第80話 怖くないヨ
ヨハンにそう告げられた体格の良い男は小さく舌打ちをすると、ルゼを一瞥して檻の中へ入ってきた。この男は雇われた監視役か何かなのだろう。
ヨハンの口ぶりから仕事が雑なように思われたけれど、しっかり檻を施錠している。
(リタさんノアさんごめんね、すぐに追い出すから)
ルゼが子供達から離れた隅へ移動し、腰を下ろして男を睨みつけると、男はルゼを舐め回すように眺めて薄気味悪い笑みを浮かべた。
「お前には恐怖がないのか? いい女だな」
男はそう言うとルゼの体を確認するように、肩、脇腹、太ももへと上から下へ服の上から触れていく。武器の所持の有無など、寝ているうちに済ませていてほしい。
(く……クラウス様……)
クラウスに触れられるとくすぐったいのだが、この男に触られるのは単に気持ちが悪かった。男は太ももに結びつけられていた短剣をして放り投げると、服に手をかけて勢いよく破った。
「! 触らな……」
「うるせえ!!」
服を脱がせば逃げられないという心理的な拘束。常識を知らないルゼだが、確かに身に何もつけず外に出られない。
なぜか、破れた服の隙間から入ってきた男の手が、ルゼの肌に触れた。
(それは指示されていなかったでしょうが!)
ルゼは両腕を上げて男の首の後ろに手錠の鎖を回すと、自分の頭と勢いよくぶつけた。ゴツッ、と骨同士がぶつかり合う鈍い音が鳴り、ルゼの頭にも振動が伝わる。
「グア……ッ」
「うっ」
その衝撃に男はその場に尻餅をつき、ルゼも背後の壁に後頭部をぶつけてしまった。
男は起き上がるとルゼの頬を勢いよく殴り、ルゼの両手首を片手で握って壁に押しつけ、正面から睨み付けて怒鳴った。
「調子に……っ」
「ねえ、あなたの名前を教えてくれる?」
ルゼは男に微笑み、凛と澄んだ声で静かにそう言い放った。
男は自分を見つめてそう言ってくるルゼに驚き、真意を探るようにルゼを見ている。
「大人しく……」
「知りたいの」
「何……」
「あなたのこと、教えてくれないかしら」
怖いほどに整ったルゼの微笑みに、男は手の力を弱めて呟いた。
「……ラルス」
「ラルス、私ならあなたを幸せにできるわ」
本名だろうか。
ラルスと名乗る男は再びルゼの手首を力強く握りしめるとルゼを睨んだのだが、ルゼは美しく微笑んで告げる。
「あなたが望むものを全て与えてあげる」
「……命乞いか?」
「さあ? お金でも何でも良いわ、あなたの心を満たしたいの」
「……金だけじゃ足りない」
「他には何をお望み?」
「お前が俺の物になれ。俺は気の強い女をいたぶるのが好きなんだ。お前に何をしても良いと言うのなら、お前だけを逃がしてもいい」
ルゼは男の挑発的な笑みに口角を上げて美しく笑うと、両腕を男の肩に乗せ、手を男の背の上で滑らせるようにして抱きしめた。そして、ゆっくりと身を寄せて耳元で囁く。
「いいわよ。愛してあげる……」
ルゼはそう囁くと男に抱きついたまま下に手を伸ばし、先程男が檻を開けるために使っていた鍵を一本、腰についている鍵の束から外した。
子供達に視線をやると、二人とも声を殺して見ていたようで、ルゼは顔を真っ赤にして鍵を二人に放り投げた。
(すみません見ないでください!)
少年の方がすぐに反応してくれたようで、落とさずに鍵を受け取ってくれた。逃げたくないと言っていた割に可能性があれば進んで動くようであり、落ちた音が鳴る心配はなさそうだ。
「こんなに面の良い女は見たことがない……」
男はそう言うとルゼの首を掴んで押し倒し、服が破れて露わになったルゼの丸く白い肌へと顔を寄せた。しかし、ルゼは両腕をあげて落ちている短剣を握ると、瞬時に男の首に剣の側面を当てる。
男は驚いたのも束の間、嘲るように笑ってルゼの首を力強く握りしめ、もう片方の手で服を破くと可笑しそうに言った。
「できんのか?」
「なぜできないと思うのかしら」
「は……」
ルゼはそう言うと同時に短剣を押し込むように滑らせ、男の首をかき切った。ボタタッとルゼの顔へ生温い血が滴り落ちている。
「ガハッ……この……ゲホッ」
「鍵開けて!!」
「う……うん!!」
ノアが、ルゼの声に即座に反応して檻を開けてくれた。
ルゼは、首を押えて咳き込む男の体躯を押しのけると腰から鍵の束を取り、足枷に順に鍵をはめて両足とも拘束を外した。そして男の頭を自分の腕の輪へ入れ、その脇の下に腕を回して檻の外へ引きずり出した。
部屋の隅まで引っ張ると、自分の膝の上に男の頭を乗せる。先ほど切った首から、ドクドクととめどなく血が溢れている。
(多分ここならいける!)
