耀濤錦

再生

耀濤錦

 光が波の性質を持つことは耀濤ようとう錦の模様からよく知られていた。

 七色の波線はせんが白い絹糸の流れを横切って斜めに輝く。線を構成する一つ一つの波は扇の弧の形に等しい。滑らかに蛇行する弧が銀糸を跨いで、白い絹の上を切れ目なく進む。長い波線は微妙に旋回しながら広がり、生地の白銀色を隈なく覆った。眩い光は人の目を激しく刺すことなしに、ただ好もしい色彩を滾々と目に注いだ。

 耀濤錦は日陰では輝かなかった。朝日が昇ると、竹を編んだ簾の隙間から注ぐ光を受け、白銀の錦は七つの色に輝いた、と旧い稗史記者は伝えている。

 黒い川の流れる西の内陸、往古以来反乱の中心となった平野の旧市を拠点とするある流派の手による耀濤錦は、星の光を搦め取り四方になげうつと言われ、しかし旧市の内でのみ取引された。主として窓辺に架けて光の波線の照るさまを眺める楽しみに供され、多くは宗廟や仏閣に納められたとされる。厳格な統制がその実機能していたのか疑わしいとしても、稗史記者の言を信ずるならば、

 掴み取られた光は市壁の外へ洩れず、

 錦は市中で織られその堀を出ない。

 璧緞の錦が捉える光は波であり、

 その波は市を囲う堀の水面の波でもある。

 数百年後、異邦の自然学者によって発見されたという定式に、旧市の工人は既に辿り着いていた。

 口伝てに広まった評判は見物人を引き寄せ、錦を見た者は鮮やかな色目を口々に褒め讃えた。稗史記者は種々の声を挙げて白銀の錦織の名声を示している。

 都から来た官吏は錦織を天頂の紫と称した。

 北の草原から来た商人は夜の空の紺青にこれを喩えた。

 詩人によれば錦の光のさまは江の水の碧藍に近しい。

 夷国の兵士は春の山の萌黄を引いて讃えた。

 鄙人の弁に曰く光は熟した橘橙の照り映えのようである。

 講談師に言わせれば、光の鮮やかなことは仙山の撓なる桃、望郷の花の色の紅を彷彿させる。

 便宜上七色と呼ばれた織物が事実どのように見えていたか今日こんにち定かでない。



 光の波線の技法は工人が偶然持ち来った器物を契機として始まったとされる。

 各地で錦織が隆盛した折、旧市の工人の一人が三角柱状の硝子を工房に持ち込んだ。無色で濁りも無く、ほとんど透き通っている。断面は歪みの無い正三角形で、指先から手首までお同じ程度の長さがあった。辺や角は鋭く尖っていたが、撫でても肌を切ることはなかった。

 石塊いしくれが自然に形を成した物とは思われない。では誰が、という段になると、怪神や諸天の力を想い起こさずにいるのは難しい。李、石柱を持ち込んだ工人に訊けば、市外に住む伯父が畑で掘り当てたという。透明な質感は明らかに天然自然の水晶ではなく、職人の象る硝子細工に近い。木槌で叩いても割れず、透き通った石はいよいよ怪しげな謎めいた物になる。皆怖れをなし、李がこれを抱えて工房の東にある宿坊へ引っ込み、その日は事が済んだ。

 早暁、宿坊の壁が妖しい色に染まったと工人が騒ぎだした。一番鶏と共に起き出した工人たちは、東の窓から差す光に照らされる土壁が、赤や緑、紫や黄、橙や青に塗り潰されているのを見た。天井近くに緋が蟠り、そこから紺、橙、碧緑が並び、土壁の凹凸に合わせて青銅と黄銅の斑が浮かんだ。床との境には昼の空の色が刷毛で刷いたように伸び、隅の辺りで橘の果肉の色に変わった。

 周りの騒ぎでようやく起き出した李は、右往左往する連中に蹴り飛ばされてはいないかと、枕元の石柱を掴んだ。壁の紋様がひとりでに動き出した。宿坊中に散らばっていた工人らは恐慌していっせいに飛び出し、石柱を掴んだ李も横ざまに流れていく壁の色目に目を回し、斑を半回転させて倒れ込んだ。

