の毛がすごい……。手先が器用ですね」
(いつの間に……)
「俺の傷痕はこのままでいい。早く寝ろ」
クラウスはそう言うと横になってしまったので、ルゼもその隣に横たわってクラウスの肩まで毛布をかける。
ルゼのその自然な動きに、クラウスが微かに目を開けて呟いた。
「……お前、いつまでここで寝るつもりだ。まだ幽霊が怖いのか」
「いえ、魔力が戻ってから平熱が高いので、平熱の低いクラウス様を温めようと思って。お邪魔ですか?」
「……いや」
それよりも、クラウスが放っておいたら寝ないことが気がかりなので、こうしてクラウスを寝台に引っ張って寝かしつけているのだ。
ルゼはいつまでも冷たいクラウスの手を包み、クラウスを見上げた。
「クラウス様、私にしてほしいことなどありませんか? 何でもいいです」
クラウスが顔をしかめたが、ルゼは真剣な眼差しで続けた。
「お詫びです。本人に聞くのは愚行だとは思うのですが、何か私にしてほしいことなどはありませんか?」
「……」
「何でもいいです」
治療を諦めたわけではないのだが、完治は望みが薄いだろう。ルゼにできることは少ないが、小さな公務なら役に立てる。
クラウスは、キラキラと目を輝かせるルゼをぼんやりと眺めた後目を閉じて寝ようとしたため、ルゼは揺さぶって返答を強要した。
しかし、クラウスは揺さぶられるままボソリと呟くだけである。
「いらない」
「そこをどうにか」
「働きすぎるな」
「もう一声……というかそういうのではないです」
なんとしてでも願いを聞き遂げようとしてくるルゼを、クラウスが鬱陶しそうに見ている。
しかし漸く何か思いついたのか、ああ……と口の中で呟いた。
「お前に勝手に魔力を渡していたことは、この痣と引き換えにどの程度許される?」
ルゼが目を覚ましてから、触れないようにしていた話題だ。なぜなら恥ずかしいから。
クラウスもそれが分かっていて話題に出さなかったのだろうに、寝込みを襲うようにしてうら若き乙女の唇を奪ったことが、彼の中では気がかりだったのかもしれない。
「……」
「すまない」
「……」
ルゼは特に何も気にしていないのだが、気にしていないと面と向かって言えない。どうせまた、なぜかどうしてだと意地悪い笑みで聞き返され、恥ずかしい思いをせねばならないからである。
(……結構気に病んでるのかな……)
ルゼは、目を瞑るクラウスの頭の後ろに手を回すと引き寄せるようにして近づけ、その唇に自分の唇を重ねた。
「これで帳消しにしてください」
暗闇の中意地悪く笑ってそう言うと、クラウスが全力で渋い顔を作っていた。
「他には」
「……」
「私に不利益が出るお願いがほしいです」
「……いいよ。何もしなくて」
クラウスはそれだけ言うと、もう話を聞く気はないという意思表示なのか、目を閉じてしまった。無理強いして余計に迷惑をかけてしまったようである。
ルゼは、頰の痣をそっと撫でると、小さな声で口の中で呟いた。
「……ごめんなさい」
そう言って寝ようとするルゼを、クラウスが無表情で眺めている。
「───俺は」
「……う? はい。何でしょうか」
その声にルゼもぱっと目を開けると、期待を込めた視線を送った。
ルゼの輝く瞳を見つめ、クラウスは一度話しだしたにも関わらず、続きを言うのを迷っているようである。
その思案している眉間に指をおいて皺を伸ばしていると、ゆっくりと口が開かれた。
「俺に化粧をしたいならしてもいい」
「……?」
唐突に下ろされた許可にルゼは一瞬怪訝な顔をし、無表情のクラウスを見てカッと顔を赤くした。
「ヒールが高くて歩きづらいなら低くしろ。高くしたところで俺の身長には届かない」
「あっ……」
「ここに来た時より幾分健康的になったと思う」
「ちょっ……」
「ドレスのサイズが合わないのだろう。新しく用意する」
「うわあっ」
慌てて両手でクラウスの口を塞ぐと、ルゼを見つめる目が眇められる。
「しゅむっが悪いですよ!」
噛みながらも真っ赤な顔で抗議するルゼにクラウスも可笑しそうに笑っている。
「お前が勝手に話したんだろう」
「なぜ寝たふりなんてしてるんですか!」
「俺が寝ているときにしか自分のことを話さないから」
クラウスがルゼのことを気持ち悪いと思っているのは、こういうところの結晶なのかもしれない。
ルゼがクラウスから距離を取るようにして動くと、クラウスがルゼの腰を掴んで引き寄せた。
「すみ、すみません」
「何が? 寝てたよ」
「いつも気持ち悪くて……」
「起きてる時でも構わないのだが」
「起きてる時ではないですか」
ルゼは毎朝、寝ているクラウスに向かって物凄い小声でくだらない話を呟いていた。クラウスがいつもルゼより起きるのが遅いため、ルゼの朝の日課にしていたのである。
「何でも話せ。聞きたい」
「……二度とするものか……」
「明日の朝も寝ているから好きに話せ」
明日の朝も寝てるなどと理由のわからない戯言を言うくらいには、ルゼの話が聞きたかったのかもしれない。
「……そんなに聞きたいなら、あなたが起きてる時に話してやりますよ! お願いはもう聞きません!」
「うん」
「おやすみなさいませ!」
「ふ……」
「くっ……う……」
クラウスは暫く、腕の中で百面相するルゼを楽しそうに眺めていたのだった。
✽ ✽ ✽
ルゼの朝は早い。
