第4話 アズマミヤコはアポらない
「じゃあ、行ってらっしゃい。彼にも宜しくね」
仕事を終えてからヘリを飛ばしてくれたリノは、ミヤコを名古屋駅まで送ってから少し用があるのだと地下鉄の方へと去っていった。いつの間にか買われていた新幹線の切符と道中のおやつ、そしてリノが言う「彼」へのお土産を両手にぶら下げて国境審査を通ったミヤコは、つくづくリノには敵わない、と人知れず眉を下げて息を吐いた。
名古屋から目的地までは三十分あまり。左腕の時計をちらと見やって、もう紺色に覆われてしまった世界を眺めて。ミヤコは決して、焦ってなど居なかった。だから約束を取り付けることも、きちんとした目的を持ってそこに行くこともしない。けれど、「彼」に会うことにも自分の立場にも、少しの懸念と後ろめたさがあったのだ。数十年前、腐敗した政治を洗ったはずの革命。そこから生まれたのは新たな権力と血筋だったのだと、ミヤコは不意に考えることがある。
リノとカイは兄弟だ。そしてミヤコは生まれてから直ぐに養子に出され、リノの叔母の元で育った。苗字が違うこと、そしてプライバシー保護の観点から出自を頑なに隠しているミヤコの事実を知っている者は少ないが、ミヤコは間違いなく、いわゆる「良家」の出であった。実力で選挙を勝ち抜いたのは紛れもない事実ではあるが、生まれた時から何処かしらの国のトップになることを見越された扱いを受けていたのもまた、事実なのである。
そう、だからミヤコは養子に出されたのだ。
ニュース番組などで見慣れられているであろう見てくれを隠すために制服のスカーフを外し、黒髪を三つ編みに結い上げ、マスクを着用したミヤコの耳に次の停車駅を知らせる機械的なアナウンスが耳を掠める。それでも立ち上がることはせずに増えてゆく街明かりをぼんやりと見ていた彼女は、何かが喉の奥に引っかかっているような妙な居心地悪さを覚えた。その正体を探し出そうと目を閉じて、掠れた記憶を引っ張って、刹那。
『——弟くんは、元気かな?』
それは今まで会ったことのある誰かに、不意に問い掛けられた言葉だったと思う。しかし、新幹線がスピードを落として目的地の駅へと停まろうとしていることに気付いて、ミヤコは記憶を探ることを中断せざるを得なくなってしまった。
やがて降り立った駅の嫌な肌寒さと香を薫き込めたような独特の甘い、埃っぽい匂いに、ミヤコは眉間の皺を深くする。空気を吸うたびに喉に刺さるような乾燥感を帯びた国境審査場で、パスポートに書かれた名前を一瞥して怪訝な目をした審査官が押し黙ったまま、六葉形のスタンプを押した。
ここは京都府。東京から遥か三百六十八キロメートルも離れた異国の地だ。ミヤコはその身を人波に隠すように新型の烏丸線に乗り込んで、得体の知れないあの声を頭の中でまた、反芻した。
*
二十一時半、ミヤコは丸太町に存在するとある建物の前で、「彼」を待っていた。約束などしていないから当たり前と言えばそうだが、もう三十分近くも待ちぼうけを喰らっている。すでに冷たくなったコーヒーの缶を握れば肌寒さに拍車が掛かり、普段は晒さない白いうなじも凍えて堪らなかった。
それでもミヤコは姿勢を崩さない。背後に存在する巨大な庁舎から明かりがひとつ、またひとつと消えてそれがすっかりまばらになった頃、新町通りを駆ける車たちのタイヤがアスファルトに擦れる音や、街路樹が風に揺さぶられる音、決してささやかなんてものではないそれらの中でも、掻き消えることのない足音がひとつ響いた。まるで足を踏み出すごとに柏手でも打っているのかと錯覚するほどに、その音が響くほどに丸太町の静寂は深く、しんと澄んでゆく。
