夏ごと消えてしまえば

碧海にあ

夏ごと消えてしまえば


「渚……」

 クーラーの効きすぎた部屋で、毛布をかぶった海くんがうわ言のように呟いた。

 まただ。

「ねえ、いい加減忘れてってば」

 私の言葉に反応はない。海くんの目は私の方を向いているけど、その視線は私を通り抜けて思い出を見ているようだった。

 海くんが付き合っていた女の子の名前。彼は未だにその名を口にすることがある。とても仲が良かったのに、突然別れてしまった。海くんはその日一日呆然としていたっけ。それから数日は納得も理解もできないでいる様子だった。

 私だって海くんがその一人をどれだけ大事にしているかは理解しているつもりだ。でもあまりに、渚、渚ってそればっかり。私、未来のこともちゃんと見てねって言ったのに。海くんはずっと囚われたままだった。

 八月になって、海くんが空っぽになっちゃうんじゃないかと思うことが度々ある。夏バテのせいなのか食欲だって一、二ヶ月前より大分減ってしまった。最近じゃこの冷たい部屋に籠もり愛用の毛布に包まって全然動かない。折角私が心配して見に来てあげてるのに。声を上げて笑うなんてことはちょっとだってない。たまにふわっと優しい顔をして、そこからぎゅっと苦しそうな表情になって膝に顔を埋めてしまう。夜になったら少しだけ嗚咽を漏らして泣く。きっと私が背中を撫でているのにだって気づいていない。

「渚……」

 海くんが名前を呼ぶ声は消えてしまいそうなほど小さい。外の暑さを主張しすぎている蝉が余計にうるさく思える。海くんはその音から逃げるように耳を塞いだ。ちょっと静かにしてよね。海くんの声が聞こえないよ。

 でも。でも、掻き消されちゃった方が都合がいいかもな、なんて思う。海くんの声が海くん自身に届かなくなったら、海くんは渚のことを忘れてしまってくれるんじゃないか。

 そうしたら海くん、前を向いて歩いていってくれるのかな。

「渚、会いたいよ」

 ごめん、ごめんね海くん。

「どうして一人で逝ったんだ」

 私が死んで一ヶ月、とうとう海くんはその日ぶりに大きな声を上げて泣いた。喉がちぎれちゃうんじゃないかと心配になる泣き方だ。辛かった。

 私も海くんを抱きしめて泣いた。

 だけど私の声も涙も腕の力も、海くんには伝わらない。どこかの物語のような奇跡は起きない。

 人の命に終りがあることはもちろん知っていた。それが無慈悲な運命であることも。だからこそのお願いだった。

『もし私が死んじゃっても、海くんは未来のことちゃんと見て歩いていってね』

 少し冗談めかしてそう言う私に海くんは渚もね、と困り顔で笑った。

 海くんは優しくて素敵な人だから。幸せになるべき人だから。だから前を向いて新しく幸せな人生を再開してほしかった。だけどそんなことは叶わないくらい、海くんは私を愛してくれていた。立場が逆だったとしても同じことが起こっていただろう。

 私には嘆くことしかできなかった。ごめんね。海くん。

「渚」

 力なく呼ぶ声は枯れて普段よりももっと掠れて小さかった。

 静かな部屋の外で、蝉が私の死んだ季節を叫び続けていた。

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