Secret

sorarion914

面影

「こんにちは」


 そう言われてワタルは視線を上げた。

 背の高い、ワイシャツ姿の男が光を背にして目の前に佇み、じっと自分を見下ろしている。

 暑い夏の盛り。

 ジワジワというセミの鳴き声と、降り注ぐ強烈な日差しで、ワタルは視線を上げた瞬間、軽いめまいを感じた。

「お父さんは帰ってきたかな?」

 そう聞かれて、ワタルは黙って首を振った。

 男は「そうか……」とため息交じりに呟くと、暑そうに額の汗を持っていたハンカチで拭った。

 ワイシャツの第一ボタンを外し、軽く腕まくりをしている。鍛えていそうな両腕と、スッキリと切った髪が野球選手のようだった。

 家の前で、所在なげに1人座っているワタルに男は再度話しかけてきた。

「その箱の中には何が入ってるの?」

 男はそう聞きながらワタルの前にしゃがみ込んだ。

 まだ6歳の幼い少年に視線を合わせるように、男がそう言って箱を指差す。

 贈答の用のお菓子の空き箱を、いつも大事そうに抱えてるワタルが気になるのだろうか—―

 ワタルはそっと箱の蓋を開けた。

 中には、キャラクターの絵が描かれたゲーム用のカードが数枚。折り紙で折った飛行機やどこかで拾ってきた石、ラムネのビー玉などが乱雑に入っている。

 いわゆる、子供にとっての宝物だ。

「へぇ……凄いね。宝箱だ」

 男が眩しそうに目を細めて笑った。右の口角がやや上がって、白い歯がのぞく。

「……」

 ワタルは黙って蓋を閉じると、男の背後から近づいてくる母親の姿を見つけて、「お母さん」と立ち上がった。

 その声に男も立ち上がり、背後を振り返って軽く頭を下げる。

 母親も男に頭を下げた。

「ご主人から、何か連絡ありましたか?」

 そう聞かれたが、母親は黙って首を振った。

「そうですか……」

 男はそう呟くと、「分かりました。また来ます。何かあったら連絡ください」とだけ言って去っていった。

 立ち昇る陽炎の中を、男の背中が溶けるように消えていくのを、ワタルはじっと見つめていた。






 ワタルが小学校に上がってからも、あの男はたびたびワタルの家を訪れては父親の所在を尋ねていた。

 幼いながらも、自分の父親は何か良くないことをして、どこかへ行ってしまったのだという事を理解していた。

 蒸発――という言葉を、親戚たちが口にしているのを聞いたワタルは、人も煙のように消えてしまうのか……と不思議に思った。


 母親は、ワタルの前では努めて明るく振舞っていた。

 しかしある時。

 自宅の庭先で、母親が両手で顔を覆って泣いているのを、あの男がそっと抱きしめているのを見て、ワタルは何故かとても嫌な気持ちがした。

 子供ながらに、見てはいけないものを見てしまったような。

 裏切られた様な。

 複雑な感情に襲われた。


 母親が、父親以外の男の人に抱きしめられている――


 嫉妬に近い感情がムクムクと湧いてきて、ワタルは腹を立てると、それ以降、男が自宅を訪れると無視を決め込み、一切口を利かなくなった。

 それでも、男は懲りずに自分に話しかけ、笑顔を見せる。

 ワタルが気に入りそうなお菓子を、手土産で持参することもあった。

 ご機嫌を取ろうと必死になっているように感じて、ワタルはますます意固地になると、そんな男と話す母親まで憎くなり、1人部屋の隅で宝箱を漁った。

 平たい石が5個。

 父親とよく遊びに行った近くの河原で拾ったものだ。石を投げて水切りをするのだが、今よりもまだ幼かったワタルは上手くできず……

 父親が選んで拾った石を記念に持ち帰ったのだ。

「お父さん……」

 ワタルは呟いた。


 ある夜。

 ワタルは庭先で物音を聞いた。

 翌朝、起きると軒先に石が一つ置かれている。

 平べったい石。

「……お父さん?」

 ワタルは何故かそう思った。

 あくる日も、朝起きると軒先に石が一つ。

 母親は気づいていない。

 ワタルは石を宝箱に素早くしまった。心臓がドキドキする。なぜだか、誰にも知られてはいけないような気がしたのだ。

 翌朝も、同じところに平たい石が置かれていた。

 その翌日も—―



 これはもう間違いない……

 父親が近くにいるのだ。自分に会いたいと、メッセージを送っているのだ。

 きっとそうに違いない!