 李は石柱を掴み、目を伏せて起き上がった。李が動くたび壁の紋様も目眩めまぐるしく震えた。戸口から坊の中を恐る恐る覗き込む工人たちは、瑠璃色の髑髏や黄色い馬の姿の壁の流れが李の手の中の石柱の旋回に随うのを見た。



 こうして石柱の由来譚を詳らかに語る稗史記者は、日の光を劈開させる石柱の機構を絹の錦で再現するまでの労苦について明らかにしてはいない。この製法ばかりは門外不出として工房に秘匿されていたと推測される。記者は、往時まことしやかに取り沙汰された巷説のいくつかを拾い上げている。

 曰く李の伯父とは東の星の運行を司る天の官吏で、三角という象徴は東を示し、日乃ち東の星の光を見分ける術を李に降したものである。

 曰く或流派は南の諸国から密かに染色技術を取り入れ、石柱の逸話はそれを隠すための欺罔であるという。

 前者は専ら民間伝承の流れを汲む。敢えて荒唐無稽な流言を記録した記者は、歴史記述の正確さに拘束されていたと同時に、文人の志怪趣味を共有してもいたらしい。筆の示唆するところではむしろ後者を支持しているようだが、後続する文章にもしきりに怪神・異霊の業を紹介している。

 些細はともかく耀濤錦は織られた。仏閣に納められたものの一部は市を巡る山車の装飾に使われ、その煌びやかな光を市内の住人や市外からの客人へと擲ち、多くは蔵に安置されたと記す。地上の蔵に収められたものはその全てが焼失した。近年の発掘調査で地下に埋蔵されていたものが発見されたが、七色の光を振り撒かない無色の白銀の錦が旧記にある「耀濤錦」と同じものであるのか現在まで論争が続いている。



 現存する「耀濤錦」は首都の歴史博物館に展示されている。一尺四方の白銀色の錦織の材質は絹と銀糸であり、糸の織り方も伝耀濤錦の製法と等しい。しかし、日光をはじめ、白熱電灯、蛍光灯、稀瓦斯ハロゲン灯その他の照明でこれを照らしても、伝耀濤錦の特徴とされる扇形の波線は見えない。ただ銀の織り込まれた帛布の上に無色の照り返しが映るだけである。

 展示にあたり稗史上の記録に鑑みて「伝耀濤錦」とされる絹織物は、同市某寺院の僧房の裏手に土を一間余掘って埋められた黒い漆塗りの容器の中に収められていた。地上の僧房は一帯を焼いた火災により焼失し、焼け残った基礎から元の建築物の位置構造が復元されている。銀糸を織り込んだ絹の布という高価な品が房に寄宿する僧侶一人の所有物であるとは考え難く、貴重な物品を余人の目から避けるために埋められたと推定された。旧記には市内の各仏閣に耀濤錦が寄進されたとあり、列挙された名前の中にこの僧房を擁するものも含まれていた。古記録に従うかぎりこの無色の錦こそ伝耀濤錦と等しいものの、肝心の物証を欠いているかぎり疑わしいことに変わりはない。

 従前発見されてきた「耀濤錦」はいずれも保存状態が劣悪で、線はほつれ、生地は瘠せて、日の光に当てても七色の波線を呈するものではなかった。今回発見されたものは保存状態が比較的良好で、同市の観光協会からも伝説的な錦織の実証への期待が寄せられてもいたために、伝耀濤錦がなおまばゆく光らなかったという事実は関係各所で落胆の溜息を吐かせたと地元紙は伝えている。

 そもそも耀濤錦なるものは実在したのか。

 固より稗史や民間伝承にのみ伝わる物であって、後世の伝奇趣味の文人によって書き継がれた題材であるにすぎない。七色に光るという評判も、その美しさに対する過剰な形容もしくは商業上の売り文句であって、その宣伝過剰な文句が、実物の不在を盾に後世更に誇張されて、現在の耀濤錦伝説が成立したのではないのか。

