第77話 意識があるときにして

「でも、どうしてあんなに早く気がついたんですか?」


 ルゼはソファに座るクラウスの膝の上に横向きに乗り、体の左側面をクラウスの体に密着させると、首に抱きついてクラウスの顔の横でそう尋ねた。

 クラウスは書類から顔を上げると覗き込んでくる丸い瞳を訝しげに見つめ、ルゼの額を自分から離すように押した。


「あっ落ちちゃう落ちちゃう」

「……なぜここに座る」


 落ちないようにクラウスの首を掴む腕に力を入れる。クラウスは右手でルゼの腰に手を回して支え、左手で書類に何やらサインをしている。


 クラウスが自分を無視して仕事をしようとするので、頬を膨らませて返事をした。


「殿下がお仕事をしないようにするために、決まっているではないですか」

「……口で言えばいいだろう」

「聞いてくれなかったではないですか!」


 朝、クラウスはルゼの手を借りて体を起こすとルゼに書類を持ってこさせ、そのまま今に至る。

 

「早く横になってください。平気そうな顔をしていらっしゃるのかも知れませんが、目の見えない私は誤魔化せませんよ。クラウス様は今ほとんど魔力がない! そしてそれは私のせい! 申し訳ございませんでした!!」


 ルゼがクラウスの顔を両手で掴んで自分の方を向かせ、目を見て怒濤の勢いで謝罪をすると、クラウスは顔をしかめて低い声で言った。


「謝るなと……」

「いえ。クラウス様はすぐに気がついて止めてくださったのに、それも聞かずに猫に触れてしまった私の浅慮が招いた事態です」

「……向こうから近寄ってきただろう。お前が謝ることではない」


 クラウスはルゼの手を除けると、どうでも良さそうな顔で再び書類に目を通す。ルゼは何を言っても聞き入れてくれないクラウスに目を伏せ、小さな声で反抗した。


「私もすぐに気がつくべきだったんです」

「俺もすぐにあれを殺せなかった。自分の身を顧みたな」

「それの何を後悔されてるのか分かりませんね! 大体クラウス様は、あの猫を殺したら違う魔法が発動して、私に影響が出るとでも考えたんじゃないですか? 優しさを自責で隠してるだけですよ」


 ルゼがクラウスに抱きついてそう叫んだのだが、クラウスは手を止めずに小さく呟く。


「……鏡でも見ながら言ってこい」

「え? 私をどかそうったってそうはいきませんよ。そもそも鏡を見たところで私には何も見えませんし」

「お前は頭が悪いな」

「誰の話をしてます?」

「さあ」


 ルゼとクラウスが言い合っていると、クラウスを探しに来たウォルターが扉を開けて一瞬入るのを躊躇していた。しかし、ルゼがウォルターに気がついて笑顔で頭を下げたために躊躇いがちに口を開いた。


「……今日はまた一段とお二人の距離が近いですね」

「意図的な密着です」

「……どういうことですか?」


 誇らしげにそう言うと、ウォルターは曖昧な笑顔でクラウスの目の前に公務と思われる紙の山を積んだ。

 ルゼは、どうでも良さそうな顔でその書類に手を伸ばすクラウスの手を止めながら、ウォルターに説明する。


「クラウス様は今元気がないんですよ。私の元気を移したいんです」

「……仲がよろしいですねえ。私には通常通りの殿下のようにしか見えませんが」


 今クラウスの魔力が減っていることを知らせない方が良いと考えて、魔力を元気と言い換えたのだが、クラウスにはそれが伝わったらしい。この説明に馬鹿を見る目でルゼを一瞥した。


「密着したところで魔力は譲渡されない」

「分からないですよ」


 ルゼは、ね? と言いながらクラウスの首付近に頭を埋めて左右に振ったのだが、ウォルターは困ったように笑い、クラウスはルゼの謎理論を無視して書類にサインをするだけであった。