ミヤコは、髪を解いた。緩く編まれていた三つ編みから黒いシリコンゴムを外し、風に委ねるように本来の姿を露わにした。そうして乾いた大気にシャンプーの匂いがふわりと香った頃、「彼」の足音は地下鉄の駅へと向かうべく右折する。黒い学ランの足元はよく手入れの行き届いたローファーで、華奢な体格らしい「彼」の育ちの良さをよく表していた。傍を通り抜けたトラックのライトが、世界を照らす。白い肌に、深みのある黒髪。穏やかそうに見える垂れ目を両親譲りの真っ直ぐな睫毛で彩った彼は、道端で正面を睨むように佇むミヤコの姿を見て、その特徴的な、いやほど規則正しい足音を立ち止まらせた。
「——ミヤコ?」
その声音に刺はない。けれど滑らかな発音のあとにある種の警戒のような、怪訝に思っているんだ、と言いたげな沈黙が確かに首を擡げていた。彼はミヤコに駆け寄ることも、その場から逃げ出すこともせずにただ立ち止まっている。ミヤコは名前を呼ばれてから数秒を置いて漸くゆらりと視線を持ち上げ、なんでもない風を装って薄く笑いながら、それでもその場から動かない。それがミヤコと彼の、正常な距離感だった。
「久しぶりだね」
ミヤコの黒い瞳が、真っ直ぐに彼を見る。育ってきた環境が違う、性別も違う、背丈だって勿論違うし、吊り目がちなミヤコと垂れ目のその青年に、一見だけで共通点を見出すのは困難だ。
「キョウ」
けれど、よく似ていた。黒髪と、真っ直ぐで長い睫毛と、爪の形が似ていた。見れば見るほど、鼻の形も薄い唇も似ていた。ミヤコはすっかり冷え切った缶コーヒーの最後の一滴を飲み干してから、キョウとの間の三メートルを崩さずに目をゆっくりと細めて、西野京(ニシノ キョウ)、——昨年、ミヤコが都知事に就任してからたった一週間後、京都府知事として「選ばれた」彼に笑いかける。
「お疲れ。飯行こうよ」
「あのなあ、——来るんなら来るって言ってくれはったらええのに。」
「来たいと思って来るような場所じゃないっしょ」
「そんなん言うても、こんな時間からやと何処のお店もせわしいやろから。毎回、大してお構いもおもてなしも出来んでほんま申し訳ないし……折角遠いところから来てくれはるんやから、出町でも先斗町でも、ええトコでゆっくりしたいなあって、ぼくは思ってるんよ?」
優美な京言葉のひびきを、ミヤコは聴き慣れていた。キョウはミヤコがいつもするように、約束なしで訪問されることをいたく嫌がるのだ。暗に突然の訪問を批判されていることを読み取っても、ミヤコはどこ吹く風であくびを漏らしている。
「長えんだよなあ、相変わらず。はっきり言わないとあたし、いつまでも知らんぷりするからね。って、これまで何回も言ったよ。んじゃ、ラーメン行こ、ラーメン」
返答を聞かずに歩き出すミヤコ、——嘘偽りなく血の繋がった双子の姉である彼女の背中を見て、キョウはどこか冷たい色を孕んだ瞳でその背中を見つめている。
「ほんま、……いつでも自由で、羨ましい限りやわ」
また地下鉄で京都駅まで引き返し、近鉄線に揺られて南に数駅。四条河原町の華やかな喧騒とも、御所あたりの静謐な空気とも縁遠い住宅街をふたりはひた歩いている。血のつながった姉弟とは言えどふたりが一緒に暮らしたことなどないのだから、その間に流れる空気は何処か凝り固まって気まずい。キョウの馴染みのラーメン屋に入って、にこやかに接しながらも何処か余所余所しい行儀の店主へ注文を告げてから、ふたりは二十二時を過ぎているからか人もまばらなテーブル席へ腰掛けた。
「ほんで、今回はなんで急に?」
茶色がかったプラスティックのコップに注がれた氷水で喉を癒しながら、キョウが問い掛ける。ミヤコはそんな弟の様子に一瞥もくれないままメニュー表を眺めては店主に餃子を二人前、追加注文した。