 懐疑派の主張は以上のようなもので、石柱を持ち込んだ李なる工人からして、その実在を疑う声は根強い。

 ただし、稗史とはいえ、既に同時代の、同市に居住経歴のある者の記録に李工人と耀濤錦の名前が登場する。同時代に既に一連の伝説が捏造されていたのでないかぎりは幾許かの信憑性は期待されてよい。

 若き日に石柱を持ち込み一代で耀濤の錦織の技法を確立した工人の墓所について、信頼できる記録は既に散逸している。後世の記録では天の工房に召し抱えられたとも、仏閣への功徳により紫色の雲に乗って西方へ発ったとも言われる。黒い川のほとりの市中に過ごした工人はその晩年に大規模な農民反乱に直面し、稗史は彼の行く末を伝えていない。



 あたかも円を巡るように数百年の間隔を置いて反乱が勃興し、凶作による飢餓を逃れる農民は市内に迫り、市内からの迎撃を受けて屍が数多堀のおもてに浮かぶ。やがて四方の門が破られて人群れの波濤が押し寄せ、市に入った流民は穀蔵を破って生米を貪り、箪笥を漁っては金襴を燃やし、車を牽く牛馬の頭を打ち据えては皮の上に噛み付いた。市中六十六カ所で煙が上がり、商家の者は旦那から奉公人まで鋤鍬で打ち殺され、女は嬰児に至るまで嬲られた。

 救民のためと門を開いていた宗廟の道士は流民の一派の頭領と結んでこの徒党を寄宿させたところ、別の方角から流れて来た流民との抗争に巻き込まれた。紅玉の埋め込まれた銀の指環、青銅色をした金糸入りの上衣、その他全身の衣服を剥ぎ取られた挙句に、五体を端から削ぎ落される拷問にあい血と肉の塊となって死んだ。

 旧市自体が武装した僧侶の拠点として成立したため、仏閣は独自の僧兵さえ組織していたが、巌のように鍛えられた僧兵も八方から押し寄せる怒涛には堪えかねた。殺された僧兵は得物の薙刀で門柱に打ち付けられ、冬の間鳥に啄まれた骸は翌春の日射しの下に髑髏を晒した。鐘楼門の銅鐘は細かく打ち割って無数の手に持ち去られ、内陣を荘厳する天蓋は華鬘、瓔珞を尽く毟り取られた。文庫に収められた典籍は暖を取る薪の足しとして灰になった。

 錦織の工房はどうなったか。曇天の冷夏に貧しさを窮め、もはや聖邪を云々しない流民であるから、飲食に関わらない工芸は況して一顧だにしない。市内に隆盛した錦織の工房は十二あり、一つ残らず略奪の末放火されて、「口減らしが行われた」と記者は記す。機先を制して逃散した者も各流派にあったようだが、各所で同様の反乱は頻発しており、同様の動きは翌春以降平野の外にまで広がっていたから、逃げ延びた先で遭難した工人も少なくないだろう。

 この時期については正史も大まかな情勢しか伝えておらず、各所で書かれた稗史も混乱の中で。あるいは戦災のため資料が消失した中で著された。後世の各流派の系譜に関する口伝もしばしば権威付けのためのものであり必ずしも信用の置けるものではないが、一連の反乱が収束した後に勃興した諸流派の口伝に、耀濤錦を織った或流派を継いだと主張するものは確認されていない。

 各所に奉納された耀濤錦は火の中に全て焼失している。

 掴み取られた光は市壁の外へ洩れず、錦は市中で織られその堀を出なかった。ただ、同市から脱出した稗史記者の記録する巷説の中に、耀濤錦からの奔光の逸話が残されているにとどまる。

 またしても李が登場する。老いた李工人は反乱の年の春、虫干しのため耀濤錦の一反を取り出した。日の出すぐのことで、東向きの窓からは低い日が工房に差し込んでいた。日陰になる梁の間に架けられた台へ錦を留める。

 日射しがねじれ、太陽を覗き込むような眩しい光が錦織を照らした。七色の扇の弧の形の波が光の中を奔り、錦から鮮やかな輝きが失われた。李は窓辺へ駆け寄り空を見上げ、無数の鱗の一々に明け方の虹の輝きを孕んだ無角の蛇龍が、扇の弧の形にその身をくねらせ、市壁を越え東へさして飛んで行ったのを見た。

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