アスファルトのアイス

福田

アスファルトのアイス

 夏のビル街を小学生の息子と二人で歩いていた。息子は帽子を被っていて、重そうなリュックも背負っていた。何をそんなに持ってくるものがあるのだろうと思ったが、思えば自分も小さい頃は、必要のないものを「使うかもしれない」となんでも思い込んで、カバンにこれでもかと詰め込んでいたなというのを思い出した。もしかしたら小学生はみんなそうなのかもしれないが、それでも自分と似たような行動をとっていることが私にはとにかく可愛かった。


 その日は自分の実家に一緒に行く予定で、息子は初めての電車も経験した。電車という未知の乗り物に対して抱く恐れと幼い好奇心、そういった感情をあどけない彼の表情に感じて、こういうのは変な表現かもしれないが、なんだか神秘的なものを感じた。彼は今、未知へ対して果敢にも挑んでおり、そのことを思って私は電車の中で涙を流しそうになった。それは大袈裟で恥ずかしいことでもあったが、それ以上に彼の成長の記憶が涙という形で保存されることが嬉しくもあった。


 コンクリートジャングルの大通りで、息子は私の手を引く。いつもは車で連れてきていた実家。車窓から見える景色から、実家までの道のりをうっすらと把握していたらしい。それからしばらく歩き、コンビニの正面に来たところで息子は突然止まった。



「あれ、アイスじゃない?」



 私は、車道の中央、白線の上にピンク色のアイスが置かれているのを見た。少し大きめのアイス。熱せられたアスファルトの上にそれは置かれていた。しかし、アイスは綺麗なドーム状を保っていて、遠くからでも冷やされた白い水蒸気だったものがゆらゆらと上っていくのが見えた。視界を横切る無数の車はそのピンク色のアイスを綺麗に避けて走っている。


 どうやってそこにアイスが置かれたのか。はじめ、車窓から落ちたとしか考えられないと私は思った。しかし、落ちたアイスがあんなに綺麗なドーム状をするだろうか。しかも溶けることなく、形を保ち、冷えたままだ。本当にそれがアイスなのかとも疑ったが、それは何度見ても間違いなくアイスだった。



「ねえ、なんであそこにアイスがあるんだろう?」



 おそらく、私はこれを息子にとって教育的で知的な体験にしようと思ったのだった。そういうことを画策する時の人間ほど生き生きとしているものはないと思うし、同時にそういう人間ほど傲慢なものもないと思われる。私は「わからない」という代わりにこう言った。



「逆に、颯太はなんであそこにアイスがあるんだと思う?」



 息子は少し考え込んで、微妙な表情を浮かべてこう言った。



「やっぱり、あそこにアイスがあるってだけでいいんじゃないかな」



 私は驚いた。想像もしなかった返答だった。



「それは、つまりどういうこと?」



「なんか、なんとなくね。アイスがある。このあるっていうのに、特別に何か見出さなくてもいいのかなって」



 息子はそれ以上言わなかった。私は少しの間呆然としてしまった。なんだか、無数の波、未知に飲み込まれた感覚がした。とにかく、私は言葉を失ってしまった。



「ねえ、そんなことよりさ」



 息子はそう言って、コンビニを指さす。



「暑いから、飲み物買ってくれない?」



「ああ……そうだね。すぐ買おう」と私は答えた。



 コンビニで二人分のお茶を買って、私たちは実家への道のりに再び戻った。




 *




「颯太も、大きくなったねえ」と母が言う。息子は気恥ずかしそうに、嬉しそうにして、彼の祖母に対して笑顔を見せていた。



「最近、体調はいいの?」と私が母に聞く。



「それがねえ、最近はずっといいのよ」と母は言う。



「そう、何より」と私は言った。



 母は笑みでそれに返答した。そして息子に対して言った。



「颯太、アイスあるけど食べる?」



 アイス、という言葉を聞いて、私は自分の体に緊張が走るのを感じた。それはちょうど、不意に訪れる死への恐怖とよく似たものだったかもしれない。私は「アイス」と思わず呟いた。



「あんたも食べる?」と母が聞く。



「え、いや……いいよ」



「ねえ、あんた急に表情暗いけど、大丈夫?」



「大丈夫……俺、先にお線香あげとくね」



 息子がアイスを受け取って、私は仏壇の前に座った。父親の写真がある。

 私はその時考えた。私が今から祈るのは一体誰なのだろう。父親に対してか、神仏に対してか、それとも、何か全く違ったものに対してだろうか。仮に全く違うものだったとして、全く違ったもの、とは何があり得るのだろう。