「ぼく、そんなにはらぺことちゃうねんけど」
「あ、何。欲しかった? 三個くらいならあげるよ」
「えっ、アンタひとりで食うつもりか」
「すいません、唐揚げも一皿ください! ゆっくりで良いんで!」
「……よう食わはるわ、あいかわらず」
ようやく満足したらしいミヤコは、ずっと鞄に仕舞ったままだった重い紙袋をキョウに手渡してそっと目を細め、口元に人差し指を当てがう。キョウは実の姉の突飛な行動に一瞬、目を見開いてびくりと震えながらも得体の知れない「それ」を受け取り、小さめの岩ほどの重さはあるそれを手に、すこしだけ怯えた様子で上目にミヤコの表情を読み解こうと眉を潜めた。
「例のブツだよ」
「例の、って……」
状況を読み解こうと必死になっている様子のキョウを見て一瞬、面白げに喉を鳴らしそうになったミヤコが、それでも真顔を保ったまま視線で頷く。キョウは周りに人の目がないことを確認してから、恐る恐る白い指先を紙袋の縁へと掛けた。
「——え、……」
その紙袋には、緩衝材に包まれたジュースの瓶がごろごろと突っ込まれていた。呆気に取られたキョウがその中身を改めれば、【長野県産100%りんごジュース】と【山梨県産100%白桃ジュース】が三本ずつ。そしてひとつだけ他より少し小ぶりの瓶。それを手に取って、キョウは思わず吹き出した。リノとカイが仲良さげに遊んでいる幼少期の写真がパッケージに使われた、林檎と桃のブレンドジュース。カイが山梨県知事に就任した記念に作られたらしいそれは、「例のブツ」などと言う物騒な響きとはかけ離れた朗らかな雰囲気を孕んで黄金色に揺れている。
「ジュース、七本までなら税関に引っかからないらしいから……」
引き続き声を潜めて告げるミヤコに、キョウは脱力してため息を吐いてから力なく笑った。京都の近場であれば和歌山や、少し遠い岡山などでは果物の栽培が盛んだが、寒い地域で栽培されるほどは量が多く採れない。長野や山梨で生産されたジュースは、関西では充分、高級品なのだ。そしてキョウがフルーツジュースを好むことを、ミヤコやリノはよく知っていた。
「なんやあ、もう……おおきに、ありがとうございます。」
「リノ兄からキョウにって。あとこれもあげるよ」
次いで手羽先味のポテトスナックの小袋をひとつ手渡されれば、キョウは漸く納得が行ったように息を落ち着けた。どうやら全ての道筋が見えてきたらしいキョウは、コミカルな色の小袋を突き返すことも面倒なのかそれを黙って学生鞄へと仕舞っている。
「長野で調印式のあと、温泉入ってのんびりして、気まぐれでリノさんに名古屋まで連れてって貰って、そんでついでやからってそこから三十分のウチに来はったと。そう言うことで宜しいか?」
「宜しい。」
運ばれてきた大盛りのラーメンを前に、ミヤコはぎらぎらと瞳をひからせて手を合わせている。
巷の弟たちは姉に頭が上がらないとはよく聞く風潮ではあるが、キョウの場合はすこし勝手が違った。解らないのだ。理解が出来ないからその真理を探っている途中、みるみるうちに流されて、こうやってラーメンだのパフェだのを食べに連れられてしまうのだ。
この林檎を割ったような性格の姉は何でも思ったことを口に出すように見えて、何を考えているのか全く解らない。行動原理が理解できずに、気づけばその気まぐれの嵐に周りを巻き込んでは旋風のように去ってゆく。行動で示すと言えば良くも聞こえるが、相手のペースなど気にしない素振りで生きているミヤコのことが、キョウはやはり、少し苦手であった。自分のように少しでも言葉に滲ませて察させる優しさがあれば良いのにと、美味しそうにチャーシューを頬張るミヤコを前にキョウはまたため息を吐く。