「それで、どうしてあの猫の異変にすぐに気がついたんですか?」


 ルゼが手を止めないクラウスの頭をペシペシと叩きながらそう尋ねると、クラウスは手を動かしながら話し出した。


「あれは、他の生き物の死骸から作られただけの物体だ。猫ではない」

「……私のせいですかね」

「お前が気に病むことではない」

「そうでしょうか」


 妙に静まりかえってしまったのだが、ウォルターがにこやかな笑顔でルゼに言った。


「ルゼ様、今日は休みではないのではありませんか」

「……クラウス様が休んだら行くつもりです」

「自由に勉強ができる時間は短いですよ。殿下の様子は私が見ておきますから、お早めに行った方がよろしいかと」


 なぜ自分は学院などに入ってしまったのか……


「……分かりました。すみません、駄々をこねてしまって」

「いえ。侍女にルゼ様の支度を手伝うように伝えて参ります」

「ありがとうございます」


 ルゼは頭を下げてウォルターを見送ると、クラウスの手からペンを抜き取って立ち上がった。


 クラウスはため息をついてソファの背にもたれると、紙の山を半分持って別の場所へ移動させているルゼを見やる。


「お前は座標転移の魔法を自分に対して発動できるのか」

「できますよ。対象は人一人です。クラウス様なら同時に何人も移動させられそうですが」


 できますよ、と言いつつ実践したことはない。


「何かあったらすぐに戻ってこい」

「そんなすぐには何もないですよ」

「返事をしろ」

「わん」

「……」

「ふふ」


 ルゼがクラウスの前に立って微笑むと、クラウスは何も言わないものの顔をしかめている。しょうがないなあ、というような顔をしてクラウスの頭にぽんと手を置くとさらに顔をしかめられたのだが、ふと今まで考えてこなかったことに気がついた。


「クラウス様。どうやって私に魔力を譲渡したのですか? 密着ではないとして、イヤリングは私の体内の魔力を増幅させるだけですよね。私の魔力がほぼ全てなくなった状態で、復活させられるものなんですか?」


 0に近い魔力をどう増幅させても0にしかならないだろう。

 そう尋ねると、クラウスは暫く思案した後にルゼを見つめて答えた。


「他にも方法があるんだろう」

「え?」

(……伝聞調?)


 クラウスは元々知らなかったが、誰かに教えてもらったようである。しかもその方法を、ルゼは知っているみたいだ。


「……あ」


 ルゼはあることに気がついて自分の腕や頬に触りながら確かめたのだが、何も感じられない。


(……どこ? 私側だと見つからない場所にあるのかしら……)


 次にクラウスの手首を掴み、手のひらを見た。なぞるようにして触れるのだが何も感じられない。

 

(……違う?)

「はは」

「!」


 クラウスがいたずらのバレた子供のように笑うので、ルゼはクラウスを叱るように見つめると低い声で言った。


「……アデリナ様ですよね? 殿下に魔力譲渡の魔法を教えたのは。禁忌の魔法は使わなければ問題ないと仰っていたではないですか」

「バレなければ問題ない」

「あなたに負担が大きすぎます。どこに魔法陣があるのですか。できるか分かりませんが、私が他の魔法で上書きします」


 手首を握る右手に力を込めると、クラウスは尚も面白そうに笑いながら言った。


「舌を出せ」

「は……?」


 ルゼは訳が分からないままに中腰になり、クラウスに見せるようにして舌を出した。

 と同時にクラウスがルゼに掴まれたままの手を自分の方へ引き寄せたため、ルゼは咄嗟に左手をクラウスの肩に置いて倒れ込むのを押さえた。


「わっ」


 クラウスに文句を言おうと顔を向けたのだが、クラウスに顎を掴まれた。

 なぜか口づけされている。


「……う……っ」


 こくり、と流れてくる唾液を飲み込み、息苦しさから涙目でクラウスを睨み付けると、楽しそうに細められた瞳に見つめられる。


「んん!!」


 ルゼがクラウスの肩を殴って抵抗すると、満足したのか解放してくれた。

 ルゼはよろけるようにへたり込み、口を手で覆って涙目でクラウスを睨みつけると責めるように叫んだ。


「……よりによってなぜ舌なんですか!!」


 魔力譲渡の魔法陣は、受け渡す側と受け取る側の両方に魔法陣を刻み、触れ合わせなければならない。

 クラウスは、顔を真っ赤にして涙目で怒るルゼに楽しそうに笑っている。


「……可食フィルムに描いた魔法陣を、複写させたってことですか……?」

「気づくのが遅かったな」

「や……やめてくださいよ! ……やめてください!」

「生きてるんだから良かっただろ」

「ありがとうございますとか言いづらいじゃないですか!!」

「ははは」


 魔法陣が描ける広さがあり、ルゼにもバレず、クラウスも触れられる場所が口内だったのだろう。

 笑いながら謝るクラウスにルゼははっとすると、眉を下げてクラウスを見つめた。


「も、もしかして、昨日だけではない……?」

「さあ。魔力が増えた感じがするとか言ってなかったか」

「!!」


 ルゼは幼体化した日の翌朝、クラウスに体調を聞かれてそう答えたのだった。おそらくクラウスはルゼが寝ている間に何度か勝手にキスをしていたのだろう。


「ね……寝込みを襲っ……」

「許さなくていいよ」


 ルゼはよろよろと立ち上がると机の上から紙を数枚取り、クラウスめがけて投げつけた。


「馬鹿!!」


 真っ赤な顔をしたルゼの怒りに、クラウスは笑うだけである。


「すまない」

「起きてる時にして!」

「……」


 ルゼはそう叫ぶと部屋を飛び出すのだった。

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