第28話 小さな怪我ですけど
いつも暗いベルツ邸。
休日ルゼは、客など来たことのない埃っぽい客間の片隅で読書をしていた。与えられていた自室が昨晩雨漏りしてしまったため、早急に修理をしなければならないのだが、気が向かないので魔導書に逃げているのだ。
そして偶にエレノーラと雑談する。
「才能もないのに、よくもまあ毎日飽きもせず魔法の勉強ができるわね」
エレノーラは仁王立ちでルゼを見下ろしている。ルゼは指輪のおかげで魔力がほとんどないため魔法が使えない。しかも10年間一度も魔法を使っていないため、今更指輪が外れたとしてもそれほど上手には魔法を放てないだろう。
ルゼは本から顔を上げるとエレノーラを見つめた。
「……でも、知ることは楽しいです。それに、」
「黙りなさい。知ることが楽しいだなんて言って、大方学院へも私から逃げるために入っただけなんでしょう」
「いえ……」
エレノーラから逃げるだけでなく、ベルツの人全員から逃げるためである。
「いいえ、責める気はないわ。臆病者のあなたには賢明な判断なのではないかしら。あなたは一生そうやって現実から目を背けて逃げ続けておけば良いのよ」
「……」
エレノーラは時々正しいことを言うから嫌だ。
ルゼがたまに少し何かを言うとエレノーラは十倍にして返してくるため、大体の場合は黙って聞いているのだが、この日のルゼはいつもよりも無駄に勇気があった。
「……お義姉様は、なぜそうやって私を目の敵にするのですか」
ルゼはゲオルクのことはゲオルク様と呼ぶのだが、エレノーラのことはお
ルゼが言い返してきたことにエレノーラは少したじろいだようであったが、すぐに好戦的な瞳をしてルゼを馬鹿にしたように見下ろす。
「……全部あなたのためを思って言っているのよ。まあ、いつまでその反抗的な態度を続けるのか知らないけど、あなたも結婚すれば落ち着くんじゃないかしら」
「結婚なんて……」
むっとして言い返そうとすると、エレノーラが滑稽なものでも見るような目でルゼを眺めた。
「かわいそうに。何も聞かされていないのね。昨日、バルテル侯爵様からあなたに縁談の話が来たって、お父様がお喜びになっていたわ。ふふ、あなたは売るためだけに拾われただけなのよ。それなのに必死にお父様に媚びを売って、本当に滑稽だわ」
(……バルテル公爵? 聞いたことない……)
どうやらルゼは当人に秘密裏で売買される商品であるようだ。自分に対して関心を持つ人間がいないこの家だからこれほどまで自由に動けているのに、困ったことになりそうだ。
「……私は結婚などしません」
「安心なさいな、お相手の方はこの国でも有数の富豪よ。あなたももっと贅沢な暮らしができるんじゃないかしら。まあでもその代わり、女を人として見ていないような方だけど。人の家に勝手に転がり込んで浅ましく生きてるあなたにはお似合いね」
「……」
ルゼは言い返すことなく、ふいとエレノーラから視線を逸らすと本を返しにエレノーラの横を通った。
「そうやってあなたはいつも逃げているのよ」
勝ち誇った顔をするエレノーラにそう言い捨てられるのだった。
* * *
その後すぐに屋敷を出ると、ルゼはエーベルト別邸の花壇の前にしゃがみ込んでいた。花壇には庭師が植えた植物の芽が多数並んで生えている。普段は綺麗な花が咲いているのだが、この前の大雨のせいで土が荒れ、種もいくつか流されてしまっていた。
ルゼは黙々と花壇の手入れをしながら、ぼんやりとエレノーラに言われた言葉を思い出していた。
『──あなたはいつも逃げているのよ』
逃げてなどいない、逃げるつもりもない、と思うのだが、十年経って何一つ事が前に進んでいないのは、自分が心のどこかで真実を知ることを拒んでいるからではないのかとも思うのだ。
(そんなことない……)
むしゃくしゃとした気持ちで花壇を囲うレンガを思い切り殴りつけてしまった。ちょうど骨の部分とぶつかったのか、ガッと小さな音がする。
レンガはあまり手入れしていないため表面が粗く、僅かに突き出している石の端で右手の側面が切れたような感覚がした。
「いたい……」
「おい」
「!」
拳から伝わる余韻に暫く浸っていたのだが、頭上からクラウスの声が降ってきた。最近のクラウスは以前にも増して足音も気配もしない。
(……人間か……?)
