その人との春の思い出はない。夏、秋、冬の想い出も一つずつしかない。もしかしたら、その他にもいろいろと思い出があるのかもしれないが、思い出せない。存在しないという可能性もある。本当のところはわからない。

 成人した私は今、会社の花見の場所取りのため、早朝から桜の下、ビニールシートを敷いて、座っている。

 入社して三年が経った。まだ後輩はいない。入って来てもすぐに辞めてしまう。だから、この役目も入社していらいずっと私がしている。

「三年目だから、俺らが来るまでなら酒飲んでていいぞ」

 昨日の夜、豚のゾンビみたいな顔を上司が笑いながら言った。そいつに押し付けられた残業を目の前に、満面の作り笑顔で、「ありがとうございます」と頭を下げた。別に虚しくもない。悔しくもない。当たり前だと思っている。そう思わなければやってられない。

 私はビール缶のプルトップを引いた。舌打ちみたいな音がした。

「○○ちゃん」

 どこからか声がした。辺りを見渡しても誰もいない。

 風が吹いて、花びらが数枚舞い落ちてきた。顔を上げる。桜が満開だった。

 その先の太陽が眩しくて目を細めた。なぜだか、涙がこぼれた。


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エピローグだけの物語 藤意太 @dashimakidaikon551

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