第7話 触られないだけ良しとしようか

 

 義父は気持ち悪い人間だ。


「お義父様、ただいま戻りました」

「ああ、入りなさい」


 ルゼは義父の部屋の扉を開けると、失礼します、と一礼して中に入った。


 義父、モーリスは太った六十代ほどの男性だろう。いつも葉巻のにおいを部屋中に漂わせている。ルゼはこの胸の詰まるような煙の匂いがあまり好きになれないので、今日は何秒息を止められるか挑戦していた。息を止めていれば平気なのである。


 モーリスは、ルゼが入るときはいつも大きなソファに座っている。ルゼの中では、モーリスは華美な装飾品を身に着けた貴族然とした成金だ。

 モーリスは姿勢良く佇むルゼを見下ろして太い葉巻を軽く吸い、煙を吐くと静かな口調で話し出した。


「二日も家を空けて何をしていた」

「……友人のお屋敷で勉強をしておりました」


 無断外泊は罪が重い。このおじさんはルゼを家の中に閉じ込めておきたいのだ。

 ルゼが顔を上げずにそう答えると、モーリスは苛立ったように鼻を鳴らした。


「ふん。昨晩エーベルトの使用人から、お前が倒れたからこちらで介抱する、と連絡が届いた。こちらに帰さずに滞在させるなど、どうやってあの若造をたらし込んだのか……。お前、うまいことあの家との縁談を取り付けられないか?」

「できないですし絶対に嫌です」

「口答えをするな」


 モーリスはお金が大好きである。よく分からないが、金貨がたくさんあると幸せになれるらしい。持参金を持たせないままエーベルトに送り込んで、金と縁故、更には後ろ盾が欲しいのかもしれない。


「お前が外で恥を晒せば、この家の名が穢れる」

「それならなぜ拾ったのですか」

「お前、いつからそんなに生意気に言い返すようになった?」

「最近じゃないですか? 私貴方のことだけは人として下に見てるの」

「……」


 憧れの人を見つけたあたりからかもしれない。ルゼは義父には強く出ることができた。彼には理不尽を強いられていると自分でも思っているからである。

 この男は約束を破ったことを理由にルゼを折檻することが多々あった。この場合は家と学院以外に外出するなという約束を破った罰である。守る意味もなさそうなので、あまり守ってはいない。

 最近では、モーリスはルゼを殴るだけでは済まさず葉巻を押しつけることがあった。


「……っ……」


 モーリスに苦しんでいる姿を見せたくはないのだが、葉巻の熱さと痛みにはまだ慣れない。惨めな気持ちではあるけれど救いがあるとすれば、ここに義父以外の人間がいないことである。

 やり返さないのは、喧嘩両成敗になってしまうからである。モーリスだけが悪いという状況を作り出すことで孤独なルゼは救われていた。自分よりも明らかに下位の存在を自分の中で作り出して、夜な夜な安心しているのである。


「分かったらもう良い。拾ってやった恩を忘れるなよ。もう行きなさい」

「……はい。失礼します」


 ルゼは立ち上がると一礼し、スタスタとモーリスの部屋を出た。


 誰も彼も怒る割に、二度とするなとは言わない。そのため、鬱憤を晴らしたいだけなのだろうと考えているのだが、もしかしたらほんの少しだけ自分が悪いのかもしれない、とも思うのだ。それほどまでには理由もなく嫌われている。いや、理由もなく、と思ってしまうところがおそらく理由なのだろう。


 ルゼは自室へ戻ると、はあ〜と大きく長いため息をついた。常に一人なのに、一人になれる場所があまりにも少ない。


(……十年も経つのに……)


 いつまで経ってもこの体たらく、自分の無力さを苛みながら、空気に触れて痛む背中に自作の塗り薬を塗布した。一人では塗りにくいうえに目が見えないため、煙草と殴打の傷が治っているのかどうかもわからない。


(……お兄様。待っていてください。私が必ず……)


 ルゼは、理不尽に怒鳴り散らすエレノーラにも、自分を嘲笑するゲオルクにも、力でねじ伏せるモーリスにも、噂話に花を咲かせる使用人にも媚びへつらう気はないのだが、如何せんここを追い出されたら行き場がない。

 拾ってくれた恩など微塵も感じてなどいない──多少感じてはいるのだが、せめて自分の目的を達成するまでは我慢しよう、と決意するのである。


(……私の家族の、復讐を遂げてみせる……)


 そのためには、どんな扱いを受けようとも気にすることはない。目的を達成するため以外の事象など、掃いて捨てるようなものだ。

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