ウサギと亀のスタートライン
野守
第1話
「良い天気ですね」
隣のアイツが言った。苔みたいな緑の甲羅、そこからにょきっと伸びた首、案外太い四本の足。俺の知り合いであり本日の敵、亀である。
「そうだな」
俺も空を見上げて答える。適度に浮かんだ柔らかそうな雲、ちょっと強めの日差し、毛皮を撫でる程度の心地良い風。色々なものが丁度よい、こんな日こそ良い天気だと思う。
俺は長い二本の耳を様々な角度に倒して、周囲の喧騒を緩和できるポジションを探した。結果、無駄だった。ちっ、ロップイヤーが羨ましいぜ。
「こんな日は静かな木陰でも見つけて、のんびり昼寝をするのが最高の贅沢だ」
「良いですねぇ。ウサギさんもそう思いますか」
亀が目をしばしばさせながら答えた。こいつの瞬きを見ていると、どうにも眠くなってくる。
俺は再び空を仰いで言った。
「もしもし、亀さんよ」
「何ですか、ウサギさん」
「どうして俺たち、今から走ることになってんの」
「どうしてですかね」
二人してわざと見ないようにしている、数歩前の白いスタートライン。出走を待っている俺たちは、その手前でさっきから現実逃避に勤しんでいた。
「正直さ、俺もう、今すぐダッシュで家帰って寝たいわ」
「僕は何も考えず、その辺の湖に浮かんでボケっとしたいです」
スタート合図役の猫が手旗を持ってポジションにやって来た。
「あれ、猫さん。もう始まります?」
「いや。まだかかりそうっすよ」
のほほんとした俺たちの周囲は、かなり騒がしいことになっていた。沿道に詰めかけた群衆たち、その中を飛び回って賭けに誘うキツネたち、その混乱を治めようと努力する警察犬たち、実況の準備に大わらわのカラスたち。まだまだ本番が始まりそうにない。
「あそこの屋台、美味そうだな。串焼肉」
「いつの間にか祭りになってますね」
「みんな娯楽に飢えてんだな」
だからこんな事態になったのだろう。やれやれ。
始まりは子供の喧嘩だった。俊足自慢のウサギの子が、近所に住む亀の子を馬鹿にしたのだという。
「お前って、世界一足が遅いんじゃね?」
「僕はまだ本気出してないんだ!」
「ふうん。じゃ、競争してみようぜ」
「い、いいけど。……不公平じゃないか。君の方が年上なんだし」
「学年ひとつ違うだけじゃん」
「子供の一年差はすごく大きいって、母さんが言ってたもん」
売り言葉に買い言葉。そこに親同士が首を突っ込んだものだから、どんどん深みにはまって行った。話が迷走した結果、「両者の家から代表者を出して勝負しよう」などという結論に至ってしまう。
それを聞いていたキツネの親子が話に飛びついた。
「両者のプライドをかけた戦い、こうなったら盛大にやりましょう! どうぞ我が家にお任せを!」
止める間もなく、キツネの一家は村ぐるみのイベントとして煽ってしまった。商売家業の恐ろしさであろうか。
さて、発端となった大人たちは焦った。ここまで大騒ぎされて後には引けない、しかしウサギと亀の徒競走という茶番を本気でやりたい者などいない。その結果、ウサギの家ではフリーターの俺が「どうせ暇でしょ。地域貢献くらいしなさい」の一言で生贄に出された。亀の方はくじ引きで負けたらしい。ご愁傷様。
日向でモゾモゾと丸まりはじめた猫を見ながら言った。
「まあ、ここまで来たら仕方ないじゃん。普通に走って普通に終われば」
「やっぱりウサギさんが早かったね、以上。ってオチで?」
「だろうな」
亀が微妙な唸り声を出す。
「まあ、いいんですけど。エンタメ性無さすぎじゃないかと」
「何を気にしてんだよ」
「だって、この何もなさすぎる村に降って湧いたイベントですよ?」
日頃の退屈が爆発した結果がこの謎祭りだ。
「君ってお人好しなんだな」
「ほら、アリクイの婆さんが孫連れて来ちゃってますよ。いつも出不精なのに」
「マジか」
あの婆さん、数か月ぶりに見た気がする。生きてたんだ。
「アナグマの奥さんなんて、引きこもりの息子が三か月ぶりに自分から外に出たって
泣いて喜んじゃって」
やめてくれ。重すぎるわ。
「吟遊詩鳥のコマドリさん、この一部始終を歌にするんだって意気込んでましたっ
け」
何で創作スイッチ入っちゃうかなぁ。
タヌキの村長がブツブツ言いながら、猫の向こうを通り過ぎた。眠り猫の耳だけがそちらを向く。
「村長、ずっとスピーチの練習してんな」
「前から村おこしに頭抱えてましたからね。キツネ商会に何度も相談して、経済活性化しようとしてたらしいですから」
「絶好のチャンスなんだろうな」
手元の小さな紙を見ているせいで、地面の穴に落ちかけて救助されている。心底どうでもいいや。
「お前も災難だよな。くじ引きで負けたんだって?」
「あはは、本当にびっくりですよ。一族郎党で引いたのに僕だなんて」
まあ、運の要素は仕方ないよな。
「割り箸の先に赤色を塗って、それを引いた人が当たりっていう方式だったんですけど。全員が引いた後、最初に確認した僕のがいきなり当たりで。参っちゃうなぁ」
ちょっと嫌な予感がした。
「それさ、他の奴らの割り箸は見たか?」
「いいえ? もう当たりが出たから良いよねって、速攻で回収されました」
「うん。そっか」
こいつも生贄にされたクチかもしれない。
風と共に、変な沈黙が流れた。
「ウサギさん。どうして僕、くじ引きの詳細なんて話したと思います?」
「どうして、って聞いた方が良いか?」
