第70話 新しい婚約者

「ルーエン! 今日から新人と同じ訓練を受けろ」

「はい!」


 アランにとっては救世のような言葉がヤナから飛び出したのは、三日前のことである。ルゼはあれから一週間、不平しか言わないアランと共にヤナの指示する訓練を乗り切った。


「ルーエン! もう終いだぞ。いつまでやってるんだ」


 ルゼが素振りをしていると、ルゼよりも少し背が高いくらいの少年、フリッツが水を渡してくれた。

 フリッツは、ヤナに特別目をつけられていたルーエンを不憫に思って話しかけてくれた友達である。


「……フリッツ! 今から剣の相手してくれない?」

「ルーエンは疲れない体でも持ってんのか? 満面の笑みで走った後に一心不乱に剣を振り下ろしてるの、ちょっと気持ち悪いからな」

「最近楽しいんだ! ねえ、ちょっとでいいからさ……」

「いやだ! お前は楽しいかもしれないが俺らは全く楽しくない!!」


 ルゼは新人と同じ訓練に加わった日、3人の新人騎士を相手に簡易的な試合をして一瞬で勝って以来、誰も相手をしてくれなくなっていた。


(……クラウス様、いつお戻りになるのかしら……)


 もう一週間も経つというのに、一体どこで何をしているのだろう。口を出す権利は一切ないのだが、そろそろ話したいことが増えてきた。


 ルゼがつれないフリッツを尻目にいつまでも不在のクラウスに思いを馳せていると、フリッツが思い出したように話しかけてきた。


「なあ、殿下の婚約者ってどんな人だと思う?」

「ごほっ……どうしたの急に……っ」


 クラウスの婚約者がルゼであることは、まだ一部の人しか知らない。

 ルゼが飲んでいた水を焦って飲み干しながらそう言うと、フリッツは突然焦りだしたルゼに不審な目を向けて話し出した。


「いやさ、俺結構殿下に憧れてんだけど、あの硬派な方がこんな長期間外泊するほど入れ込んでる女性がいるんだろ? 見てみたいじゃん」

「……え?」


 長期外泊はただの長期外泊だろう。あの男に限ってそんなふしだらなはずがない。だって苦言を伝言させるほどに心配されている。

 フリッツは、驚いたように目を丸くするルゼに気がついていないようである。


「知らないのか? 最近殿下から女性用の香水っぽい香りがするから、ついに殿下にも婚約者ができたって騎士の間で噂されてんだぜ」

「……へえ……」


 婚約者ができたと言うことは知っている。その婚約者が香水をつけているというのは初耳だ。だって強い香りが苦手だから……。


「あの殿下を射止めるのは妖艶な美女とか言うやつもいるけど、俺はあの香水をつけるのはかわいい女性だと思うね!」

「……」

(……妖艶な美女……)


 可愛い女性がつけるような香水を、クラウスは好んでつけないだろう。妖艶な美女ないし可愛い女性を、あの男は侍らせているようである。


「は?」

「何だよ?」


 ルゼは木剣を二本握るとフリッツの腕を掴んで勢いよく立ち上がり、木剣を一本投げつけた。


「おい、お前とはしないって……」

「勝負!」

「やめ……ぐええっ」


 ルゼは一瞬でフリッツの木剣を飛ばすと胴に木剣を入れた。フリッツはその衝撃に尻餅をつき、話を聞かないルゼを睨み付けている。


「もう一本!」

「お前十分強いだろ!」

「早く立つんだフリッツ君!!」

「やらねえって!!」

「何を荒れていらっしゃるのですか」


 振り返ると、呆れた顔をしたアランと剣を持つルゼに嬉しそうに微笑むイェリクが立っていた。


「お久しぶりです」

「お嬢様、あまり新人をいたぶってやらないでください」

「いたぶってなどおりませんが」

「お嬢様?」

「あっ」


 フリッツの質問にアランがあからさまに慌てた声を上げ、イェリクはアランに軽蔑の目を向けている。アランが妙な反応をしなければ、フリッツにもヤナにもバレないというのに。


 アランは訝しげな表情をするフリッツを見ると、こほんと小さく咳払いをし、真面目な顔をしてフリッツを見つめた。


「……フリッツ君。俺は今日の暑さで頭がやられてしまっているようだ。この猛獣は俺らが対処してやるから早く帰り給え」

「はあ……」

「なんだその喋り方は」

「……イェリクに俺の苦労が分かるものか! お前らが勝手に決めたことなのに、なぜ俺ばかりが割を食わねばならない!」

(荒れていらっしゃる……)


 アランがプンプンと地団駄を踏んでいる。

 フリッツは目の前で突然怒りだしたアランを見て、ルーエンに同情の目を向けると逃げるようにその場を立ち去った。


 ルゼはフリッツの置いていった木剣を拾うとイェリクに押しつけ、低い声で言った。


「イェリク様。稽古に付き合っていただけませんか」

「何か苛立っているようだが話を聞こう」


 イェリクは木剣を受け取らずにその場でしゃがんだため、ルゼとアランも渋々座った。


 ルゼは話を聞く気満々のイェリクを見ると、躊躇いがちに口を開く。


「……お二人は聞いたことがあるのですか?」

「「何をだ」」

(……息ぴったり……)

「殿下に妖艶な美女の婚約者がいることについてです」

「最近話題だな」

「さあお嬢様俺と一試合しましょうか!」

「僕はルーエンですが」


 ルゼは横やりを入れてくるアランを睨んだのだが、イェリクはアランの反応に首を傾げた。


「ルーエンのことじゃないのか」

「僕が妖艶な美女に見えるとでも?」

「それもそうだな」

「イェリク!」


 深く頷くイェリクに、アランがルゼの顔色を窺いながら慌てたように叫んでいる。

 そんなに気を遣ってくれなくとも、自分が妖艶な美女でないことは自分が一番わかっている。そこが趣味だったのだろうか。


「それに僕は香水をつけたことがないです」

「じゃあ新しい婚約者だな」

「ほーん」

「黙れイェリク! 新しい婚約者ってなんだよ!」

「だから、ルーエンが古い婚約者でもう一人別に婚約者がいるんだろ」

「へーえ」

「説明しろとか言っていない!」

「アランは何をそんなに怒っているんだ!」

「お前がアホだからだろうが!」


 ルゼは二人の問答を見てなぜか気持ちが落ち着いたのだが、何に腹を立てているのかわからない自分に小さくため息をついた。

 クラウスが不誠実な人だとは思えない。ルゼ以外の婚約者は作っていないだろう。でも、それほど強い香りを放つ女性と外部で密着しないといけないくらいには、抑圧された感情があるのかもしれない。

 荒れていない唇ですら素通りされる女では駄目なのだろう。


「その香水ってどんな香りなんですか?」

「甘いにおいだったな。春に咲く花みたいな」

「春? 秋だろ」

「知らん」

「甘い花の香りか……」


 春または秋に咲く花の香りを漂わせた妖艶な踊り子に惑わされているらしい。


「ま、まあでも、よくあることですよね」

「そうですね」

「そうだな」

「ルーエン君ならすぐ次の相手も見つかりますよ」

「違いないな」

「帰ります」


 ルゼはそう言うと二人にお辞儀をし、哀愁を漂わせた背を二人に向けて屋敷へ戻るのであった。

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