第37話 そして失敗しました!
「……そこに座れ」
「はい。失礼します」
静かに足を踏み出すと、ゆっくりとソファに腰掛ける。
(柔らかい……!)
一瞬ソファの柔らかさで緊張が飛んでしまった。
ルゼはここで初めて周りの景色が目に入ったのだが、別邸の執務室と大体同じ仕様であるようだ。仕事場というものはどこも似たり寄ったりなのかもしれない。またはクラウスが内装に頓着しない人間なのかもしれない。
てっきりクラウスはいつも通り隣に座ってくれると思っていたのだが、ルゼの対面に腰掛けたようだった。ルゼを正式な客人として迎えてくれたのだろうか。しかしそのせいで、否が応でもクラウスを正面から見つめる羽目になってしまった。
ルゼは小さく深呼吸すると笑顔で話し出した。
「……本日これより、イザーク・バルテル侯爵様の邸宅で、私とバルテル侯爵様の婚礼の儀が行われるのですが……」
「………………」
(……あれ? この後何を言えば良いんだろ……)
気合を入れて話し出したのは良いものの、続けるべき言葉が見当たらない。シャーロットには、この後の予定を全て話せ、としか言いつけられていなかった。
ルゼが一呼吸置いている間も、クラウスはルゼを無言で見つめている。
「それで、……」
(……待て、落ち着け! シャーロット様の意図を想像するんだ!)
ルゼは自分が何のためにクラウスに会いに来たのか分からなかったため、シャーロットが何を考えてこれを仕組んだのかを瞬時に考えた。
(おそらくシャーロット様は私のこの婚姻をよく思っていないのよ。それで、この方の力でどうにか婚礼の儀を瓦解させようと考えたのだわ。……それで?)
それで? ルゼには次に言うべき一言が思いつかなかった。クラウスの力をどう借りたら、この婚姻が解消されるというのだろうか。
エレノーラの話しぶりからすると、既にモーリスとイザークの間で決定された事案なのである。そもそもどうにかできる術があるのなら、ルゼは今日に至るまでに既に実行していたはずだ。
しかしシャーロットはどうにかできると踏んでここへ連れてきたのだ。
(……エーベルト様を利用する……傲慢なお姫様!)
シャーロットが傲慢、と言うわけではなく、他人を利用するという考えを作るには他人になりきるしかないのである。
ルゼはもう一度気合を入れるとニッコリと笑って言い放った。
「……ですが! 私は
(……ダメだ! 最悪だ!)
「……」
言い放った瞬間にどっと後悔が押し寄せた。
ルゼは笑顔で、「イザーク公と結婚したくないから、冗談か本気かはどうでもいいから一度 仰ったことは責任を持って実行してください」と言ったのである。さらに、「そのために多忙な皇太子殿下の半日の時間を使い、モーリスとイザークの両者を納得させられるだけのお金を払え」と言っているのだ。しかも、「その結果ルゼが本当に妻になることは保証できない」と暗に言い含めているのであった。
掃き溜めで育ったゴミのような女が言いそうな台詞である。こんなにも自分に優しくしてくれている人に対して、なんたる仕打ちだろうか。
(……というか私、バルテル様のもとにお嫁に行きたくないんだっけ……?)
自分が何をしたいのかがよく分からなくなってきた。
ルゼは両手を膝の上で揃えると、笑顔のまま、ギギギギ……とゆっくり頭を下げた。ゴン、と音を立てて机と頭がぶつかる。
暫く黙った後、その状態で話し出した。
「……申し訳ございません。バルテル侯爵様と結婚させられそうなので助けてください」
最初からこう言えば良かったのかな、と思わなくもないのだが、一度大きな失敗をした後でないと、こうも正直に人に助けを請えそうにもなかった。
終始無言でルゼを眺めていたクラウスが、ソファを立つとルゼの隣へ移動し、どさりと座りこんだ。その振動がソファを介してルゼの体に伝わり、ルゼはびくりと身を震わせる。
ルゼは机に頭を置いたまま続けた。
「……でも、既にバルテル侯爵様とモーリス様の間で金銭のやりとりが行われた後です。この婚姻を解消するとなると、それ相応の額が必要になります」
クラウスは依然として無言である。
「……頼れる人が殿下の他に思い当たりません。都合良く利用してしまうことになるのですが、どうか私に貴方の婚約者のふりをさせていただけませんか」
婚礼の儀まで許された時間も残り少ない。
「……返せるものが何もないと分かっていながら、奪ってばかりでごめんなさい」
ルゼは最後に小さくそう述べた。
ルゼもシャーロットも、クラウスがルゼのために時間もお金も使ってくれると分かったうえでこうして頼みに来たのだ。しかも、そうして自分が彼に与えられる物は何もなく、さらにはクラウスの優しさも善意も踏みにじってしまうのである。
ルゼが頭を上げずにクラウスの言葉を待っていると、小さなため息をついてクラウスが静かに口を開いた。
「俺は、俺をお前の婚約者候補に入れてくれと言ったんだ。お前を婚約者にするとは言っていない」
「……はい」
(やっぱりフリであっても……)
「違う」
やっぱりふりであっても私を婚約者にはしてくれないか、と思ったのだが、クラウスはそれを見透かしたように否定した。
頭を上げると、隣に座る男性を見つめる。
「……選ぶ権利は私にある、とおっしゃりたいのですか」
「そうだ」
「……エーベルト様に対する恋愛感情があるかどうかは定かではないうえに、余命も一年で、身分は子爵で将来犯罪者になる可能性が高いのですが」
「……」
ルゼは一息でそう言うとクラウスを見つめた。
「私の婚約者になっていただけますか」
「……最悪な婚約者だな」
クラウスはそう言うと楽しそうに笑って立ち上がり、侍女によって整えられたルゼの髪の毛が乱れるほど力強く、ルゼの頭を撫でた。
「……ごめんなさい」
「いいよ」
そしてルゼに手を差し伸べて立たせ、高いヒールに慣れていないルゼに自分の腕を貸すと、階下へと下りるのだった。
たとえルゼがクラウスの婚約者候補であると言えども、今まで女性の影もなかったような皇太子が、見知らぬ女性に腕を貸して本邸内を歩いたのである。使用人や侍女から噂が広まるのは早いだろう。
ルゼはせめてクラウスが恥をかかないように、と後ろめたさに俯きたくなるのをぐっと我慢し、背筋を伸ばして前を見据え、クラウスの歩幅に合わせて歩いた。
馬車までの道のりが随分遠く感じられる。
ルゼとクラウスは誰も彼もに、ぎょっとした顔で見られながらも無事に馬車に乗り込んだ。
婚約者にしてほしい、というお互いの意見がつい先程一致したにもかかわらず、馬車の中で二人は一言も言葉を交わすことはなかった。
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