第83話 汚れるけど

 ヨハンはルゼの腐った肩に手を置くと、体を木に押しつけて振り向かせた。

 ルゼはその痛みに顔をしかめたが、ヨハンは焦ったように怒鳴り散らしている。


「おい、この魔法でお前が死ぬまで後どのくらいだ!?」

「……は? ご自分で分からないのですか」


 自分で放った魔法の効果の程度も分からないようだ。死にかけているルゼの呆れた声に、ヨハンが木を殴って怒鳴った。


「いいから答えろ!」

「……10分程度ですよ」


 ヨハンは落ち着いた声ででそう答えるルゼに舌打ちをすると、ルゼの破れた服を引っ張って進度を確認した。


「ウッ……」


 その醜い皮膚に、小さく悲鳴を上げている。


「……私に触らないでいただけますか」

「黙れ!!」


 表面が柔らかくなった紫色の皮膚が、ルゼの右頬から胸の上部、鎖骨辺りにまで進行している。腐敗した皮膚と元の皮膚の境目には沸騰した水のようにボコボコと小さな気泡ができており、ヨハンがその気味の悪い光景に眉を顰めて不快感をあらわにした。


「……どうすれば止まる」

「私を殺せばよろしいかと。生き返ったらまたあなたを殺しに行きます」


 襟首を掴まれたまま、ルゼは痛みを我慢してヨハンに笑いかけた。

 ヨハンはその回答に苛ついたのか、ルゼの左頬を殴打し、ビタタッと柔らかくなった肉が飛び散っている。ノアの方にも飛んでしまったようで、ノアは腰が抜けたようにへたり込んでしまった。


 ルゼは腐った頬に触れて皮膚を手につけ、蒼白な顔をしている目の前の男の頬に撫でつけるように触れた。


「このまま死んでも私は生き返りますし、早く腐敗を止めた方がよろしいのではないですか。汚い肉に魂を宿したいのなら、このまま私の死を看取っていただいて結構ですが」

「……」


 脂汗を流しながら笑ってそう言うと、ヨハンはルゼの手を払い除けて立ち上がり、腰に携えている剣に手を置いた。


(……魔力がないから魔女だとしても普通に死ぬ……。大量に血を流せばどうにかなったり……しないか……)


 ぼんやりと霞む頭でそう考え、横に座り込むノアに視線だけを向けた。

 その瞳には何が映っているのか、ノアは座り込んで微動だにしないまま、黒目がちの大きな瞳でルゼを凝視している。


 ふ、とかすかに目を眇め、助けることのできなかった少年に言った。


「夢に出るようになったらすみません」

「……僕のせいかな」

「大方私のせいだよ」


 ルゼはノアに微笑むと剣を振り上げるヨハンを見上げ、目を閉じた。


(馬鹿とか言ってすみません……)


 ス、と刃が自分に振り下ろされる音がかすかに聞こえる。


(……?)


 しかし、いつまで経っても刃が届かない。


「!」


 目を開けるとルゼの眼前にはクラウスが立っていた。


 ヨハンから隠すようにしてルゼの前に立ち、ヨハンの剣を肩に受けたようで、肩から血が滴っている。

 しかしクラウスは肩の傷など構う素振りもなく、素早く剣を抜くと音もなくヨハンの左胸を剣で貫いた。


「グアッッ」


 ヨハンは低く唸り、クラウスがゆっくりと剣を引き抜くと同時にどさりと地面に倒れた。クラウスの肩に振り下ろされていた剣も一緒に、カロンと軽やかな音を立てて地へ落ちている。


「……クラウス様」


 囁きにも近いルゼの声が耳に届いたのか、クラウスは男を一瞥すると剣を振って鞘に収め、振り返ると木にしなだれかかるルゼを見下ろした。

 鋭く光る濃い青の瞳を受け、ルゼはあまり動かない頬の筋肉を上げてヘラリと笑う。

 

「見ないでください」

「……」


 ノアはクラウスを怖がっているのか、ルゼのスカートの裾を小さく握りしめている。

 ルゼは感覚のない腕をノアの小さな体に回し、引きずるように引っ張って自分の膝の上に乗せた。そのふわふわの髪に左頬を埋め、独り言のように呟く。


「ノア、あなたが生きられそうで良かったです。この方についていけば安全ですからね」

「……」

「その後は頑張って生きてください。きっと良いことがありますよ。私は一度きりの人生を失敗してしまったようです」

「……」


 ノアは抱きしめられたまま体を強張らせて、終始無言のクラウスをじっと見上げている。


 クラウスはノアを気遣う瀕死のルゼに苛ついたような表情を浮かべると、しゃがんでルゼの体に振動が伝わらないように外套をかけてくれた。


「汚れ……」

「洗えば良い」

「……」


 洗えば良いのだろうが、瀕死の人間などを気遣う人間だっただろうか。

 ルゼは自分の破れた服と汚い肌を隠すようにして上着を引き合わせると、目を伏せながらモソモソと口を動かした。


「……来てくれてありがとうございます」


 そう言ってペコリと頭を下げると、ルゼの腐敗の進んでいない方の頬に、クラウスの手が触れた。

 ルゼはいつになく温かいクラウスの手に頬を擦り寄せるようにして首を少し傾げ、クラウスを見つめた。左頬に当てられた細い指が、耳の裏を滑る。


「間に合ってないけどな」


 クラウスを凝視しているノアを抱きしめながら、ぼんやりと目の前の男を見つめ、肩にゆっくりと手を伸ばした。痛いはずなのに、深く切り込まれて血が止まらないその傷に触らせてくれる。


「治してもよろしいですか」

「もう魔法が使えないだろう」

「……私の鞄に何でもありますので使ってください。怪我させてしまってご……」

「遺言はそれで良いのか」


 クラウスはルゼの謝罪を遮るとそう尋ねた。全身の肉が腐るまで後数分もないのだ。


 ルゼは見つめてくる瞳から逃れるようにして目を伏せ、一度口を開いて閉じると、小さく息を吸ってもう一度開いた。


「……その傷で私を思い出してください」

「俺に思い出されたいのか?」

「……さあ……」

「頑なだな」


 クラウスはそう言って笑うと、ルゼの頭をいつも通りわしゃわしゃと撫でた。その手の動きに身を任せてゆらゆらと揺れていたのだが、クラウスが何かの魔法を詠唱しようとしていた。


「……は? 何しようとしてるんですか」


 ルゼは咄嗟に両手でクラウスの口を塞いで詠唱を止め、怒りの視線をぶつけたのだが、クラウスは目を細めて笑うだけである。

 ルゼの両手首は木に押しつけられ、口を覆われた。


「!! んー!!」


 クラウスの手を振りほどこうと必死にもがくが、強い力で押し返される。クラウスを睨みつけて訴えるのだが離してくれそうにない。


 クラウスはルゼの薄く塗れた瞳から目をそらすと、自分を睨み付けているノアを見つめた。


「少年」

「……はい」

「この人は俺のだよ」

「んん!!!」


 別に誰のものでもない。

 誰にも成す術がないのに、クラウスはルゼに向かって魔法を使ったようだった。ルゼの傷が全て、クラウスに移されてしまった。

 

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