第90話 鼻水とか出ないです
「……ル……」
ルゼは前を見ながらスタスタと歩いていたにも関わらず、屋敷の大きな柱に正面からぶつかってしまった。
「……?」
渡りゆく使用人らが、真正面から衝突して呆然としているルゼをチラチラと眺めている。
「え……柱……?」
ジンジンと痛む額に手をおいて、柱にぶつかるという愚行を必死に咀嚼しようとしていたところ、ルゼに声をかけようとして一部始終を見ていたクラウスが、躊躇いがちに寄ってきた。
「……」
「……」
屋敷内では、クラウスに会いに行かなければ滅多に会わないのに、変なところを見られてしまった。ルゼがクラウスをちらりと見あげると、クラウスはルゼの前髪をのけ、たった今柱とぶつかった額に触れている。
その細く冷たい指に、ルゼはぽろぽろと涙をこぼしてしまった。
微動だにせず立ちすくんだまま唐突に涙を流すルゼに、クラウスがぎょっとした顔をしている。
「……痛むか」
「……いえ……」
「……何かあったのか」
「……」
ゴシゴシと目元を擦るルゼを、クラウスがじっと見下ろしている。
話を聞こうとしているクラウスに、ルゼもゆっくりと口を開いた。
「……独り言……なのですが」
「うん」
クラウスは、目元を力強く擦るルゼの手を止めると、代わりに細く流れる涙を柔らかく拭ってくれている。
ルゼは何にも焦点を合わせずに、ぽつりぽつりと呟いた。
「……本当にそう思ってたのか、とか、そ……そもそも、守るために鍛えるのと、守って死…でも良いと思えるのは、違っ違う話で……」
「……」
「……でも私、都合の良い言葉で救われようとして……て」
「……」
「……死ぬ間際に、後悔してたかも……」
脈絡のないただの独り言を、クラウスが無言で聞いている。
「……独り言に返すのは無粋だが」
クラウスはそう前置きを入れると、廊下を歩いてゆく使用人からルゼを隠す壁になるように移動し、静かな声で言った。
「後悔はしていたと思う」
その言葉に、ルゼの瞳からまたとめどなく涙が溢れる。クラウスは静かに泣くルゼを見下ろし、ふう、と微かに息を吐いた。
「───が、お前に対してではないのではないか」
「……」
「カイルの考えることなんて、お前よりも俺の方が正しく判別できないが」
ルゼがその潤んだ瞳でクラウスを見上げると、クラウスが頰を撫でるようにして涙の跡を拭った。
でも、年に数回帰ってくるだけの兄であった。この屋敷にいた人たちのほうが、接触頻度が高かっただろう。
(……でも、勝手に決めつけたら、大体間違ってる……)
カイルが実際何を思ったかなんて誰にもわからないのだが、ただ、カイルに疎まれていたかも知れないという可能性でルゼが苦しむのは、あの兄には本意ではないような気がするのだ。
ルゼは目元をぐしぐしと拭うと、ぱっと顔を上げてクラウスに微笑んだ。
「すみません。何か、言いかけていらっしゃいましたよね」
「ああ……」
「……すみません」
ヘラリと笑ってそう言うと、何を思ったのかクラウスがルゼの鼻を摘んだ。
「!」
「……」
なぜか、つまんだ指先をぼんやりと眺めている。ルゼは瞬時にハンカチを出すと、クラウスの指をこれでもかと強く拭いた。
涙目で睨みつけるルゼを、クラウスが無表情で眺めている。
「……興味だけで変なことしないでくれます?」
「……」
「くそっ、すかしやがって……」
ぶつぶつと文句を言いながらクラウスの指がもげるほど強くハンカチを動かすルゼに、クラウスが微かに笑っている。
「……洗ってくる」
「金輪際しないでください」
「お前が嫌がるなら」
「しよう?」
「どうかな」
「しないんですよ!」
「はは」
ムーッと頬をふくらませて怒るのだが、あまり届いてはいなさそうだった。
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