「いえ。伝わってる気がするので結構です」
ヤバい、涙が出てきそうだ。
「君って本当にお人好しなんだな」
「あはははは。あはははは。はぁ」
頭上をカラスが鳴きながら飛んで行く。のどかな村だなぁ。
俺の甥っ子が紙コップを二つ持ってやってきた。
「おじさん、亀さん、差し入れだよ。待ってる間にジュースどうぞって、キツネさんから」
「サンキュー」
ちなみにこいつが元凶の片割れ、例のウサギの子である。俺と亀がジュースを受け取ったあとも、何やらモゾモゾしながら、その場にとどまっている。
「何だよ」
「あのさ。ごめんね」
子供なりに気にしてはいるらしい。思ったより殊勝な心掛けじゃないか。
「反省してんなら良いさ」
「そうですよ。ごめんなさいが言える子は良い子です」
亀が目を細めている。
「喧嘩相手にはごめんなさい言ったか?」
「言ったよ。ボクだって本気じゃなかったんだ」
まあ、そういうこともあるよな。
「喧嘩の前、実はクラスのキツネくんと話しててさ。亀くんって本当は足が速いのに、遅いふりしてるらしいって噂があるんだって教えてくれて、気になっちゃったんだよ。そしたらキツネくんが『ちょっと怒らせて勝負してみたら』って言ったもんだから」
出来心で実践しちゃったのか。
「キツネくんも反省してたみたいだよ。喧嘩の途中で大人を呼びに行ってくれたもん」
「そのせいで大事になった感じはあるけどな」
「それでキツネくんのお父さんがね。『両者のプライドをかけた戦い、こうなったら盛大にやりましょう! 元はと言えば我が息子の責任。せめてものお詫びに、全ての運営・設営・準備はどうぞウチにお任せを!』って」
ああ、全体ではそういうセリフだったのか。大雑把にしか聞いてなかったわ。
「じゃあ、頑張ってね。亀くんと一緒に応援してるから」
甥っ子はスッキリした顔で去って行き、薄っすらと全体像が見えてしまった大人が取り残された。
紙コップのジュースは、なかなか減らなかった。
「もしもし、亀さんよ」
「何ですか、ウサギさん」
「ちょっと時系列を確認したいんだが、良いだろうか」
「どうぞ」
お互い顔は見なかった。
「一、村長がキツネに村おこしの相談をする。二、キツネの息子が噂話をする。三、子供の喧嘩。四、大人の喧嘩。五、今日の謎祭り」
「合ってますね」
キツネの子は喧嘩の盛り上がりを慎重に見極めてから、ベストのタイミングで大人を連れてきたことだろう。見事に自分の仕事をこなしたわけだ。末恐ろしいな。
「全ては村長の陰謀だと思うか? キツネの商魂だと思うか?」
「どっちもじゃないですか」
どちらともなくジュースの残りを一気飲みする。ビールの煽り方だった。
空になった紙コップを亀の子が回収してくれる。隣の哀れな亀のイトコなのだそうだが、何だかもう、全てがどうでも良くなっていた。
ここに来て白状すると、実は俺にもちょっとした事情がないわけでもない。
「俺さ、キツネに持ち掛けられてんだよね。俺(ウサギ)が負けたら利益分の三割くれんだと」
「へぇ。オッズ何倍でしょうね」
「あれ、怒らないんだ」
「そもそもが茶番でしょ、これ。どうやったら僕が勝てるんですか」
「うん。悪いけど否定できないや、ごめん」
しばらく双方、黙って空を仰いだ。
「で、どうするよ。どっちが勝つことにする?」
「どうするって言われても」
「ほら、早く決めないと。ずっと猫さんが聞こえないふりしてくれてんだろ」
居眠りを装う耳がピクっと動く。
「あ、すみません猫さん。気を遣わせて」
「な、何の話っすか」
喋っちゃったよ。さすが猫、狸寝入りはできないんだな。
「おい、やめとけ。墓場まで背負わせる案件になるかもしれないぞ」
「たかがマラソンですよ」
「だから困ってんだろ」
小さく舌打ちが聞こえた。どんどん亀がやさぐれてきた気がする。
「そもそもこれ、皆『レースの結果』を予想してないじゃないですか。この『芝居』
の結末を予想して賭けるわけで」
「もう言うな、悲しくなる」
「すみません」
こいつも内心イラついてんだな。なんか俺の方は眠くなってきたし。
準備がようやく整ったのか、伝令役の雀が猫に何か伝えにやって来た。俺は大きく伸びをして、ついでに大あくびをしてから亀に言う。
「ああ、なんかもう面倒になってきたわ。俺、途中で昼寝するから」
「何をおっしゃる、ウサギさん!」
「よく考えたら、村のためにタダ働きとかやってらんないし。キツネに三割分もらって、居酒屋で一晩豪遊してやる」
亀が何とも言えない顔をした。
「お前も付き合え」
「……いいですね」
「猫さんも参加で」
「良いんすか!」
スタートラインに向かいながら、亀がぼそっと言った。
「実はウサギさんが一番、お人好しなんじゃないですか」
何も言わずに俺もスタートラインに立つ。
*****
そしてウサギは前半で圧勝を錯覚させたのち、木陰で昼寝をし、歴史的な大敗を喫するという「仕事」を見事にやり遂げた。ウサギと亀と猫はこれ以降、飲み友達になったという。ちょっとした喧嘩は仲を深めるという教訓として語り草になっている。
後日、この伝説的なレースの感想を求められた猫は、神妙な顔で一言だけ語ったということだ。
「スタート前の彼らが一番ドラマチックだったっす」
ウサギと亀のスタートライン 野守 @nomorino
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