風の鈴は夏を運ぶ
十六夜 水明
風の鈴は夏を運ぶ
中学校三年間、命を捧げてきた部活動が地区大会で呆気なく終わり、漠然とした夏休みが訪れようとしていた。
部活が終わったのにも関わらずテニスラケットを背負った
「おじさん! 本届いてる?」
商店街に入ってからは手押しで自転車を進め“早川書店”と書かれた看板を掲げている店の前で自転車を止め、店の奥に声を掛けた。店の奥からは、は~い、と返事をして四十代半ばに差し掛かった男性が出てきた。店主の早川である。
「千歳ちゃん、まだ四十代入ったばっかだよ?」
そんな軽口を叩きながら、はい、と頼んでいた本を渡してきた。
「それ通用するの三十代までじゃないの?」
ありがとうと言いながら忠告するとばつが悪そうに早川は苦笑いして見せた。
千歳は物心付いた頃から書店の常連客なのだ。いつものように店先で本を眺めていると、聞き慣れた二つの声が耳に入った。
「
「ほんとだ! 千歳先輩!」
振り向くと二週間前までは一緒に部活に明け暮れていた後輩二人がこちらに走ってくる。
「本当に千歳ちゃんは後輩に好かれてるねぇ」
「もう引退したんですけどねぇ……」
二人を嬉しそうに見つめる千歳の瞳には寂しげな色が映っているように早川には見えた。
「先輩、後輩、引退かぁ……」
自然と息をするように出てきた言葉に気付くと千歳の顔は明らかに暗くなった。そのまま家へ帰ろとしたが、そのまま商店街を自転車と共にふらふらとさ迷っていた。
今まで学校練だの自主練だの自分の時間がほぼと言うほど無かったせいで、じっくりと商店街を見て回るのは二年半ぶりといえるだろう。
小学校の頃は毎日友達と商店街の中で遊んでいた思い出があるものの、そんな楽しげな雰囲気はもう見ることが出来ない。
「寂れたなぁ」
ほとんどの店がシャッターによって閉じられている区間に入り、千歳はため息混じりに呟いた。
リーン、リ───……
「鈴?」
聞き覚えがあるが何時どこで聴いた音か思い出せないような音が千歳の頭の中に響いた。
反射的に周囲を見回すと一軒の骨董品店の軒先で一つの風鈴が風に揺れていた。見慣れた硝子製のそれではなく金属製のもののようだ。
まるで視線がそれに吸い寄せられる。
こんな所に店なんてあった記憶がないと言わんばかりに千歳が店に近づくと急に強い風が吹き、再び風鈴が音を奏でた。
リーン─────
乾ききったコンクリートに広まった砂ぼこりが一斉に風によって舞う。
反射的に目を瞑った千歳は、次の瞬間、自身の目を疑わざる得ない景色を目の当たりにした。
砂ぼこりこそ辺りに舞っているものの、そこは千歳が慣れ親しんだ商店街の中ではなかった。
「ここ、どこ?」
いくら瞬きをしても目の前の光景は変わらない。
とうに暦の上では既に大暑を過ぎたと言うのに、そんなことを感じさせない瑞々しい青葉の匂いを含んだ風が千歳に吹き付けた。サラサラと音を立てながら用水路を流れる水は澄んでいて太陽の光を反射して昼間の星のようにキラキラと煌めいた。その水が流れ込む田んぼには、まだ膝少し上までしかない稲穂の子どもが綺麗に整列し風になびいている。
千歳が現在、佇んでいるのはそんなどがつく程の田舎だと思われる農村の外れだった。
「どこまで続いてんの……?」
テニスコートを出た後から飲まず食わずでテンションは数学的にいうと負の数まで落ちていた。そんな中、ひたすらに民家を探して田んぼ道をとばとぼと歩き続ける。そろそろ水分補給がしたいと肩に掛けてあるはずのバックに手を伸ばそうとして千歳はバックが無いことに気づいた。よくよく考えれば自転車も無いのである。
マジか、と明らかに顔を歪めるも、仕方ないと諦めの表情が出る。歩くしかないかと思うも、千歳の視界は既に歪み始めていた。
ヤバ……。と思ったが最後、千歳の世界は高速で反転し始めた。
「……ッ大丈夫か!」
視界がどんどん黒で染まっていく中、美しい狐の面が目の前に飛び込んだ。悲痛な声を聞くに、それも自分と同じくらいに感じられる少女のようだった。
人だ、と安心するや否や、千歳の意識の糸はプツンと切れた。
柔らかな畳の匂いがする。
穏やかな水の流れる音とひぐらしと蛙の趣のある声、それらが奏でる美しい調べは辺りに広がっていた。
それをいい子守唄だと言わんばかりに、うっすらと開いた目蓋を再び閉じようとすると、貫禄のある女性の声と甲高い子どもの声が千歳の耳元から脳へと響いた。
「目が覚めたのね、どこか具合が悪いところはない?」
「姉ちゃん、田んぼ道で倒れてたんだよ」
大丈夫? と目を見開いて肩を揺すぶってくる40代くらいの女性と小学生と思われる少年に、私は大丈夫です、と返答すると二人はあからさまに肩を撫で下ろした。
「あの、私が倒れてたって……」
熱中症だろうな、と当たりは付けていたが女性によるとやはりそうだったらしい。
話によると、この家はここら一体の村の地主の家で二人は地主一家の人間だそうだ。
女性はやはりというべきか少年の母親であった。名を
「うちは地主一家とはいっても村の農家とはちっとも変わらないの。ただちょっと家が大きいだけ。だからほら、こんな格好なのよ」
考えていることを悟られたのか、苦笑いしながら自分の昔ながらの農作業服姿を見下ろして教えてくれた。
「ほら恭ちゃん。自分で挨拶しなさい」
「
よろしくね、と千歳も返答し話に花を咲かせていると、椿は思い出したかのように、そういえば貴方の名前は? 、と聞いてきた。そうだ、自分は倒れたところをここに連れてこられたのだ、と千歳は改めて思い出したのだ。
「私は鈴鳴 千歳と言います。自分がどうしてここにいるのかよく分からないんですけど……」
「そうだったのね。ここは
何か分からないことがあったら遠慮無く聞いてね、と言い残し椿は部屋を出ていった。
「じゃあ僕も行くね。千歳姉ちゃんのご飯、持ってくるから」
恭介が声を掛けて立ち上がろうとした時だった。
「お邪魔するよ」
聞き覚えがあるような無いような凛としたでも可愛らしい少女の声が庭に面する廊下から聞こえた。
どたどたと足音を立てているわけではないが存在感がどんどん近付いてくる事を千歳は直感で感じた。
「あれ、もう目が覚めたんだ」
おどけた調子で開け放たれた障子に手を掛けてこちらに見せた顔には狐の面が被さっていた。
「
「あ、
男勝りな喋り方とは裏腹に少女の見た目は雅やかだった。
身に纏うのは女性にしては珍しく甚平であった。どうやら藍染めの生地のようで白い蓮の花が描かれている。胴から伸びた首や手足はとても白くて美術品の白磁のように傷一つ無い。腰にまで流れる黒髪は絹糸のような艶さえはなっている。
「あなたが私を運んできてくれたの?」
自分と背格好が似ているから年も近いんだろうな、と思いながら千歳は恐る恐る二人の会話に入った。
「そうだよ。近くの川で水浴びしてたら何もない田んぼ道で、足元がおぼつかない状態で歩いてるのが見えたんだから。倒れたときは焦ったよ」
「そんで藤乃姉が血相変えて千歳姉ちゃんを運んできたんだよ」
あの時は、家中大騒ぎだったなぁ、と話しながら恭介は唸っていた。
「そうだったんだね。藤乃さん、改めてここに運んでくれてありがとう」
そういって、深々と千歳が頭を下げると、藤乃は勘弁してくれと慌て出した。
「千歳は十五だろ。同い年なんだから藤乃でいいよ」
「何で私の年をしってるの?」
「え……、えっとあれだよ、あれ服の中に学生証入ってて中三って書いてあったから」
明らかに挙動不審なのだが、一方恭介は“学生証”という馴染みのないものに興味津々だった。仕方がなく、ポケットに手を突っ込んで漁るが見当たらない。
「嘘、ないの~」
「もしかしたら失くしたかも」
ごめんねと言いながら、探し続けるがやはりというべきかポケットから学生証は出てこない。
なんとも言えない空気が辺りに広がる。
流石に気まずい、と他の話題に思いを巡らせても千歳にはネタというネタが思い付かなかった。
「あ!!」
たった一つあった。今、一番聞かなきゃいけないこと。
「どうしたの?」
「あの……藤神村って東京?」
ここに来てからどうも忘れっぽいなと思いながら、目の前でこっちを見つめている恭介に疑問を投げ掛ける。
「え?」
千歳の疑問に恭介は、何を言っているのか分からないよ、と言わんばかりに困った顔をした。流石にこんなに田舎の子でも東京くらいは分かるだろう、と思って質問したがどうやら本当に意味が分からないらしい。
「恭ちゃーん、ご飯の支度お手伝いして!」
恭介を急かす声はどうやら千歳が寝かされている隣の部屋から発せられているようだ。
「ごめんね、千歳姉ちゃん。よく分からないんだ」
そう言って申し訳なさそうに恭介は、でも、と言いながら立ち上がった。
「でもここが藤神村なのは間違いないよ」
力になれなくてごめんね、と恭介は部屋を出ていった。
「どういうこと?」
「どういうことだろうね」
暗い落胆した声を絞り出す千歳に対して、藤乃はまるで面白いものを見たと言わんばかりの明るい声を出す。
「だって椿に暫く居ていいって言われてるんだろ?」
じゃあ、お言葉に甘えなよ、と言いながら立ち上がり、私も帰る、と藤乃も部屋を出ていった。
「もう、ここはどこなの──」
頼みの綱だった藤乃も部屋から出ていき千歳は一人敷布団に身を任せることしかやることがなくなってしまった。
そんな中、千歳の寝息が聞こえるまでには時間が掛からなかった。
音を立てずに椿達一家の廊下を進む藤乃は苛立っていた。
そして、それを表に出さないように努めながら玄関へと向かう。
馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てながら
藤乃は下駄を履き玄関の外へと出た。
外は夕闇が降りて辺り一面、真っ暗闇だ。
「いつまで要らぬ事を覚えていると言うのだ」
そう呟いて、どこからか現れた白菊が描かれている提灯を片手に民家など見当たらない闇多き山へと田んぼ道を歩いていった。
あれから数日経った。
千歳自身も、ここまでこちらの暮らしに慣れてしまうとは思っても見なかった。
はじめの頃は帰り方をなんとか模索していたが、近頃は帰る方法がいつか分かるだろうと諦め始めていた。
別に帰ったところで高校への受験勉強に明け暮れる毎日が待っているだけだ。それに、クラスに友達という友人はいても気が置けないというレッテルを貼ることは出来ない。
ならばいっそ、こちらに永住してもいいかもしれない、と思い始めていもいた。
「千歳ちゃん、もう畑の手伝いはいいから川で恭ちゃん達と遊んでおいで」
全身土だらけになった椿は手ぬぐいで汗を拭っていた。
確かに川の水はさぞ冷たくて気持ちいだろう。ここら辺は、夏にしてはとても涼しいのだ。
「その前に、家で着替えてってもいいですか?」
「いいよ、いつものでしょ?」
「えぇ」
この村にはテニス帰りのユニフォーム姿の単身で迷い込んでしまった。畑仕事をするのにユニフォームのままというわけにはいかないので椿の農作業服を借りていたのだ。とはいえ、長袖長ズボンのこの姿は死にそうになるくらい暑い。ダラダラと汗が流れるのはテニスをするときではなく、サウナに入っているときを思い出させる。
だから普段、家事の手伝いをするときは藤乃が持ってきてくれたタンクトップと半ズボンで過ごしている。
「椿さん、藤乃知りませんか?」
「さぁ、多分恭ちゃん達と一緒なんじゃない?」
そんなもんですよね、と返事をし千歳は急いで家へと戻った。
川がきらきらと日の光を反射して輝いている。まるで昼間の天の川だ。
「藤乃姉! 魚がいるよ!」
少し遠くの川の中で恭介と村の子供達がガヤガヤと騒いでいる。
「よし、私が取ってやろう!」