「んっぐ……、うま……さすがラーメン大国、良いねえ、いつでも食えれば良いのに」
「そちらさんにも美味しいラーメン屋さん、ようさんありますやろ」
鶏ガラベースのスープを一口啜れば、仕事の緊張が一気に解けてゆく。少し遅れてテーブルへ運ばれた餃子と唐揚げを次々と口に放り込んではおいしそうに頰を緩めているミヤコを前に、キョウも今はこの幸福な一杯に集中することにした。すこし前の流行歌を奏でるラジオと、洗い場で食器同士が打つかる衝突音と、ふたりが箸を進める音。穏やかとは言い難いが淡々と続く食事の時間、キョウが粗方の中華麺を食べ終わったあたりでミヤコが不意に、小皿に餃子をふたつと唐揚げをひとつ取り分けてキョウへと差し出す。
「しょうがないからあげるよ」
「……へ?」
「本当は食べたいのかなあって、だって男子高校生でしょ? もっと食えるべ。お姉ちゃんの優しさでーす」
口端に唐揚げの衣の破片をつけたまま小声で囁いてはニヤリと笑うミヤコを前に、キョウは口をへの字に曲げてからスープを一口啜った。誰も見ていない、聞いていないから良いものの、キョウとミヤコが実の姉弟であることはこの国のトップシークレットだ。自分にとってもバレてはいけない重要なひみつである筈なのに、ミヤコはそれさえキョウをからかう材料としか見ていないらしい。半ば強制的に渡された、すこし冷えた餃子を頬張ったキョウはまたミヤコのペースに流されたことに気がついて、凝り固まった肩を落とす。
「お客さんの前でそんなにバカスカ食べるのはって、思ってたんよ、——」
二十二時半を告げるラジオの声を一度は聞き流して、なんだか嫌な予感がしたキョウはマイペースにラーメンを食べ進めているらしいミヤコに視線をやる。ミヤコは最後の餃子をひとくちで口内へと招き入れ、物惜しそうに噛み砕いてからゆっくりと嚥下した。
「……ミヤコ、今日、どこに泊まるん? もう終電ないけど」
「あ? ……はは」
タイミングよく自分の皿の上のものを全て食べ終えたミヤコはキョウの問いかけに片眉を下げ、乾いた笑みで一蹴してから氷水さえも綺麗に飲み干し、おしぼりで汚れた口端を拭っている。
やがて普段通りの表情を取り戻したミヤコは、涼しい目元を細めて唇を笑わせ、頬杖をついたまま脈絡もなく右手でピースサインを作り、揺らした。
「キョウの家」
「無理!」
即座に断ったキョウを一瞥して唇を尖らせたミヤコは、まるでその一言が耳に届いていないような様子でスマートフォンを弄りがてら続ける。
「途中にコンビニとかある? 下着だけ買いたいな」
「……あのう、ミヤコさん? 聞いてはる?」
「なんかシュークリーム食べたいしなあ、どっちにしろ寄るか。なかったら洗ってドライヤーで乾かして……」
「頼むからどっかに宿取ってや……」
「なんで? あっ、彼女とか遊びに来るの? 早く言ってよ〜」
「んなワケあるかい!」
「なら良いじゃん。……久々の姉弟水入らずってことでさ、色々と積もる話もあることですし」
自分勝手に言い放っては勝手に勘定を済ませてしまったミヤコを見て、キョウはやはりミヤコには敵わないのだ、と開き直ることにした。
吹き抜ける突風に逆らって前髪を崩し、木の葉で頰を傷つけられるよりは、それが去るまでじっと笑顔で身を任せた方が安全なのだ。キョウはそんな妙なところで柔らかく、頭が良かった。
アズマミヤコは走らない!! 蒼井 港 @aoi_minato0130
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