 ワタルは逸る気持ちを抑えきれず、宝物を入れた箱を抱えて家を飛び出した。

 河原へ続く道の途中で、まるで待ち構えていたようにあの男が姿を見せた。

「どこに行くの?」

「お前には関係ないだろう」

 ワタルはそう言うと、男を避けるように脇をすり抜けた。

「川の方へ行っちゃだめだよ。子供一人じゃ危ない」

「うるさい!ついてくんな!」

 そう言ってワタルは駆け出したが、そっと立ち止まって背後を振り返った。

 追いかけてくるかと思っていた男は、立ち止まって誰かに電話をかけている。

「……」

 ワタルは気になったが、すぐに踵を返して河原へ向かった。

 橋脚の下まで来ると、草むらの中に見覚えのある野球帽が見えた。

「お父さん!」

 呼ばれて振り向いたのは、やはり父親だった。ワタルが駆け寄ろうと一歩踏み出したその時―――

「ワタル!行っちゃダメ!」

 突然聞こえた母親の声に、ワタルは足を止めた。

 次の瞬間、どこに隠れていたのか、周囲から大勢の警察官が集まってきて一斉に父親の方へ躍りかかった。

「ワタル!こっち来い!!」

 懸命に叫ぶ父親が、目の前で警察官たちに羽交い絞めされているのを見て、ワタルは震え上がった。

 父親の手には刃物が握られている――

「もう大丈夫よ」

 そう言って自分を抱きしめる母親に、ワタルは呆然としたまま……気づけば手にしていた箱を落としていた。

 男が近づき、それを拾い上げた。蓋が開いて中身が散乱している。

 草むらに落ちた中身をすべて拾い上げて男はワタルの方へ差し出した。

 ワタルはそれを見て男を睨みつけた。

「お前――お父さんを捕まえたな……」

「ワタル君……」

「よくも……よくも……お父さんを捕まえたな―――!!」

 ワタルは母親の腕の中で暴れた。

「お前なんか大っ嫌いだ!お父さん捕まえやがって!」

「ワタル、やめて!」

「お前なんか死んじまえ!あっちいけ!大っ嫌いだ!お母さんも、みんな、みんな、大っ嫌いだぁぁぁぁ————!!」

 男の手から箱を叩き落とすと、ワタルは大声で泣き叫んだ。

 パトカーに乗せられて、父親が連行される。

 男は、叩き落とされた箱をもう一度拾い上げた。

 そして、母親に抱きしめられながら大声で泣きじゃくるワタルをただ悲し気に、じっと見つめていた。




 * * * * * * *


 ――あれから。

 20年の歳月が流れた。


 ワタルの目の前には遺影が一つ。

 当時、自分の父親を捕まえたあの刑事おとこの遺影だった。

「平岡さんは、あの事件の事をずっと悔やんでいましたよ」

 かつての同僚がそう言って俯いた。まだ50代半ばで命を落とした仲間の死を、本気で悔やんでいるようだった。

「当時の僕は何も知らなかったけど、あの後色々知って驚きました」

 ワタルはそう言って、目の前にいる同僚に頷いてみせた。

「父が会社の金を横領して逃げていた事。僕を人質にして逃げようとしていた事」

 あの日、河原で自分を手招きした父親が、包丁を握っていたことを思い出す。

 同僚は言った。

「目の前であんな風に親が捕まる所を見せてしまった事を、平岡は悔いていました。ひどい事をしたと――責められても文句は言えないとね」

「だから彼は、学費の援助をしてくれたんでしょうか?」

 ワタルはそう言って俯いた。

 自分が大学に進学する際、母親は何も言わなかったが、誰かに援助を受けたらしいと親戚に聞いた。それが後に、平岡だったと知った時、なぜ一介の刑事がそこまでするのかと訝しんだものだが……

「あの当時、彼は頻繁にうちに来てました。最初は事件の為かと思ってましたが、そのうち、もしかしたら母が目当てではないかと……子供ながらに勘繰ったりして。それであんなヒドイことを言ってしまったんだと思います」

 ワタルは幼かった自分を反省するように、苦笑いを浮かべた。

 遠くで鳴く蝉の声を聞きながら、ワタルは言った。

「母は子連れ再婚でした。だから、正確には父とは血の繋がらない親子だったんですよね――当時はそんなこと知らなかったので、どうしてお父さんが……ってショックでしたけど」

「そうでしたね……本当の父親の事を、お母さんから聞いたことは?」

「何度も聞いたんですけどね。結局一度も明かさないまま――昨年亡くなりました」

「そうでしたか。亡くなったとは知りませんでした……」

 同僚は頭を下げると、これは言うべきか言わざるべきか—―しばらく躊躇した後、おもむろに語り出した。

「実は—―平岡は亡くなる少し前に、こんな話をしてくれました」


 『自分には子供がいる』――と。


「彼は生涯独身でしたが、事情があって籍に入れることが出来なかった息子がいると話してくれました—―当時、彼があなたの家に足蹴あしげく通っていたことは知ってました。犯人の情報を少しでも早く知りたい気持ちも、もちろんあったでしょうが……今思うと」

 同僚はそう言って平岡の遺影を見た。

 そして、目の前にいるワタルの顔を凝視する。笑った時に、右の口角がやや上がる仕草。





 微かな面影が、その瞬間――ふと重なって見えた。





「彼は、どこかで生きている息子の事を、あなたに重ねて見ていたのかもしれません。罪滅ぼしをしたかったのでしょう……」

 同僚はそう呟くと、今はもう何も言わない友に両手を合わせて目を閉じた。

 ワタルもじっと遺影を見つめる。


 箱の中を見て眩しそうに笑う彼の優しい眼差しと、泣き叫ぶ自分を見ていた時の、あの悲しそうな目―――




 なぜか。

 ふと、胸が痛んだ。


 その痛みに押されるように、 一筋の涙が頬を伝う。



 泣いている母親を優しく抱き寄せていた平岡の姿。

 あの日見た光景が、なぜだか今は穏やかな光に包まれていた。


(―――)


 蝉の声が遠ざかっていく。








 夏がもう終わる———







 ……END





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