立ち上がると右手の傷を左手で隠すように包み、お辞儀をした。
「お邪魔しております、エーベルト殿下」
クラウスは挨拶を返すこともなく、ルゼの右手首を掴むとずかずかとどこかへ向かって歩を進めた。クラウスがどこに行こうとしているのかは分からなかったが、その目的は明白だった。
「……あの、このくらい問題ないですよ。私が勝手につけた傷ですし」
しかし返事はなく、クラウスは通りすがりの侍女から包帯と布を貰っている。
(大げさよねみんな……)
向かった先には井戸があった。井戸のある屋敷は家格の低い屋敷か下町くらいでしか見ないのだが、誰かの趣味なのだろうか。石の肌触りと汲む時の音から年季が感じられる。
ぼんやりして佇んでいると、クラウスが水を汲んでルゼの右手を洗い流してくれた。その冷たさが傷に沁みる。
「痛いです殿下」
「我慢しろ」
クラウスは傷口を十分に洗うと、軽く水を拭き取ってくれた。肌触りの良いタオルだが、傷口には多少目が粗い。
「い……っ」
「薬を持っているだろう」
「あ、ああ……塗り薬があったと思います」
(……私を薬師か何かだとお思いなのかしら……)
ルゼは、唯一の所持品・魔法の鞄──至って普通のお気に入りの肩掛け鞄から、軟膏の入った容器を取り出して片手で蓋を開けると、クラウスがそれを少量手に取ってルゼの傷口に塗り込んだ。
ルゼの右手に馴染みのある痛みが広がる。
(……痛いって……)
手当してもらっている手前文句は言えないのだが、自分で薬を塗るよりも痛いような気がする。
クラウスが手慣れた手つきで包帯を巻いてくれた。
(巻くの上手……)
「大げさですよ」
「利き手は大事にしろ」
「……すみません。手当、ありがとうございます」
ルゼは礼を述べると、包帯の巻かれた右手をグーパー、と開いたり閉じたりした。血もそれほど滲んでおらず、すぐ治りそうである。
「どこかへ出かけるところだったのではないですか? すみません、お時間を取らせてしまって」
「……少し城下に下りようと思ったんだが」
「おお……」
ルゼは自由に使えるような馬車もお金もなく、学院もベルツの家も山の中にあったために城下に行く機会がなかった。
小さく感嘆の声を漏らしたルゼをクラウスが無表情で見下ろしている。
「お前も来るか」
「……」
「他意はない」
「別に何も思っておりませんが」
「そうか」
別に、殿下と二人でお出かけすることに対して心を動かしたりしていない。
ルゼは握りしめた拳から顔を上げるとクラウスを見つめ、躊躇いがちに口を開いた。
「……お邪魔ではないですか」
「邪魔じゃない」
「ついてってもいいですか」
「ああ」
「……」
なんだか負けた気分だ。
ムム……と顔を顰めるルゼを置いて、クラウスは馬車まで歩き出してしまっている。
馬車にはクラウスと向き合う形で座ったのだが、何か作法などあったのだろうか。シャーロットの真似をするにも限界がある。頑張らないとなあ……と、何につけても漠然とそう思うのだ。
城下へは数時間程度で着くらしい。ガタゴトと馬車の規則正しい揺れが体に伝わってくる。
(……道が綺麗に舗装されているのね……)
窓の外をぼんやりと眺めながら、ゆっくりと瞼を下げた。人前であるというのに、浅い眠りへと誘われてしまうのだ。
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