第3話 アズマミヤコは焦らない

「はい、ありがとう。これで待ちに待った協定締結だね、すごく嬉しいよ。」


月曜日の午後五時、ミヤコは長野県庁に居た。

古い学校のようなつくりの庁舎の中にある、温かな木製のインテリアが印象的な知事室。ミヤコが座っているソファと向かい合って腰掛けた長野県知事の高原 林野(タカハラ リノ)が、嬉しげに笑っている。ミヤコがここに来て数十分、リノの黒縁眼鏡の奥の瞳は、一度も刺を含むことなく緩んでいた。午後ということもあって濡れ羽色の髪はすこし乱れて肌を彩っているが、真面目で柔和な人柄はすこしも損なわれていない。

ミヤコとリノとは、古く長い付き合いであった。生まれて早々に養子に出されたミヤコは東京に住む林野の叔母に引き取られ、夏は毎年、本家のある長野に遊びに行っていた。義理ではあるが従兄弟のリノはひと回り年下のミヤコを溺愛し、彼が二十八になった今でも可愛がって止まない。その結果、マスコミやパパラッチに追われて度々密会の写真が報道されるようだが、本人達は大して相手にもせずバーベキューや雪遊びなどに興じている。


「それにしても、良かったのかい? 北関東や東海と先に、という意見もあったようだけれど」


特産品のリンゴジュースを飲み干したミヤコを愛おしそうに見つめては瞳を蕩けさせ、すかさずたっぷりとお代わりを注いだリノが問い掛ける。ミヤコは濃度の高い果汁を紙製のストローで美味しそうに吸い込みながら、無造作に脚を組む。伏せ目になったリノが執事のような仕草でその膝にブランケットをかけるものだから、ミヤコは流石にうざったそうに唇を尖らせた。


「東海は無理でしょ、まず愛知がどことも繋がってないんだもん。北関東はね、埼玉主導で仲良くやってるみたいだし、まあうちらも険悪ってわけじゃ無いから、——おっ、ちびが来た。」


ミヤコが向けた視線の先、かなり急いで来たのだろう肩を上下させた小柄な少年が入室した。黒い学ランの下にパーカーを着込んですこしやんちゃな雰囲気を持つ彼こそが、山梨県知事の高原 甲斐(タカハラ カイ)である。


「カイ、おかえり」

「家じゃねえんだから! 遅れた、ごめん。ちょっと学校で足止め食らってさ」


学生らしい薄い生地のリュックサックを下ろしたカイは、ミヤコの隣に腰掛けてようやく息を吐いた。リノはもうひとつのグラスにジュースを注いで彼に差し出しながら、たいそう機嫌良さげに鼻歌などうたっている。リノはミヤコ同様、カイのこともいたく可愛がっているのだ。

何を隠そう、リノは長野の本家で、カイは山梨の分家で育てられたらしいが、彼らは正真正銘、血の繋がった兄弟である。

先の革命で戦火を逃れた甲信両県は形式的な独立の後も友好的な関係を築き、現在の南関東より十年ほど早く例の協定を結んでいた。地元の権力者の血筋を引くリノが県知事に就任した五年前、それなりの批判もあったものの彼の有能さと温和さを慕う人間も多く、今となっては有耶無耶だ。つい三ヶ月ほど前に高校一年生のカイが山梨県知事に成り上がってからというもの、他国からその件をむし返されることはあれど彼ら兄弟は県ごと仲良くやっているらしい。

カイはリュックサックの中からペンケースを取り出し、ボールペンや修正液などの汚れで色あせたそれからは不釣り合いにも思える美しい万年筆を取り出した。鶯色のそれは就任時にリノから贈られたものらしく、カイが手慣れない仕草で書面にサインを施す様を、ミヤコはどこか生温かい目で見守っている。


「じゃ、これにて協定締結ということで。」

「長かったなあ、これで三国峠の審査なしで東京まで遊びに行ける! 面倒だったんだよなあアレ」

「どんどんうちで金使って経済活性化させてよ。東京の果物が異様に高価なのも、まあそのうち緩和されるだろうしよかった。」


署名と捺印が終わったそれを嬉しげに眺めていたリノが、何か思い出したようにふとデスクに腰掛けてスマートフォンを手に取る。ミヤコやカイが怪訝な目をするのも構わず、その手は画面上を滑って十桁の番号をタップした。


「蕎麦でいいよね?」

「えっ、あたしは帰るよ」

「まあ、そう言わずに。——ちょっと、ふたりにお話がね。」


リノの背後には、景色を大きな額縁で切り取ったような窓。秋も深くなってきたのだろう、長方形の中で染まりゆく紅葉に似合う冷涼な口元が、いつもの柔らかさとは違った意味ありげに微笑むのを、ミヤコもカイも見逃すわけがなかった。



「じゃあ、本日の協定締結を祝しまして。乾杯」


リノの音頭に合わせて、グラスがぶつかる涼しい音が響く。

長野市の中心部からはすこし離れた老舗の蕎麦懐石、その個室に三人は居た。上質な木材を柄まで生かしたテーブルに、橙色の間接照明。いくら知事の名前を持っていたとしてもミヤコやカイは高校生だ。この場の堅苦しさと上質さが居心地悪いのだろう、どこか落ち着かない様子でジュースを煽っている。

本来なら十名ほどは優に入れそうな個室をわざわざ予約したのだから、リノには何らかの重要な目的があるのだろう、と、ミヤコはいまだに不機嫌そうな顔を崩さないまま、突き出しで出された卵豆腐を幸せそうに味蕾の上で溶かすリノを睨んでいる。


「美味しいよ、これ。ミヤコとカイも食べなさい」

「あのさあ、先に話してよ。どぉーせ飯が不味くなるような内容なんだろうから!」

「そうだよ、こんなコースまで予約してさ。そんなに長い話なのか?」

「いや、そんなに複雑な話でも無いけれどね。——ああ、ありがとうございます。」


リノは平然と答えながら、なす田楽を人数分運んできた女中に頭を下げている。かしこまった様子の彼女がきちんと個室の襖を閉め切ってから、リノは頬杖を付いて苛々としているミヤコを一瞥して、頰を緩ませた。


「膨れててもミヤコやカイは可愛いけど。まあ、——すこしだけ、心配なことが。……ちいちゃんが最近、すこし変な動きをしているみたいなんだ。」

「ちい?」


その名前を聞いた途端、カイは眉間の皺を深く寄せて息を詰めた。リノは呑気なのか冷静なのか、まだ温かな茄子を箸で切り分けて口に運んでは美味しいなどと宣っている。ミヤコは紫蘇ジュースをひとくち煽ってから面倒そうに眉を下げて息を吐いては、斜め上に視線を走らせて只管に頭脳を回しつつ問いかけた。


「何してんだよ、ちいちゃんが」

「向こうに働きに行ってる子から聞いたのだけれど、どうやら、西の方から盛んに【お菓子】を輸入しているらしいね。」

「……絶ッ対にお菓子じゃないじゃん、それ」

「そう、ただ他国の人間が勝手にコンテナを開けて中身を確かめるわけにもいかないだろ? 何となく連絡してみたらさ、グミにハマっとうけんね〜、とかなんとか濁されたよ」


重さや粘着の一つもない、軽妙で愛らしく、しかしそこはかとなく胡散臭い声がミヤコの頭の中に蘇る。リノがちいちゃん、と呼ぶその人は現役の福岡県知事、筑紫千博(ツクシ チヒロ)のことであった。

リノと同い年で家同士の親交のあるその人は、すらりとした長身と優しげな雰囲気を持ち、それに加えて頭脳明晰で爽やかで、おまけにどこぞの俳優並みの顔の良さを持つという、福岡県のみならず全国にファンの居る知事である。彼が九州全体で平和的な自由協定を結んでからというもの、その政治手腕への信頼も鰻登りだ。


「——ロクでもないこと考えてそうだな」


卵豆腐をひとくちで、大振りのなす田楽を二口で食べて嚥下したカイがぼやけば、ミヤコもリノも頷く。一見、何も欠点がないような人物であるチヒロは、近しい人間からすれば全く信用ならない人物なのだ。

心の内が読めず、いくら盛んに笑っていようが目元は冷たい。何よりミヤコは、彼のスーツに染み付いた煙草の匂いが苦手だった。


「——麻薬、な訳ないか。そうじゃないとしたら、……」


失礼します、と控えめに掛けられた声に、ミヤコの思考は止まる。丁寧に襖を開けた給仕の手元に、美味しそうな黄金色をした天ぷらがあった。その香ばしい匂いに真っ直ぐな睫毛をぱっと持ち上げたミヤコは、先ほどまでの思案などなかったことのように料理に手をつけ始め、その味に頰を緩ませる。


「あー、美味しい。さすがリノ兄のおすすめだね」

「だろう? 普段は別荘の方に来てもらうことが多いしね、これからは此処もたまには、……」

「ちょ、ちょっと! 何いきなり食べ始めてんだよお前!」


真剣な眼差しは何処へやら、好物の海老の天ぷらに真っ先に手をつけて幸せそうに頬張っているミヤコを見かねたカイが話を掘り返そうとすれば、ミヤコは次の言葉が紡がれる前にカイの艶やかな額を指で弾いて制す。


「いって!」

「まあまあ、大丈夫っしょ。そのうちなんかテキトーに考えとくわ」

「結構やばい雰囲気だっただろ、——あ」

「もーらい」


カイの皿に盛られた海老の天ぷらを箸先で拐ったミヤコが、カイが取り返す暇もなくそれを口の中に入れ、黄金色を美味しそうに噛み砕いて飲み込む。

美味しそうに咀嚼している表情があまりにも憎たらしかったものだから、癇癪を起こしそうになったカイの皿にリノが海老の天ぷらを寄越し、その場は取り敢えず平和的に解決されたように見えた。

——しかし三秒後、ミヤコが自分の皿から舞茸の天ぷらを摘んで、リノに渡したのだ。リノは眼鏡の奥の目を見開いて一寸、瞳に薄らと涙さえ浮かばせながら笑ったが、ミヤコは知らん振りを決め込んでいる。


「ミヤコ……優しい子に育ってくれて、お兄ちゃんは嬉しいよ」

「兄貴、海老と舞茸のトレードは相場違いすぎるって」

「相場だなんだって、いつからチビはそんなに合理的で冷たい人間になったのよ」

「そうだぞカイ! ミヤコがくれた舞茸を見てみろ! こんなに美しい舞茸があるか!」


たいそう大事そうに舞茸の天ぷらを箸で摘んで感動しているリノを、カイはもう無視することに決めたらしい。せめて他のものはミヤコに取られないようにと黙々と口に運んでいる少年を他所目に、リノは例の天ぷらを嚥下し終わって心底幸福そうな顔をしながら、県産の白ワインを煽って緊張のすっかり解けてしまったように、年下の妹弟たちを眺めている。


「二人とも、締めのお蕎麦は何にする? 何でも食べなさい」

「んー、……」


メニューを開いたきり文字列を眺めるフリをしてそれきり動きを止めてしまったミヤコを見て、ふたりがそっと息を詰める。伏せられた睫毛の先が、此処ではない何処かを視ていることは明らかだったからだ。そしてミヤコの身の上をよく知るふたりは、その「何処か」が、ここから遥か遠い場所にあることも、よく理解していた。

沈黙が続いて、数秒。リノの大きく骨張った両掌が、不意にミヤコとカイの脳天を覆って、そのままふたりの黒髪をくしゃくしゃと撫ぜる。幼い頃から慣れ切った感覚を、ふたりは拒むこともなく黙って受け止めて上目で林野を見つめた。