藤乃は、相変わらず狐の面を付けており、自身が着ている甚平の袖を肩まで持ち上げて腕を川の中に突っ込んだ。
だが、離れたところで一人、川で涼んでいる千歳の方まで「ッくそ」とか「ヌメヌメしてて掴めねぇ」とか聞こえてきているということは、どうやらなかなか捕まえられてないらしい。藤乃達の方を生暖かい目で見つめていると足元で何かが動いた気がした。
驚いて、足を川から足を抜くと一匹の魚が泳いでいた。
思っていたよりも大きな魚だった。
鱗は綺麗な白で目は金色だ。綺麗だなぁ、なんて思いながら見ていると、一瞬、魚の目蓋が閉じられた。
「ッ?!」
見間違いじゃない。明らかにこの魚は瞬きをした。どこかで、瞬きをするする魚は妖怪だと聞いたことがある。
急いで藤乃達のいる方へ向かおうとすると、
「待って下さい! 他の者には言わないでください!」
と川の中から聞き慣れない奇妙な声が聞こえた。まさか、と思いながら再び千歳が川に視線を戻すと、件の魚が口をパクパクさせて声を発している。ますます、この魚が魚でないことを認めざるを得なくなってしまった。
「何か用なの?」
恐る恐る、声を掛けると魚は早口で色々なことを説明してくれた。
「私は水神様の眷属でございます。このような姿で申し訳ありません。なにぶん人型をでいるとこの神界の主にバレて、この
「どういうこと?」
「先に言いますが、ここはあなた様が生まれ育った世界ではありません……」
喋る魚によると、ここは神界といって神様によって創られた世界らしい。だから簡単には、元の世界に戻れないとか。この世界には、生身の人間が生活することを想定していないから、元の世界での記憶が少しづつ消えていくらしい。だから千歳が元の世界に執着しなくなったのは、そのせいだと魚は言った。
「一刻も早く、この世界から出て下さい。でないとあなた様はあなた様でなくなってしまいます」
「でも、どうやって出たらいいの?」
「満月の夜、禁域の奥にある鳥居を潜れば元の世界へと帰れます」
丁度、明日は満月です、と魚は言った。禁域は村の民家がある方とは逆の方向へと田んぼ道に沿って歩いていけば山に辿り着く、そこが禁域だそうだ。
「おーい! 千歳、帰るぞ!」
遠くの方から、藤乃の声が聞こえた。
「千歳様。とにかく明日の夜、私めの眷属である蛍を迎えに上がらせます。真夜中、日にちを越えたら家の外へ出てきて下さい」
「分かった、じゃあ」
「そして最後に、この村の者達は人間ではありません。お心を許させませんよう」
「……分かった」
そして千歳は恭介達と家路についた。
翌日、千歳は床に付いてやっと深く息をすることが出来た。日にちを越えるまで、あと三十分。蛍が迎えに来るまで、あと三十分。既にこちらに来たときと同様、ユニフォームに着替えている。
「はぁ──」
あの魚とであって以来、全ての人に今まで通り接しようと思ってもなかなか出来なかった。なんたって人間ではないと聞かされたのだ、普通で居られるはずがない。
うだうだと色々考えていると、時計の短針は十二を指した。使っていた布団を片付け音を立てないように玄関へと向かうと思っていた通り、ぽっと光る5匹の蛍が飛んでいた。
千歳は家に向かって「ありがとう、さようなら」と呟き、蛍達に向かって「行こうか」と声をかける。すると蛍達は心得ていたと言わんばかりに田んぼ道を進んでいく。
満月ということもあり辺りは月明かりに照らされていて千歳が知っている夜より明るかった。
「ここが禁域……」
山に入ろうとしたところで蛍達は、いなくなってしまった。どうやらこの先は千歳一人で進まなければいけないらしい。そこまで真っ暗でもないから怖いという感情は抱かなかった。どこか“懐かしい”と感じてしまう。
歩みを進めると、大きな社が目の前に現れた。月明かりに照らされていてとても神秘的に見える。そして、思いもよらぬ人物が社の中央に鎮座していた。
「藤乃……?」
なぜあなたがここに? と千歳が呟くと、藤乃は今まで頑なに外そうとしなかった狐の面を外した。
その口許は酷く歪み、顔の半分が火傷で爛れていた。
「ッ?! その顔……」
それ以上に、千歳は別のことに驚いた。藤乃の顔はとても見知っていたからだ。
「あれ、びっくりしちゃった? 自分と全く同じ顔で」
藤乃の顔は、火傷でこそあるものの間違いなく千歳と同じ顔だったのだ。
「な……なんで」
「それは私が千歳の片割れだからだよ」
そして、だから分かるんだ、と藤乃は続ける。
「だから分かるんだよ。千歳が向こうの世界でとても傷ついていたことも! この火傷は、千歳の心の傷が反映されたものなんだよ」
だから千歳をあちら側には返さない。ずっとここに居ればいいんだよ、と歪んだ笑顔で言った。
「それに、こっちに居れば全て忘れられる……」
「そんなの嫌だ!」
「え……」
突然の千歳の反論に、なんでと言わんばかりに藤乃は目を見開いている。
「中一から命がけでやってきたテニスが地区大会突破できなかったのは辛かったよ! 中々、新しいクラスにも馴染めないし、色々頑張ってるのに全く報われないし。なんのためにやってるんだろうっていつも思ってるよ」
「なら……」
「でも、そういう出来事が私を創ってるんだよ! どんなに辛いことでも、それが私の一部なんだよ! 今の私に繋がってるんだよ!」
だから忘れちゃいけないんだ! と手に力が籠る。伸びた爪が掌に食い込むが、そんなこと知ったことではない。
「私は、帰るよ。どれだけ止められても、どれだけここが居心地良くても。本当の自分を忘れなくないんだよ」
言いたいことを全て言い切り、千歳は荒い呼吸で肩を上下させる。
「……良かった」
「藤乃、顔が……」
気付いた時には、藤乃の顔の火傷はどんどんと小さくなっていっていた。
「良かったよ、千歳が思っていることを聞けて。千歳はさ、毎年夏が嫌いだったでしょ? 両親は出張で独りぼっちだし、中学に入ってからは本当に苦しそうだったから」
せめて良い思い出を作ってあげて、あわよくばずっと一緒に居たかったんだけどな、と藤乃は涙目になりながら笑った。
「もう、戻っても大丈夫だね」
「──うん」
二人で向かった朱塗りの鳥居は暗闇に浮かんでいるようにそびえ立っていた。
「いつも見てるよ」
「さよなら」
そう言って、鳥居の先の暗闇に足を踏み込むと千歳の意識は途端に切れた。
「……千歳さん」
「ふぇ?」
どこかで自分を呼ぶ声が聞こえたと思ったら、思わず間抜けな声を出してしまった。
「ここは?」
「うちの店の前に倒れていたのよ」
心配したんだからね、と言うのはなんとも優しそうな老婆だった。
「私、風鈴の音を聴いてから記憶が無くて。何か不思議な夢を見ていたはずなんですけど……」
そう言って、千歳が思い出そうとすると何故か変に頭痛がする。
「きっとそれは、あの風鈴のせいね。うちは骨董品店なんどけど、たまに奇妙な品を扱うの。丁度、あの風鈴も噂があって
きっと、あなたを呼んでいたのねと老婆は言った。
「これ貰ってくれる? このままだと廃棄になっちゃうから」
そう言って風鈴を梱包し、千歳に押し付けた。
少し休んで、老婆に見送られながら千歳は店を出た。
少し歩いてから、お名前は、と訪ねようとして振り替えると老婆も店も跡形もなく消えていた。
「あれ? これなんだろう」
手元を見ると見慣れない風鈴がある。
「……まぁ、いっか。なんたって夏休みだ──!」
考えることを放棄し、千歳は自転車のサドルに足を掛ける。
夏空の下、千歳は太陽のような笑顔で商店街を出たのだった。
千歳の夏は始まったばかりだ。
その夏は、彼女の片割れが宿った風鈴によって運ばれてきたのだ。
〖終〗
風の鈴は夏を運ぶ 十六夜 水明 @chinoki
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