第86話 欲しいもの
ルゼは目を覚ますと同時に、割れるような激しい頭痛に襲われた。
(……いきてる……)
倒れる前に視力が戻ったような気がしたのだが、依然として目の前には魔力の波が映るだけである。
ルゼは周囲を確認し、見慣れたクラウスの部屋のベッドに寝かされていることを確認した。
(……クラウスさま……)
隣にはクラウスが横たわっているようであった。
ルゼはゆっくりと寝返りを打って体を横に向けると、クラウスの頬に柔らかく触れた。
(……冷たい……。それに、皮膚に奇妙な弾力がある……。腐蝕の痕……)
軋む体を起こしてクラウスに近寄ると襟元をめくり、首から右胸にかけて広がっているはずの痕を指でなぞった。
左頬の一部から、顎下、首、胸全体にかけて爛れたような痕がある。微かに弾力があり、健常な皮膚でないことは確かであった。
左肩には血の滲んだ包帯が巻かれているようであり、微かに血の匂いが漂っている。
(……魔法でできた傷は治せないのに……)
ぼんやりとしたままクラウスのシャツを正したのだが、その自分の指の感覚にはっと目が覚めた。
(───指輪がない! クラウス様が私に魔力を注ぎ込んだわ!)
ルゼは動けるほどには魔力があるのだが、隣で横たわっているクラウスからは、魔力が感じられない。
ルゼは最悪の予想を覆そうと、慌ててクラウスの頬に手を置いて体温を確認した。
(つめたい!!)
「───うそ」
クラウスの左胸に手を置いたのだが、硬い感触が伝わるだけである。
「クラウスさまっ……、クラウス様、起きて……。起きて、くらうすさま……」
ぺちぺちと頬を叩きながら目からは堰を切ったように涙が溢れ出し、クラウスの頬を伝って流れていく。
ルゼの子供のような泣き声にクラウスは緩慢に目を開けると、再び目を閉じて静かに言った。
「……涙がしみる……」
普段よりもその声は柔らかく、寝ていただけであったようだ。
ルゼが驚いて涙を止めると、クラウスは小さく笑ってルゼの頬を撫でた。
「お前が生き返らせたんだろう」
「……お化けですか……」
「……あれ以外は誰も死んでいない」
「……」
と知っているということは、クラウスはルゼより先に目覚めていたようだ。
ルゼは暫く呆然としたままクラウスに撫でられていたのだが、その冷たい指先と先程の爛れたような傷痕を思い出してはっとした。
「……薬を……」
毛布をはねのけて起き上がったのだが、腕を掴まれてしまった。
「お前の方が重傷だ。人の心配をする前に自分の心配をしろ」
ベッドの上で二人、無言で座り込んでいる。
しかし、ルゼが俯いたままぼたぼたと涙を流すと、クラウスがぎょっとしたように声を出した。
「どこか痛む……」
「それは貴方の方でしょう!」
その叫びに、クラウスは何故か安心したようである。
「俺は問題ないから寝てろ」
「ごめ、ひっ……、ごめんなさい!!」
「大丈夫だから……」
「だって、嫌っ……私が殺したんですよ!? うっ、クラウス様、幽霊になってるのにっ、気づいてないだけ……」
「……」
何を言われてもルゼの耳には届かなかった。ルゼは溢れる涙を両手でごしごしと拭い取っていたのだが、それでもぼたぼたと水滴が滴り落ちる。
「私は弱いって言われてたのに、自分の気持ちばっかり優先して、クラウス様を死なせたんです……っ」
「……」
「何もできないのに動き回ってっ、そもそも私が勝手に死んでおけば良いだけなのに!」
「ルゼ」
「っ」
クラウスがルゼの両手首を掴んで顔から離したせいで、グシャグシャの泣き顔が露わになってしまっていた。乱暴に目元を擦っていたせいで、ルゼの両目は赤くなっている。
ルゼは隠せないままぼたぼたと涙を流しながら、下を向いて叫んだ。