ルゼは男の首に手をかざして修復魔法を詠唱した。
檻の中でルゼが火の魔法を発動させようとしたとき、一瞬床に描かれた魔法防御の魔法陣が反応したのだが、魔法陣が丸いために四角い部屋の隅にはその効果が届いていなかったのである。
「ゴホッ……ギャアアアア!!!」
男の首の傷はミチミチと音を立てて肉が集まりしっかりと治ったのだが、修復魔法の痛みに大きな悲鳴を上げて気絶してしまった。
「……あぶない……」
(死んでたら普通に死んでた……)
男の首をなぞって傷が治っていることを確認すると、その頭を膝から下ろして耳元で小さく「さっきのは全部嘘ということでお願いします……」と囁いた。
ルゼは気絶した男をその辺に転がすとふらつく足で立ち上がったのだが、檻を開けたままその扉の向こうで佇んでいるノアと、まだ牢屋の片隅でうずくまっているリタの視線を感じる。無音が痛い。
(……情操教育に全く良くない……)
「……なんちゃって! とか言っちゃってー……」
ルゼは引きつった笑みで適当に誤魔化しながら手枷を外すために再び牢屋へ歩いたのだが、牢の扉を掴むノアがルゼの足音にびくりと身を竦め、リタがぎゅっと身を丸く固めた。割と頑張って殺したというのに、ひどい嫌われようだ。
(……すみません……)
ノアとリタに笑いかけながら距離を取るようにして牢の中へ入り、鍵の束を拾って手枷を外した。ぼんやりしていたせいでガチャガシャンッと派手に音を立てて枷が鎖ごと落ち、その音にまた二人が怯えている。
(眠い……)
ヨハンに打たれた薬はどのくらいでどの程度効くものなのかわからないのだが、先程からルゼは猛烈な眠気に襲われていた。気を抜けば久々に夢を見ずに安眠できそうである。永眠かもしれない。
ルゼは鍵をポケットに入れると、まだ乾いていない男の血が付着している短剣を拾って軽く振り、勢いよく自分の太ももに刃を立てた。
ブツッ、と肉と血管の切れる感触がする。
「……ふーーっ……」
痛みで眠気を紛らわしたのだ。短剣の刃の半分が太ももに埋まっており、薬のせいか手が震えるせいでうまく抜けない。
ルゼは太ももから短剣を抜くと数回振って血を飛ばし、すぐ使えるように握りしめたまま、隅で座って動かないリタの元へコツコツと足音を立てて近寄った。
「立てる?」
「ひっ!!!」
「えっ?」
笑顔で手を差し伸べたのに、リタは恐怖に怯えた表情を浮かべて甲高い悲鳴を上げると気絶してしまった。
(うそ! し……死ん……)
女の子が死んでしまった。
困ったような戸惑いの表情でノアを見ると、ノアは暫くルゼと見つめ合った後はっと小さく息を吸いこんで、ルゼの顔を指差した。
「……とりあえずそれ拭きなよ……」
「……あ……」
顔に、ラルスの首を切った時に降りかかった血がついたままなのを忘れていた。
シャツで顔に付着している血液ををゴシゴシと拭い取ると、破られた胸元のシャツを合わせるように握ってノアに笑いかける。
「私と来る?」
「……邪魔になるかも」
「守るよ」
「……行く」
「うん!」
ルゼは転がしている男のシャツを破って太ももに巻くと、ノアに禁忌の魔法を一つ教えて自分に向かって使ってもらった。ノアの魔法が発動すると同時に、ルゼのイヤリングが片方弾け飛ぶ。
シャーロットをクラウスの元へ飛ばしたのけれど、本当に飛ばせたかわからない。彼女は今未開の地にいるかも知れないのだが、イヤリングが割れればクラウスにルゼの居場所は伝わるのだろう。
「この魔法は口外しないように」
「何の魔法なの?」
「好奇心は身を滅ぼすのだよ」
アデリナの教えである。
「僕記憶力が良いんだけど、教えないとつい言いふらしちゃうかも」
「ふ……風呂の魔法」
「本当は何なの?」
「本当などありません」
意外に小生意気な少年だ。
ルゼは不服そうな顔をしているノアににこやかに笑いかけると、気絶したリタを担ぎ上げた。両手が使えるようにノアにはスカートを握ってもらい、ナイフを片手に部屋を静かに出るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます