第71話 妖艶な踊り子は良い香り
ルゼはその夜、悶々としたまま自室のベッドに潜り込んでいた。
(……私が怒ることでもない……けど……)
外で気晴らしに素敵な女性と会ってきているだけだろう。クラウスはわざわざ婚約破棄をするような不誠実な人ではない。
気持ちの晴れないまま頭まで毛布を被ると丸まり、どうにかして眠りにつこうと固く目を閉じる。
(……というか匂いきつ……)
ルゼはあの後、屋敷に戻るとすぐにマリーを捕まえて強烈な香りの香水をつけるよう頼んだのだが、マリーは嬉しそうな顔をしながら高そうな瓶に入った良い香りの香水をルゼの手首に少量垂らしただけだった。
少量ではあるのだが、ルゼが慣れていないことと布団の中に籠もっているせいで、匂いが充満してしまっている。
(……クラウス様に好みの香りとかあるのかしら。というか妖艶な香りって何……)
誰も妖艶な香りとは一言も言っていない。
香水のせいで余計に眠れなくなっていたところに、ガタガタッと窓が音を立てて揺れ出した。しかもこの日はなぜか、何か生き物の鳴き声のような音まで聞こえてくるのである。
(幽霊いるって!!)
ルゼはがばっと勢いよく起き上がると、クラウスからもらった剣と兄の形見である剣を素早く手に取り、向かいにあるクラウスの自室へ駆け込んだ。
(なんで鍵開け放してるのよ不用心だな!!)
ルゼは理不尽にクラウスに怒りながらソファの端に足を抱えて座ると、形見の剣を壁に立てかけ、クラウスからもらった剣を抱きしめて固く目を閉じるのだった。
* * *
夜中、ルゼは風が窓を揺らす音にびくりと身を震わせて目を覚ました。お化けを恐れながら寝たせいで眠りが浅かったのである。
ぼんやりしたまま再度眠りにつこうとしたのだが、自分にかけられている毛布に気がついてベッドの方を見た。
(……もどってきてたのか……)
しかしベッドには誰もいないようである。
ルゼは薄い毛布の中に身を包み込むと、ぎゅっと目を閉じた。
(……邪魔しに行くしかない……)
もう一度寝たかったのだが徐々に目が冴えてしまい、どうせいつまでも眠らないクラウスの所へ押しかけてここに連れてこようかな、と考え始めていた。
起きようと毛布から顔を出したのだが、隣にある僅かな魔力に息を潜めた。
(……いる……!)
クラウスはどうやらルゼとは反対側のソファの端で寝ているようであった。
ルゼは抱きかかえていた剣を静かに壁に立てかけると毛布を被ったままソファの上を四つん這いで移動し、クラウスの顔を覗き込んだ。
(……寝てる?)
その規則的な呼吸音にクラウスが寝ていることを確認すると、ソファの上に正座して腕を組み、眉を寄せて考え込む。
(……たしかマリーは、香水は首のある部分につけると言っていたのよね。クラウス様自身が香水をつけていらっしゃる可能性は十二分にあるのよ……)
絶対に無いとは言い切れない。
ルゼは自分を納得させるようにそう結論を出すと、もう一度そろそろとクラウスに近づいた。横髪を手で押えてクラウスの肌に触れないように注意しつつ、胸の前で組まれている腕から伸びる手首に顔を近づける。
(……石鹸の香り……。使ってくださっているのか。匂い強すぎかな? もっと似合う香りのものを差し上げたい……)
クラウスの手首、というか手全体から、以前ルゼがあげたローズの石鹸の香りがしていた。ルゼはその香りにクラウスに似合う香りは何か考え込んでしまったのだが、目的を思い出すと今度は首元に顔を近づけた。
(……特に何の匂いもしないな……)
強いて言えば髪の毛から仄かに良い香りがした。
クラウスからは特筆するような香りがしなかったことで、我に返ってしまった。
普段こんなに近づいたことがない。
(……というか私今ほぼ犬)
「早く寝ろ」
「!!」
ルゼはクラウスが明瞭な声を発したことに驚いて硬直した。
