第76話 返せていますか

 ルゼはクラウスと外のベンチに座っていた。

 ホールから漏れる光と音楽、夜風を感じて目を瞑ったまま、クラウスに話しかける。


「クラウス様、勝手に姓を公表してしまってすみません」


 自分の身近にいる人間にも危害が及ぶかもしれないのである。今更ながら、独断で気持ちよくなるべきではなかったと後悔していた。

 ルゼは酔いも相まってふわふわした気分だったのだが、クラウスは心此処にあらずな様子である。


「……お前が殺されたら、俺はどうするんだろうな」

「どうするんです?」

「お前は?」

「考える必要はありません。なぜなら私が守るから」


 呂律の回らない舌で、キリッとした顔をしてそう言い放つルゼを、クラウスが白けた目で見ている。


「お前は弱い」

「解毒剤は作れるんだなあこれが」

「俺が子供の頃の話を聞いたのか」

「すみません勝手に見ました」


 クラウスは幼少の頃に毒を盛られて生死を彷徨ったことがあるらしく、それを境に多種の毒を少量摂取し続けて毒に慣らされていたようだった。宮殿の医師がクラウスの服毒歴を見せてくれ、その過去も少しだけ教えてくれた。

 皇族や王族にはよくあることだと言われたのだが、ルゼは毒に蝕まれてゆく幼年のクラウスを想像して胸が苦しくなるのである。しかし何が面白いのか、クラウスはそんなルゼを見て目を眇めるだけであった。


「昔の話だ」

「ちなみにどうして毒を盛られたんです?」

「酔いは醒めたか」

「帰りましょう」


 クラウスの後ろに続いて馬車へと向かっていたのだが、会場の出入り口付近にある切りそろえられた叢が小さく動いた。


「猫ですよ猫」


 野良の動物に躊躇いなく駆け寄って草むらの前でしゃがむルゼに、クラウスもため息をついて近寄る。


「子猫かもです。うちにおいで」


 そう言いながら草むらから顔を出した猫へ手を伸ばしたのだが、クラウスがルゼの肩に手を置いて引き寄せるようにして叫んだ。


「待て、触るな!」

「───え」


 クラウスが叫ぶと同時に手を止めたのだが、猫がルゼの胸に飛び込んできたためにほぼ反射的に両手で猫を抱きしめてしまった。


 その瞬間、ルゼは全身の力が抜けるような感覚に尻餅をついた。


「ゴホッ」


 頭の中がぐるぐると回っているような感覚があり、心臓が耳元でドクドクと脈打っている。

 自分の口元に手を置いて咳き込むと、ぬるりとしたものが手のひらに付着していた。


(……なんで?)

  

 なぜか指輪とは比べ物にならない速度で魔力を吸い取られていた。再度咳き込んで血を吐き出す。


「ク、ラウス、様……」


 血を吐き出しながらクラウスを見上げると、クラウスは殺気を放ちながら剣を抜いていた。


「!!」


 ルゼは猫をかばうように抱きかかえながら丸まり、ゲホゲホと咳き込んで地面に血を吐く。

 クラウスが丸まるルゼを起こそうとするのだが、ルゼは体に力を入れて抵抗した。


「早くそれから離れろ!」

(殺しちゃ駄目……! クラウス様にまで変な術がかかっちゃう……!!)


