第29話 寝ぼけました
『────逃げろ!!』
───ガタンッ、と突然届いた衝撃にビクリと全身を揺らして目を覚ますと太ももに縛り付けていた短剣を引き抜き、左にいる人物の首元にめがけて振り抜いた。
「つっ……」
瞬間、左手首に激痛が走り、握りしめていた短剣が手から落ちてしまった。
(……なに……)
ルゼはそこではっきりと目を覚ますと、覚めた頭で目の前に広がる景色を確認した。
なぜか隣に座る皇太子、その肩で居眠りする愚民、床に落ちた短剣、じわじわと痛む左手首──
「──うわあっっっ!! 痛いっ!」
「……ふ……」
ルゼは立ち上がりながら右へ飛び退いたのだが、ゴンッと盛大に音を立てて勢いよく馬車の天井と頭が衝突した。慌てふためく寝起きのルゼに、クラウスが可笑しそうに小さく笑っている。
ルゼははっとすると座席の上に正座をし、両手と額を馬車の座席につけて勢いよく頭を下げた。
「もっ、申し訳ございませんっっ!! もうしわけございません!!」
「はは。いや、すまない。お前が倒れそうだったから支えていたんだが」
「すまない!? いえ、すみません!!」
クラウスは、馬車の揺れに倒れそうになるルゼを肩で支えてくれていたのであろう。
いつも不遜に言い返し怒らせ距離感を測っているルゼだったが、今のこれは明らかに人として間違っている。怒らないから何をしてもいいというわけでもないだろうし、ここで意味もなく許されてしまっては今後一生頭が上がらないことになる。
そもそもの立場として頭の上がらない相手ではあるのだが。
(……この人の肩を枕に居眠り!?)
考えるほどに失点がボロボロと出てくる。
ルゼが両手をついて必死の形相で怒涛の謝罪を繰り返していると、クラウスがルゼの左手を手に取って、その手首を労るように優しくなぞった。
「すまない。痣になるかもしれない」
「そんなことはどうでもいいんですよ! 本当に怪我していませんか?」
(なんだこの人! 私の手首はどうでもいいんだよ!)
クラウスはたった今殺意を向けられたというのに、何故か平然と謝ってきた。殺意を向けてきた相手は殺せ、と教えられたような気がするのに。
ルゼの蒼白の顔に、クラウスは可笑しそうに笑っている。
「俺を傷つけられるとは大した自信だな」
「い……言ってる場合では……」
実際に傷をつけられるかどうかの話ではないのだ。剣を向けたという事実だけで万死に値する。それはクラウスが皇太子だからではなく、復讐相手以外殺さないというルゼの信条があるからだ。
ルゼはクラウスの顔を見上げると再び頭を下げ、震える声で言った。
「……私を打ち首にしてください。殿下に刃物を向けるなんて、たとえ刃が届いていなくとも万死に値する重罪です。申し訳ございません」
「問題ない。お前はこんなどうでも良いことで命を無駄にするのか」
「……ど、どうでもいいって……」
(問題しかない……)
怒ればいいのに。
皆と同じように声を荒げて怒られたほうが救われるのに。
ルゼは前方に身を屈めると震える手で短剣を拾って鞘に収めた。そのまま反対の座席へ座ろうとしたのだが、クラウスがルゼを引っ張って自分の膝の上に座らせた。
「……ごめんなさい」
「ああ」
クラウスは何てことなさげな顔をしているが、突然刃物を向けられる恐怖を知っているのだろうか。
ルゼはクラウスへの懺悔の気持ちを抱きながら、目の前の首筋にゆっくりと手を伸ばした。首に手を添え、触れているのかいないのか判別しがたいほど優しく、その細く綺麗な首筋を親指でなぞる。
(……ほんとに怪我はないみたい……)
ルゼの感覚では首を切ったと思ったのだが、実際は寸前で弾き飛ばされたのか、刃先が触れることもなかったようである。
蒼白のルゼを無言で眺めていたクラウスが、ルゼのこめかみに指を置いた。その指が、顎先、首の付け根へと移動する。
(……急所……?)
「俺の方が先にお前を殺せる」
「……!」
だから安心しろ、という意味だろうか。妙な励まし方を知っているようだ。
クラウスは静かにそう言うと、ルゼの首の付け根に手を添え、少しずつ力を込めた。クラウスの細い指が、ルゼの首へ抵抗なく沈む。
ルゼは十年間、ただ殺された家族の復讐のためだけに生きてきた。しかし復讐を遂げた後、果たして自分はそれで満足するのだろうか、とも思うのだ。仇をとった後の本来の目的を実行することに何ら迷いはないのだが、なんだか疲れてしまった。生きているような感覚が一番心を締め付けてくる。
ルゼは浅く息をしたまま瞼を閉じたのだが、クラウスは手の力を緩めると、先程は弾いたルゼの左手を握りしめた。
「いって……」
「起きろ」
「……寝ておりません」
先程はたかれてできたのであろう痣の痛みに、ルゼは僅かに顔をしかめ、小さな悲鳴を漏らした。
急にどうしたのかとクラウスを見ると、どこか叱責するような視線を感じる。
(……やっぱり怒ってる……)
「……申し訳ございませんでした」
「そうではない」
「……?」
クラウスは殺されかけたことに対して怒りを表していると思ったのだが、ルゼの謝罪はクラウスのいつもより低い声によって即座に否定された。
なぜ怒りの目を向けられているのか分からない。戸惑う視線を向けると、諦めたような小さなため息が聞こえてきた。
「お前は死ぬのも人任せか」
「!」
恥ずかしさに顔を真っ赤にしたルゼを、クラウスが無言で見下ろしてくる。
(死ぬの……も?)
人任せに生きてない。
説教されるかと思ったのだが何も言われないので、ルゼはもそもそと膝から降りると隅で大人しく座っておくのだった。
✽ ✽ ✽
馬車から降りるとクラウスが先を行くため、ルゼもクラウスの服の裾を掴んで数歩後ろをつき従うようにして歩こうとした。
しかし、服の裾を引っ張るようにして掴んだせいかクラウスが歩を止めたため、背に顔をぶつけてしまった。
「わっ」
「……なんだ」
「はい? なんでしょうか」
「……いや……」
ルゼが人間を感知する術は音か魔力の揺れかしかないのだが、最近のクラウスは足音もしなければ魔力も感じられない。
その上クラウスは元来無口なのか、それとも口下手なのかわからないが、ルゼの質問にあまり答えを返さない。10質問すれば2くらいしか返ってこない。そんなに何かを聞いたこともないけれど。
そのため、いる場所も分からなければ考えてることなどもってのほかだった。
ルゼは裾を掴んで歩きながら、クラウスを見上げて言った。
「最近、私の世界から殿下が物理的に消えかけているのですが。足音か魔力の揺れか、発していただけませんか」
「ああ……。……呼吸音も空気の揺れもあるだろう。頑張れ」
「……」
(……分からないって……)
存在を消して何がしたいんだこの人は。
意味の分からない激励に苛ついていると、何を思ったのか、服の裾を掴んでいたルゼの手が大きな手に包まれた。
おそらく手を握られている。
「……なんでしょうか」
「何が」
「……」
「ふ」
「私をからかって楽しいですか」
「ああ」
「……」
(……人誑しめ……)
賑やかしい城下を、クラウスに手を引かれて歩くのである。
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