第8話 突然の喪失
十年前。しんしんと雪が降り積もる寒い日だった。
日の暮れ方、ルゼは森から帰ってくると、いつものようにレンメルの屋敷の扉を開けた。足と手の先がかじかんで痛かったような気がする。
「ただ……」
「ルゼ、逃げろ!!」
「え」
いつも温和なあの兄から怒声が飛んできた。お皿を割った罪をなすりつけたの、バレたのかな。それにしてもなんだか緊迫した顔をしている。
「ルゼ!!」
「……え〜どうしたの……」
数歩踏み出したのだが、ぴちゃりと浅い水たまりを踏んだような音がした。目を凝らしてよく見ると、兄の奥に何か厚みのある物体が落ちている。しかも珍しく客人が数人いるようだ。
ぼんやり佇んでいると、顔に生ぬるい液体が飛んできた。頬に飛んできた液体を指先で拭い、眼前の光景から指先へゆっくりと視線を移す。
「──え」
そこでようやく脳みそが動いた。血だらけの床、血だるまで転がる父、目の前で剣に貫かれる兄、顔に滴る生温い血。
ルゼの幸せな思い出はそこで終わりを告げたのである。
ルゼを守るようにして立つ兄は、見知らぬ男の剣によって左胸を貫かれていた。
ルゼは目の前で何が起きているのか分からず、ただ何かに殴られたように脳みそが痺れていた。逃げなきゃ、助けなきゃ、とは思うものの、足は石のように固く、思うように動かない。
兄は致命傷であるはずなのに、それでもルゼを背に3人の見知らぬ男達と接戦を繰り広げていた。
「逃げろ!!」
「──!」
兄のその言葉に衝撃を受けたように、ルゼは振り返ると一心に走り出した。ただひたすら、道も分からないまま、一度も振り返らず走った。
逃げろ、と言われても六歳の足ではそう遠くまで行けるはずがない。しかしがむしゃらに走っただけだったのだが、ルゼが対象ではなかったのか見失ってしまったのか、男達が追ってくることはなかった。
ひたすら走った後、膝から崩れるようにして倒れ込んだ。背後を振り返り、周囲を見渡すと空を見上げる。もう日も沈んで暗くなっている。雪が雨に変わったのか、冷たい雫が激しく体に打ちつけ、ルゼの体力を余計に奪っていった。
(どこか雨のしのげるところ、人目につかないところ……)
妙に冷静だった。
何が起こっているのか、兄はどうなったのか考えるでもなく、ただ自分の命が果てないために何をすべきなのかだけが、ぼやけた思考を占領していた。
細い足を無理矢理立たせると休める場所を探して歩き回ったのだが、どこであっても誰かが追ってきているような気がして安心できなかった。そうして寝場所を探しているうちに足が動かなくなり、人通りの多い路傍で、誰かの邸宅の前で倒れてしまったのだ。
その邸宅の家主が、幸か不幸か、モーリス・ベルツだったのである。
「おや、お前は……」
行き倒れたルゼの前に一台の豪奢な馬車が止まった。小太りの男が、ゴミを見る目でルゼを見下ろしている。
「……!」
(はやくにげなきゃ……っ)
その品定めするような目つきに全身の毛が逆立ち、再び走り出そうと全身に力を込めた。しかし、ぬかるんだ土に疲れ果てた体では足がもつれてすぐに転んでしまい、数歩も歩くことはできなかった。
(……立たないと……!!)
汚い虫のようにうごめくルゼをモーリスは冷たい視線で見下ろすと、同乗していた付き人に何かを指示したようだった。
ルゼは抵抗もままならないままにその人達に捕まってしまった。
「は……放して!」
男の腕から逃れるようにじたばたと暴れ、残る限りの力で抵抗するのだが、右手を背中に回され、左手は体とともに地面に押し付けられるようにして動きを封じられてしまった。
顔を上げて馬車の中に座る男を睨みつけると、モーリスもルゼの顔を眺め、確かめるように聞いてきた。
「落ち着きなさい。お前、レンメル公の娘だろう? 私はお前の父親の友人でね、お前のこともよく聞かされておった」
「う、嘘ばっかり! 私を追ってきたんでょ!?」
地面に押し付けられながらも腹から大声を出すと、苛立ったような小さな舌打ちが聞こえてきた。
しかしモーリスは睨みつけるルゼを見やると、蔑みの視線から一変してルゼに同情の眼差しを向けた。
「はて……。お前、こんな所で行き倒れて行き場がないのではないかね。将来美しくなりそうだ、私の所で育ててやってもいい」
「!! 私は一人で……」
「ははは、お前みたいなのが一人で生きられるほどこの世は甘くはないさ。いいから乗りなさい」
「いやっ!!」
じたばたともがくのだが何の意味もなさない。
ルゼの甲高い叫び声に、はあ、とモーリスはため息をつくと馬車から降り、付き人に捕まえられたままのルゼに近づいてきた。
「……っ」
ぴしゃぴしゃと雨を踏むモーリスの靴音に、ルゼは息を飲むとびくりと身を竦める。
「そう怖がるでない。ちょうどこの指輪を手に入れたところだから、お前につけてあげよう」
「やだっ」
モーリスはルゼの手首を容赦なく掴むと、右手の薬指に銀色に鈍く光る指輪を通した。
指輪がルゼの指にぴたりとはまった瞬間、異様な脱力感がルゼの身を襲った。全身に力が入らなくなり、ちかちかと白黒の世界が交差する。
(……お兄様……)
ルゼの意識はそこで途絶えたのだった。
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