 私はライターの火をつけ、線香にそれを灯し、それを香炉に差し、棒をお椀状のそれに打ちつけた。



 私は、手を合わせる。



 その時、私はふと、祈りとはあのアイスなのではないかと思った。


 中央にどんと構え、車をかわして、暑さにも影響されず、一切の独立を保って、自身の形を保っているあのピンク色のアイス。祈りとは、独立なのではないか。祈りとは、外界の影響を遮断するあのアイスのような営みではないのだろうか。



 そうだ。そうに違いなかった。



 なぜ、そのようなことを考え出したのか。そもそも人の思考は四方八方に飛躍していくことが当たり前であり、そんなことを考え出すのはナンセンスだった。しかしその時は、その意味がひどく重要に感じられたのだった。というより、その意味にすがるような感覚があった。


 きっとこれは定められた運命的、必然的な発見だったのだ。私はそう結論づけた。


 そんなのはファンタジーの世界でしかあり得ないのではないかとも思われるかもしれない。

 しかし、実際世界ではそういう運命や必然が信じられていて、だからこそいろんな社会システムや人生そのものが機能しているのではないだろうかと私は考えた。


 必然的に道徳は存在し、歴史は存在し、成功は存在し、生きがいは存在する。そういうものを失えば人間は正気を保って生きられないのではないだろうか。




「なあ、颯太」



「何? お父さん」



「アイス、美味しいか?」



「普通」



「普通って。おばあちゃんせっかく用意してくれたんだから。そんなふうに言わないの」

 私はそう言って笑った。



「でも、普通に美味しいよ」と息子が言う。



「そう。美味しくて、おばあちゃんも嬉しいわあ」と母は言う。



 私は息子の表情を見る。



「颯太、さっき、道路にアイスが落ちてただろう?」



「ああ、そうだったね」



「お父さんが思うに、あれはきっと何か理由があるんだ」



「理由?」



「そう。理由。何か理由があって、アイスはあそこに落ちてしまった」



「何か理由があって……それはどういう理由なの?」



「いや、そこまではわからないけどさ。とにかく、理由、というか意味があったんだよ」



「そんなの、当たり前じゃない?」



「当たり前?」



「理由があって何かが起こるって、当たり前じゃない」



「ああ……それもそうか。確かに」



「お父さん、なんか変だね」




 私はそれに返答できなかった。息子は不思議そうに私を見ていた。しばらく沈黙は続いた。


 そして、同様にして不思議そうに、気まずそうに見ていた母が「颯太、おばあちゃんとオセロしない?」と聞いた。


 オセロ。オセロとあのアイスは、決定的に異なっていた。無論オセロとアイスなのだから、それは当たり前のことだったが、それ以上の違いがそこにはあった。しかし、私はそれ以上、それを詮索するのをやめた。


 それからの実家滞在を息子はオセロをして、私はほとんど寝て過ごした。




 *



 実家からの帰路、電車の中で、息子は車窓から風景を見ていた。



「ねえ、お父さん」



「どうした?」



「あそこにビルが見えるでしょう」



「うん」



「あっちには雲が見える」



「うん」



「太陽もある」



「それがどうしたの?」



「全部、あの落ちてたアイスと同じなんじゃないかな」



 ————アイスと同じ?



「そういえば帰り道、あのアイス確認しなかったね」



 確かに、アイスがまだあるか、確認するのを忘れていた。というか、確認する予定もそもそもなかった。



「あのアイス、今もあそこにあるのかな」



「どうだろう。わからない」



「ねえ、お父さん」



「なに?」



「宿題持ってきたんだけどさ、結局やらなかったね」



「ああ、オセロに夢中だったもんな」



「でも、オセロは勝ったよ」



「それはすごいな。おばあちゃん結構強かったんじゃないか」



「うーん、普通だったよ」



「そうか、普通か。次はお父さんともやろうな」



「そうだね」



 息子はまた車窓を覗き込んだ。

 そうか、息子は今日初めての電車なのだった。さっきまでは疲れからか、それを忘れてしまっていた。だから、こんなにも熱心に景色を眺めているのか。


 息子はやはりあどけない表情をして、ただ車窓から見える世界を観測していた。息子のみる世界を私はどうやっても見ることができない。それがこんなにも虚しいのかと私は感じた。


 地平線に近くなった太陽は、息子の横顔を赤く照らしていた。


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