 クラウスはルゼの行動に怒声を浴びせるのだが、ルゼは猫を抱きしまたまま横に倒れ、気絶したのだった。


 * * *


『やっぱり目的はあなただったのよ! お前のせいでお前以外の全員が死んだ!』

『……私のせいじゃないもん!』

『言い逃れするニャーン』

『……は? にゃにを言って……え?』


 見ると手が猫のようになっており、ふかふかの肉球で頬に触れると猫のヒゲが生えている。

 困惑するルゼに、猫のような顔をした鬼の形相のエルダが飛びかかる。


『にゃー!!』

『ニャー!? にゃ……ニャー!?』


 ルゼは意味が分からず両手を前に出して顔をかばうような格好をしたのだが、目を開けると真っ黒な空間は真っ白な空間に一変しており、上から大量の猫が降ってきた。


『ニャンで!?』


 猫に浸食されていく。

 猫。猫、猫、ねこ、ねこ、ねこ、─────。




「……うあああねこ!!!」


 ルゼが飛び起きると、胸の上から大きな猫が飛び降りた。


「……元気そうだな」

「……はっ」


 暖炉の前のソファに薄めの毛布を被らされたまま、クラウスの膝を枕に寝ていたようである。

 クラウスの足にすり寄る猫を見て、慌ててソファから下りて猫を抱えるルゼを、クラウスが見下ろした。

 

「もう何の力もない」

「良かったです」

「お前が魔力をほぼ全て吸収されても離さないから……」

「無意識ですし! 怒られても困ります」

「…………」

「えへ……」


 特に無意識というわけではなく、妙な術がかけられている生き物を殺した場合、殺した人に術がかかってしまうことがあるのである。この猫がそういう類の術をかけられているのかルゼには分からなかったため、クラウスに災いが降りかからないようにしたのだった。

 

 目をそらすルゼを咎めるように見下ろしていたクラウスだったが、ルゼの頬に触れると静かに尋ねた。


「寒くないか」

「むしろ暑いです」

「そうか」

(私の体温が下がっていたから、暖炉の前で寝かせてくれたのか……)


 クラウスはルゼの頭をぽんと叩くように撫でると、ソファに仰向けになった。


「寝る」

「お休みなさいませ……」


 そう言って自分が羽織ったままだった毛布をかけようとしたのだが拒まれたため、クラウスと顔の高さを合わせるようにしてソファの近くにしゃがんだ。


 魔力を奪われたという割には元気なルゼに対して、クラウスには生気がない。


(……私が魔力を奪ったんだろうな)

「……謝るなよ。俺が好きでしていることだ」

「……」

「約束は守るから安心しろ」

「……はい」

(……覚えてるんだ……)


 ルゼより先に死ぬなという身勝手な約束は、クラウスの中でもルゼと同じくらいの重みがあるのだろうか。

 申し訳なさそうな顔をしているルゼに猫が近寄ってきたので、ルゼは猫を持ち上げると仰向けに眠るクラウスの胸の上にそっと乗せた。


「……重い」

「癒やし効果とか……しかもあったかいです」


 謝ることもできず、自分を殺しにかかってきた猫は妙に発熱していたため、体が冷たいクラウスを暖めようとしたのだ。


(……元気になるかな?)

「……」


 猫と一緒になってクラウスの顔を覗き込んだのだが、クラウスはルゼの頭に手を回して引き寄せ、顔を近づけた。


「!」


 クラウスの唇がルゼの唇に軽く触れたが、小さく音を立ててすぐに離れた。


「お前の方が良い」

「……うっ……」

「……なんだその妙な声は」

「……いえ……」


 最近、言い逃れしようもなくなっている。


(……どんな人なのかしら……)


 クラウスの髪から、目、口へと優しく触れた。

 整っているのかは分からないが、指が肌の上を滑らかに動く。


「……なんだ」

「ん~……」

「冷たい」

「それはいつもですよ」


 クラウスは悪態をつきながらも、顔に触れてきた冷たい指先を温めるようにルゼの手を握ってくれた。


(……冷たい……)


 しかしクラウスの手も温かくはなかった。ルゼの手を温めたいのか触りたいだけなのか、しきりに指を撫でている。


 ルゼは眠るクラウスの頬に、ちゅ、と口づけをしてすぐに離れた。感謝を伝えるためにキスをしてみろ、と言うドーラの助言をずっと覚えていたのである。


「…………は?」

「…………………………」


 さっと目をそらすと、困惑気味にこちらを見てくるクラウスの目元を無言のままそっと左手で覆った。手のひらにクラウスのまつげが触れてくすぐったい。


「……」

「……ありがとうございます。助けてくださって」

「……うん」


 クラウスは小さく笑うとルゼの手の中で目を瞑り、規則正しい寝息を立てて眠りにつくのだった。

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