「……いつから起きてました?」
「最初から」
その声の張りから、クラウスは本当に寝ていなかったようである。
(……なにゆえ寝たふり……)
ゆっくりとクラウスから顔を遠ざけて元いたソファの端へ移動すると、隣から小さな笑い声と共に宥めるような声が聞こえてきた。
「部屋の近くにある木に鳥の巣があるだけだ」
「でも夜ですよ」
「夜行性の鳥だからだろう」
「……なぜすぐに教えてくれなかったのです」
「俺の所に来れば良いと思ったからかな」
「………………」
この人はいつもどういうつもりでこういうことを言っているのだろうか。妖艶な踊り子と密会するのは良いとしても、言葉だけはこちらに残してくれていたら良いなと思うのだ。
ルゼは毛布を置くとソファから下り、クラウスの前に立って自分を見つめてくる瞳を見返した。
「……お化けが出るので一緒に寝てください」
クラウスは返事をしなかったが、微かに笑うとルゼを抱き上げてベッドに寝かせてくれた。
ルゼは横を向き、腕を枕にしてくれているクラウスを見つめる。
「一週間もどちらへ行っていたのですか」
「……話を聞きに」
「誰に何の話を聞きに行っていたのですか」
「珍しいな。お前が俺のことを聞くのは」
これ以上話せることはないという意味だろう。
ルゼは目を伏せると小さく呟く。
「……すみません。面倒な質問をしてしまって」
「いや。明日お前も連れて行こうか」
「……」
(……そこで私に何を言い渡すおつもりですか·····)
聞きたいのだが、答えが返ってくるのが怖かったために聞けなかった。
ルゼはその質問には答えずに、もう一度クラウスと目を合わせる。
「クラウス様」
「なんだ」
「今触れたら怒りますか」
「………………」
「抱きついても良いですか」
「…………好きにしろ」
ルゼは毛布の中を移動すると右手をクラウスの上に乗せてその胸に顔を埋め、手首を背に押しつけるようにして抱きしめた。
「……私今少しだけ良い香りがしますので」
「……それで」
「妖艶な踊り子の甘い香りを消し去ります」
「は?」
「……どちらか一人にしてください」
ルゼがそう言ってクラウスを力強く抱きしめると、クラウスはルゼの鼻を摘みながら呟いた。
「……そいつはお前のくれた石鹸の香りで、勘違いしたんじゃないのか」
「え」
ルゼはクラウスのその言葉に、自分が渡した石鹸の香りとイェリクやアランの証言を思い出した。
確かにルゼの使ったローズの種類は秋に咲くものであり、違う種類のローズに春に咲くものもある。更に、ルゼの調香した甘いローズの香りを好んで身に纏うのは、妖艶よりもどちらかと言えば可愛い女性だろう。
「………………ふっ……」
ルゼは微かに笑い声を立てると右腕を下ろし、毛布を頭まで引っ張るとか細い声で呟いた。
「…………お休みなさいませ」
「ははは」
距離を取ろうとしたのだが抱き寄せられてしまった。ルゼはその腕の中で、身動きは取らずにただ一心に存在を消そうと努めるけれど、心臓が自分を感じさせてしまっている。
「ルゼ」
「……なんですか」
毛布にくるまったままくぐもった声で返事をした。不遜な態度であるのに、クラウスの声は相変わらず優しい。
「なぜ俺がお前と婚約したか分からないのか」
「……同情と憐憫……」
「本当に?」
「……そうでないと私の決断が鈍ります」
「そうか」
誰にも留められてはならない。彼が自分の返答で何を感じたのかなんて、どうでもいいことだ。
ルゼは毛布から顔を出すと、クラウスの目を見ずに小さく呟いた。
「……お帰りなさい。夜更けまですみません……」
そう言うと、顔を見られないようにクラウスの胸に顔を埋めて眠りにつくのだった。
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