「ゆっくりでいいよ、焦らないで。」


ふたりは心の内を言い当てられたようでどこかバツが悪そうに俯いたが、柔らかで落ち着いた声音を聞き入れて、ようやく本当の意味でメニューを眺め始めたようだった。リノの脳裏に、チヒロがたまに浮かべる怜悧な笑みが蘇っては、すぐに紫煙に巻かれてゆく。

リノは、彼のこともまた良く知っていた。信用ならない男であることは確かだが、彼は全くの考えなしではない。リノはそれをよく理解していたし、彼には彼なりの信念があるということも分かっていた。

軈て運ばれてきたニシン蕎麦と鴨南蛮を美味しそうに頬張る年少のふたりを眺めながら、リノは本当に穏やかな気持ちになって微笑む。知事という大きな役割と責任を背負い、同年代の子供たちと比べれば遥かに大人びているとは言えど、ふたりは紛れなく高校生なのだ。青春の時間をほぼ全て政治に捧げることが良いのか悪いのか、それは本人たちにしか判断が出来ないことだけれど、リノはそれでもすこし、現役の十代知事たちのことを心配していた。


「せめて、安らぐことが出来ればねえ」


香り高い十割蕎麦を啜ってはそう呟くリノに、ミヤコとカイは怪訝な眼差しを向けている。その様子があまりに幼くあどけなかったものだから、リノはまた愛おしそうに目を細めた。

ちょうど自分が彼らと同じ年齢だったころ、「おにいちゃん」と盛んに口にしながら雛鳥のように自分の後を付いて回ったふたりの姿や、よちよちとした足取り。それを思い出したリノは、彼らが知事の椅子に座ったこともまた、必然なのではないかと少しほろ苦いような、不思議な気持ちになったのだ。



「ミヤコ、明日の学校は?」

「んー、オンラインで受けるかな」


蕎麦屋の前につけたタクシーで長野駅に向かう途中、リノはなんでもない風にミヤコへ問いかけた。すこし煤けた窓の外、まばらな街明かりがぼやけて温かな橙色にひかっている。

ミヤコは確かに、その灯りを見つめていた。しかし睫毛の先は確かに此処ではない何処かを見つめていた。だからリノはすこしも呼吸を乱さないまま、唇に笑みを浮かべる。あの頃から随分と成長はしたけれど、従姉妹の癖は変わらない。彼女の心がここに無いことをすこしだけ寂しくは思えど、それを自分だけが把握できている。ちょっとした独占欲が満たされるこの瞬間が、リノは密かに好きだった。


「明後日は都民の日で休みだろう? なら、送っていこうか?」


なんの脈絡もなく、林野は言う。ミヤコは伏せていた睫毛を少しだけ持ち上げて、全てを見透かされているような心地にとびきり困ったように眉を下げた。


「何処に。」

「実家だよ。」

「……ははっ、あたしに、実家なんて、——」

「私の実家なんだから、ミヤコにとっても実家だろう?」

「…………。」


満腹になったからかタクシーの中で寝落ちてしまったカイが、穏やかな寝息を立てている。リノは不意に、運転手に物腰低く目的地の変更を申し出た。行き先は三人が居慣れたあの日本家屋で、ミヤコは形だけは不貞腐れたように窓の外を向いたまま、また街明かりをぼんやりと眺め始めた。


「今日は温泉にでも浸かってゆっくりしなさい。明日、授業を受け終わったら待っていて。十七時半には迎えに行くから。——名古屋あたりまでで良いかな?」


うざったそうに唇を尖らせていたミヤコは、ついにその声音に絆され、からだじゅうの緊張を解いたように脱力した。全く、林野にはいつまで経っても敵わないらしいのだ。だからミヤコは、もう一切を考えることをやめた。今だけはこの長兄の温かく大きな掌に守られて、安心し切って眠っても許される気がした。


「明日の朝、……卵かけご飯がいいな、……」

「もちろん。ミヤコが好きなお漬物もつけようね。」

「うん、……」


数秒あとに、規則ただしい寝息がひとつ増えた。こどものままの寝顔を晒すミヤコとカイの顔を眺めて、林野はもう一度、その掌でふたりの頭を撫でて笑った。

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