まだ空が暗いうちに目が覚めるのだが、起きたらほぼ毎回、クラウスの服の裾を握りしめていた。
(……なんか、赤子の原始反射……)
そんな事を考えながら起こさないようにゆっくりと手を離してベッドから出ると、一旦部屋から出て洗面台の前に行くのである。
(口内は綺麗にして、髪は梳いて、前髪は少しだけ巻いて、服も整えて……)
ルゼの髪は生まれながら毛先がはねてしまう病にあったのだが、できるだけ真っ直ぐにしようと無謀にも試みつつ、ナイトドレスのシワを頑張って伸ばすのである。
ルゼは歯並びの良さだけは自信があり、白さと清潔さは絶対に保てるように心がけていた。
(……クラウス様、一度寝たら起きない方なのかしら。私の中の人物像だと、人の気配を鋭敏に察知するんだけどな。知らないことばかりだ……)
そんなことを考えながら、再びベッドに潜り込む。4時間寝て、その後の10分を一日過ごすための気合を入れる時間にしている。
クラウスはいつもルゼの方向を向いて寝ているので、ルゼは布団に潜り込むとクラウスに向き合うようにして横たわり、暫くその寝顔を眺めるのである。
人として普通のことではあるけれど、クラウスが寝ているのは不思議な感じがする。不躾に見てしまっている申し訳無さから目を逸らし、気合を入れる。
(……今日も頑張ります……)
そうして満足したら、起こさないようにかなり小さな声で伝えたいことを話すのだ。
『長い髪はお好きですか?』
『高いヒールを履いて少しでも背の高さを近づけたいのですが、靴擦れが痛いんです』
『最近、侍女さんがいなくてもドレスを正しく着られるようになったんですよ』
『お魚は好きですか? 本に書いてあったのですが、生でも食べられる調理方法があるそうですよ』
クラウスの髪に触れようと手を伸ばし、触れずに手を引っ込める。
『お顔が、とっってもお綺麗です。今度お化粧させてください』
『お化粧って、内省的な傾向が高まるそうです。私に必要かもしれません』
『温室に白い花が咲きましたよ。茎を切ったら物凄く刺激臭がするので、アラン様が苦顔していらっしゃいました』
『でも、殺菌作用があるようです。一長一短に思えますが、それは私たちからの目線ですよ。めっ、ですねえ』
時々クラウスの肩が少し揺れ、笑ったように感じられるためにルゼは咄嗟に黙るのだが、目は覚めていないようなのである。
『……起きてますか?』
目は覚めていないようなのである。
ルゼはほっと息を吐くと、後数分を楽しむのだ。
『私は水よりもお湯が好きなんです。冷たいお水はお腹が痛くなりやすいですからね』
『最近ちょっと太っ…太い…。質の良い薬草が、私を育てているかもしれません。薬草は万能ですねえ』
『最近ドレスの胸元が苦しいんですよ。誰に言えば良いものか分かりません』
『今日は、あなたのご公務の、3割を私がやっつけます!』
「ふふ」
(楽しい……)
ここらへんで鳥が鳴き出すのだが、ルゼの中ではどの季節であっても鳥が鳴いた瞬間から朝となる。
再びベッドから出るとカーテンを開け、クラウスを起こすのだ。
「クラウス様、良い天気です! 良い天気……晴れているということです! 私は雨……」
(切り替え切り替え……)
ルゼは雨の日が好きだった。クラウスの髪が跳ねやすくなるからである。
天気を伝えるといつまでも横になっているクラウスの顔を覗き込むのだが、大体しっかりと目が開いていた。
「おはようございます」
(クラウス様、朝が弱いのだと思ってたんだけど、そうでもなさそうなのよね……)
クラウスは無言で起き上がると、ベッドの傍に佇むルゼを真顔で見上げている。
「おはようございます! 朝です!」
(……でもやっぱり、朝が弱そうなのよね……)
しばらく無言で見つめてくるので、起きたばかりは頭が回っていないのかもしれない。
クラウスが自分の隣をぽんぽんと叩くので、ルゼもそこに座ってクラウスの言葉を待つのだ。
ここまでがルゼの日課であり、クラウスが起きてからはいつも日替わりで一言呟かれた。
「……ふ……」
(笑ってる……)
「良い夢でも見られたんですか?」
「夢かもな」
「明晰夢でしょうか」
(どんな夢をご覧になるのかしら……)
「……」
ルゼが花が綻ぶように笑うと、クラウスがルゼの頭をわしゃわしゃと撫でるので整えた髪が乱れてしまう。ルゼは目を閉じて少し頭を下げ、クラウスに撫でられる間じっとしているのである。
(……寝そう……)
「もう少し長く寝た方がいい」
「したいことがたくさんあるのです……」
「よく寝た方が効率が上がるとお前が言っていた」
「私は朝早く起きないと気合が入らないのです」
「……」
クラウスはルゼに触れようとして手を止め、ルゼを見ないように顔をそらすとベッドから出た。
「ルゼ」
「はい」
「……何かあれば侍女に言うといい」
「クラウス様では駄目なんですか?」
(私は勝手に話しちゃってるけど……)
「……あまり俺に何でも話すな」
何でも、というほどクラウスと会話をしていない。
「何かご不快にさせるような話をしてしまいましたか? 申し訳」
「いや、そうではないが……」
「……? はい。承知しました」
「……」
(寝坊助さんめ……)
クラウスは言葉を濁して部屋をあとにするのだった。
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