第84話 ちゅーしよ?
ルゼの体の傷と腐敗が全てクラウスに移されていた。
クラウスはルゼの手首と口から手を放すと、自分の口を手で覆って小さく咳き込んでいる。手の隙間から少量の血が滴り落ちているようで、パタタっと水が落ちる音が聞こえてきた。
ノアは、目の前の男が先程までのルゼと同じように頬まで腐敗させているのを見ると、膝から下りて逃げ出してしまった。
「…………っ」
ドクドクと心臓が脈打ち、呼吸が浅く速くなっている。
ルゼは自分の前で動かなくなったクラウスにそろそろと手を伸ばすと、指先でその頬に触れた。
ズ、と柔らかくなった肉へ指先が沈み込む。
「…………やだ」
震えるか細い声に、クラウスは薄く笑うだけである。
ルゼは震える手でクラウスの頭を包み、自分の胸へ押しつけるように抱きしめた。ふ、はあ、と細切れに息をするたび、クラウスの髪が微かに揺れる。
「……苦しい……」
「……あたりまえじゃないですか……」
「………………」
クラウスを追ってついてきた騎士の足音と、鎧と剣の触れる金属音が遠くに聞こえる。
「や……やくそくは……」
「……」
先に死なないと約束したのに、こうも躊躇なく目の前で破られるとは思ってもみなかった。
「……しぬんですか」
「さあ……」
ルゼはその吐息混じりの返事に抱きしめる腕に力を込め、静かに涙を流した。頬を伝って流れ落ちた涙が、ポタポタとクラウスの背に落ちている。
クラウスは抱きしめられたまま、ぽんぽんとルゼの頭を撫でた。
「俺が勝手にしたことだ」
「……」
「そんなに泣くな」
「……」
クラウスは困ったようにそう呟くが、ルゼの耳にはバクバクと脈打つ心音が聞こえるだけで、他には何も入ってこない。ルクラウスの体に腐敗が進んでいることも忘れて、ぎゅうっと力強く自分の方へと抱き寄せた。
クラウスは何が面白いのか、耳元で小さく笑っている。
「……ふ。なかなか死なない……」
「……あ」
小さくそう呟いてクラウスの腰の鞘から剣を半分引き抜くと、その血のついた刀身に向かって勢いよく右手を振り下ろした。
しかしクラウスは予想していたのだろうか、瀕死とは思えない力でルゼの手首を握りしめている。
「……指輪を外しても、そんなにすぐに魔力は戻らない」
もう一度ルゼがクラウスの負傷を請け負えば、この男は死なないのである。
柔らかい声に反してルゼの手首は折れるほど強く握りしめられており、ルゼはポロポロと涙を流しながら左腕で弱くクラウスを押し返すと、見えるはずのない瞳を見つめた。
「……ふっ、うう……」
「……」
声を殺して涙を流し、顔をぐしゃぐしゃにしてクラウスを睨みつけるルゼを、クラウスがまじまじと眺めている。
ルゼは嗚咽混じりに叫んだ。
「ちゅーしたら、私から魔力がっ、移りますか? それでっ、何かの魔法でどうにかして!」
握りしめられた手首をブンブンと振り回しながらそう泣き叫ぶルゼを、クラウスは少し驚いたような目で見つめ、ふ、と柔らかく微笑んだ。
「……試そうか」
「やだあ!! 私嘘つかない人としか恋愛しないの! そんなっ、あんた私とキスしたいだけだろ!!」
「あはははは」
ルゼは、笑いながら咳き込んで血を吐き出すクラウスの胸ぐらを掴むと、グラグラと揺らした。
「なんで私なんですか!」
「俺が知るか」
「こんなっ、馬鹿じゃないですか!?」
「俺は罵倒されたまま死にそうなんだが」
「うるさい!! 誰が言うか馬鹿!!」
ルゼは抵抗のないクラウスの頭を肩に乗せて抱きしめると、耳元で声を震わせた。
「……死なないでえ……」
「……」
「……助けて……」
「……ゲホッ……」
クラウスも無理して笑っていたのだろうか、ルゼに抱きしめられたまま血を吐き出している。
冷たくなっていくクラウスを力のかぎり抱きしめて静かに涙を流すルゼの頭上から、か細い声が降りかかった。
「お姉さん……」
「……」
逃げ出したと思っていたノアが戻ってきたようであった。ルゼの耳には何も届いておらず、背にかかる血の生温さに涙を流すだけである。
「お姉さん!!!」
ノアが頭突きをして叫んだ。
ルゼはその痛みにぼんやりとノアに目を向けると、ノアは教会の礼拝堂に置いてあった水晶を三つ、腕いっぱいに持って戻ってきたようであった。
「……!」
ルゼはその水晶の光にはっと目を覚ますと、クラウスから手を放して震える手で水晶を一つ受け取った。
「何か、使えないかなって……」
ノアは息を切らしながら蒼白な顔でルゼを見つめている。
ルゼは小さく深呼吸をすると目を開き、水晶を地面に置いてクラウスを木にもたれかけさせた。
クラウスの腰から血の付着している剣を抜いてよろよろと立ち上がると、死にかけの男を見下ろした。
「……クラウス様」
「……」
クラウスは返事をする代わりに小さく咳き込み、口から血を滴らせている。
ルゼはその姿に剣を握る手に力を込めると、声の震えを押し殺して言い放った。
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