「離して……、一緒にいないほうがいいんです。欲しいもの全部なんて手に入らないんです!」
「俺は生きてるよ」
「目の前で死にました!」
「俺が見えないのか!」
「もうずっと何も見えてないですよ!!」
そう叫ぶと同時に、クラウスの胸元に頭を押し付けられた。体の熱が頰に伝わり、トクトクと規則正しい鼓動が聞こえてくる。
「ぐ……うう……幽霊じゃない……」
「他には何が欲しいんだ」
「……薬……」
ルゼが涙目でクラウスを見つめて懇願すると、クラウスはため息をついて諭すように言った。
「まずゆっくり深呼吸しろ」
「…………」
ルゼはクラウスと見つめ合ったまま、言われた通りにゆっくりと大きく息を吸い込み、吐いた。クラウスはルゼの息が多少整ったのを確認すると、ルゼと共にベッドに横になって軽く抱き寄せる。
「落ち着いて、お前の今の容態を俺に教えろ」
ルゼはクラウスの静かな声に呼吸を整えると、自分の状態を確認するように目を閉じた。
「……さっきから脳みそがぐるぐるします。激しい頭痛と吐き気も感じます……。全身に切れたような痛みがあって、あと多分、体温も高いです……」
「それで」
「……体がうまく動きません。目は見えないままで、以前よりも体内の魔力濃度が低いような気がします……」
「診断結果は」
「……重度の絶望と泣きすぎ……」
しゃっくりを上げながら真面目な顔をしてそう言うルゼに、クラウスが呆れたような顔をしている。
「……真面目に」
「重度の魔力枯渇と発熱……」
「安静にしておけ。薬は後で貰ってくる」
クラウスはルゼを宥めるようにぽんぽんと優しく背を撫でてくれる。
「……それならその代わりに、私もクラウス様に問診してもいいですか」
「……」
クラウスは視線で、早く寝ろ、と言っているのだが、ルゼはクラウスを潤んだ瞳で見つめた。
「心配なんです」
「……気が済んだら早く寝ろ」
クラウスが諦めたように小さく答えたので、ルゼは返事をする代わりに薄く微笑んで複数質問した。
「頭痛・吐き気・悪寒などは……」
「ない」
「体は問題なく動きますか?」
「ああ」
「怪我してます?」
「してない」
「私のこと好きですか?」
「うん」
「さっきから嘘つかないでください」
「ついてない」
嘘をつかれるのでよく分からなかった。
「……痣と肩の傷を見せていただけますか」
ルゼの要求にクラウスは少し躊躇したのだが、上体を起こすと包帯をほどいてくれたため、ルゼも起き上がってクラウスに身を寄せ、傷口に優しく触れた。
「…………」
修復魔法は周辺の皮膚をくっつけるようにして治すため、周辺の爛れた皮膚の状態が安定してからでないと使えない。しかし、時間が経てば修復魔法の効果は現れなくなってしまう。
泣いたら困らせるだけだと我慢したのだが、泣きそうなことが伝わってしまったのか、クラウスがルゼを宥めるように口を開いた。
「たいしたことはない」
「そうは思えません」
「すぐ治る」
「……」
ルゼはクラウスのシャツを正すと引っ張るようにして再び二人で向き合って横になり、小さな声で呟いた。
「貴方が生きててよかったです」
「なぜ」
ルゼはクラウスの両耳に手を伸ばして塞ぐと、顔を上げて見えもしないその瞳でクラウスを睨みつけた。
耳をふさいだまま、小さく呟く。
「……好きだからじゃないですか」
ルゼはそう口を動かしてぎゅっと口を噤むと、モソモソと毛布を頭まで被った。
毛布越しに、クラウスの楽しそうに笑う声が聞こえてくる。
「聞こえなかった」
「………………」
ルゼは毛布の中でクラウスの腹部を殴りながら、温かい泥の中へ沈み込むように深い眠りにつくのだった。
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